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瀬戸の波  作者: 河杜隆楽
4/8

汚れた刀

謀略編最後です。なるべく読みづらい文字にはルビを振っておきました。どうぞお楽しみください。

  瀬戸の波  -汚れた太刀-


 〈石見国 大内方本陣 (天文23年睦月 西暦1554年)〉


 陶晴賢は焦っていた。まさかこれほどまで吉見家が抵抗するとは、と。ここ一か月は前線に奮起を促しに行くのが日課になっていた。今日も「馬を出せ」と、彼の号令が響く。そんな彼を笑うかのように、透き通るような日本晴れの空と白い化粧を施された山々が、馬上の人になった彼の目に飛び込んできた。

すべての兵士が疲労困憊(ひろうこんぱいしている、これが次に彼の心をとらえた光景であった。皆一様にがたがたと震え、浪費ろうひを禁止しているたきぎを惜しげもなく使った焚き火の周りで固まっていた。先月までは晴賢など重臣の姿を認めるとあわてて消す者が多かったが、年を越した今月に入るとそんな者はいなくなった。その代わりに、彼らは重臣の姿を見ると軽蔑けいべつが混じった目で睨み付けてくるようになった。誰しもがこれ以上の滞陣を


(無理だ)


と感じていた。

 だが晴賢は自己の判断に間違いはなかった、とまだ信じていた。実際途中までは成功していたのだ。話を戻すが、去年の収穫前に行った召集は結局のところ失敗に終わった。重臣たちを除く周辺の小領主がこぞって反対し、従軍を拒否したのだ。そのため晴賢もしぶしぶ諦め、先発軍も獲得した領土を手放し、帰還した。しかし晴賢の執念は凄まじかった。

 去年の10月、晴賢は突如として石見に侵攻した。自分や側近らの軍勢をあらかじめ集めておいたのが成功したのだ。撤兵てっぺいに安心して今年はもう攻めてこないと、紅葉を楽しむ気分でいた吉見正頼ら石見の諸将はこれ以上ないほど驚愕きょうがくした。そしてあっという間に石見西部の諸城は落とされていった。この晴賢の成功の尻馬に乗ろうと各領主が参戦し、着陣するなり彼らは口々に晴賢を褒め称えた。晴賢は鼻高々であった。

 11月、連戦連勝のまま吉見氏の本城、三本松城にたどり着いた。晴賢ら大内方は戦の終わりを確信した。しかし、これから100日を超える籠城に成功するとはだれが予想しただろうか。大軍が展開できない地形、遠征のため不足する食糧、そしてやっと来た冬将軍が吉見正頼に味方した。今まで勝ってきた反動もあるのか、大内方の士気の低下は目も当てられぬほど酷く、先ほどの状況になることは晴賢自身予測できてしまった。


(一体何を間違えたのだ…)


 兵士たちの非難の視線に耐えきれず、晴賢はこの日激励する気も失せて、自陣へ戻っていった。


 陣に帰った晴賢は客が着いたことを告げられた。滞陣のため借りている屋敷に向かうと、客間には髪も髭も苔のように生えている策彦周良が座って待っていた。彼はコクリコクリと眠りかけていたが、連れの僧侶に袖を引かれ、ゆっくりとまぶたを上げた。

 この僧侶の名を皆さんは聞いたことがないだろうが、まぎれもなくこの時代を代表する人物であるそうだ(実は私自身最近知ったが)。武士が禅宗を信仰していたこの時代、大内氏もまた信仰が厚かった。大内文化の最盛期を築いた大内義隆が保護した一人だった。二度の渡明ができたのも、遣明船を手配してくれた義隆の援助があってこそだった。その際の旅行記である『策彦入明記』は最後の遣明船の記録として現代の歴史学に貢献している。一方で、二度の遣明船で正使の役割を果たした実績は陶政権でも重視され、義隆の死後に他の文化人が追放される中、まだ保護の対象として山口に滞在していた。

 今回、石見の山奥に呼び出されたのも、彼の外交力をあてにしてのことだった。晴賢は席に着くなりねぎらいの言葉をかけた。


「周良様、はるばる石見くだりまでお越しいただき有難うございました」

「いや、なに。無益な殺生を止めるためなら喜んで、参りましょうぞ」


 何を言いやる、と晴賢は心の中で毒づいた。彼も信心深くはあったが、義隆が好んだものは人であれ何であれ憎しみの対象でしかなかった。


(金まみれのくそ坊主が)


 もっともこのような考えをおくびにも出さず、晴賢は笑顔を浮かべて言った。


「素晴らしきお言葉でございます。いやはや、さすが吉見殿といったところでしてな。攻め続けて三月余り、恥ずかしながら落とすことができませぬ。こちらとて穏便に済めばそれに越したことはないのでして、つきましては周良様に和睦わぼくの仲立ちをしていただきたく存じます」

「分かりました。微力びりょくながら頑張ってみましょう」


 ただ、と周良は注意した。


「あなた様と吉見様には確執かくしつがおありと存じております。交渉が長引いたりしても焦らずお待ちいただきますよう、お願いいたします」

「あい、分かりました。重ね重ねお頼み申す」


 嫌いな相手とは話したくないのは古今東西同じようで、晴賢もさっさと話を切り上げ立とうとした。が、「あのう」と声がしたため、上げた腰をまた下ろした。


「まだ、なにか?」

「はい。山口の公家衆からお頼みを預かっていましたので。率直に申し上げますと、もう少し保養費を上げてもらいたい…」


 その言葉を聞いた途端、晴賢の顔から微笑が消え、眼光が鋭くなる。もはや激怒寸前と言っていいその表情を見て、連れの僧侶や隣で控えていた小姓は震え上がるが、当の周良自身はさすがというべきか、まったく動揺せずに「お願い申し上げます」と頭を下げていた。晴賢は何も言わずにスッと立ち、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 今更だと思うが、晴賢は最初から義隆を憎んでいた訳ではない。彼を謀反に駆り立てたのは、相良武任ら文治派と義隆の都道楽である。この時代では珍しいことに、義隆は歴代の大内家の当主の中で最も文化的教養があり、多くの文化人を保護した。その費用は莫大ばくだいで、その代償となったのが戦費であった。元々義隆とは衆道しゅうどうの仲(*衆道とは男性の同性愛)であった晴賢には、これら義隆の行為は“裏切り”のように感じた。愛情余って憎さ百倍と言ったとこであろう。晴賢が義隆の保護した文化人を憎く思うのは当然であった。


「隆正、あの糞坊主の相手をしておけ!」


 どすどすと廊下を歩く晴賢に、隆正はにじり寄る。


「あのう、晴賢様…」

「なんだ!」


 まだこんな用があるのかと、怒鳴る晴賢。隆正はびくびくしつつも言った。


「もう一人、客人がお待ちです」

「む?」


 晴賢が客間とは離れている広間へ入ると、妻の弟である内藤隆世が深刻な顔で坐っていた。隆世は晴賢の最も信頼ある配下の一人として、今回の戦では長門の守護代として留守を任されていた。


「隆世か。何用で参った?」


 隆世の顔を見て、晴賢は山口で重大な事件が起こったことを察した。隆世は重い口を開く。かたわらに一通の書状を置いていた。


「義兄上、実はこのような書状が我が家に届けられまして」

「どのような内容じゃ?」


 隆世は話すより直接読んでもらった方が早いと思い、晴賢に書状を渡した。書状の表には『内藤隆春殿』と書いてあった。


「隆春とはお主の叔父ではないか。どうしてお主が持っている?」

「我が屋敷の門番が申すには商人のていをした者が持ってきたそうですが、どうやら我が屋敷を叔父上の屋敷と間違えたそうです。門番も『内藤さまのお屋敷ですか?』と聞かれたので間違いだとは思わず、受け取った次第にございます」


 晴賢が書状を読む。すると晴賢ほど剛毅ごうきな人ともあろうが、見る見るうちに顔を青ざめさせ、読み終わる頃には唇を噛み締めて、信じられない、といったような表情を浮かべていた。

「義兄上、私もこの書状の内容を深刻に受け止め、できる限りの手を打ってからこちらに参りました。……如何しましょう?」

「もちろん二人には問い詰めなければなるまい。…しかし……まさか本当に寝返るとは…」

「義兄上のお気持ちお察しします。しかし、これは紛れもなき事実。以前、隆正の報告を聞いた時、私であればすぐさま二人を問い詰めました。だが、問い詰めるまでもなかったようでございます。このような証拠が出てきた今、もはや裏切りは疑いようがありません」

「しかし……そのようなことが…」

「義兄上、決断してくださいませ!」


 体をにじり寄せ、決断をせまる隆世。晴賢は傷心した姿でこの部屋を後にし、去り際に「少し待て」と言った。さすがの隆世も義兄の後を追うことはしなかった。


 翌朝、陣中を巡回していた弘中隆兼は晴賢から呼び出しを受けた。朝から雪が降る寒い朝だった。何事かと思い、長い戦いで疲れ切った体を揺らしながら晴賢の本陣におもむいた。そこには晴賢の姿は無く、代わりに内藤隆世とその隣に隆正の姿があった。


「隆世様、一体何事でございますか?」


 自分の甲冑かっちゅうの肩についた雪を落とした隆兼は、隆正が差し出した床几しょうぎの一つに坐り込んだ。上座の方で立つ隆世は無表情のままだった。


「弘中隆兼、お主を問責の使者に任命する」


 と、口を開いた隆世は晴賢の命令書を手に持ち、言った。


「…分かりました。誰に対する問責の使者でございましょうか?」

「江良房栄じゃ。奴には“謀反”の嫌疑がかけられている」


 言われた瞬間、隆兼の思考は凍りついたかのように止まってしまった。そして隆世から受け取った命令書を食い入るように見た。危うく「ふざけるな!」と言いかけそうになる自分を押しとどめ、それでも荒くなる口調で問うた。


「ど、どういうことでございますか!?房栄殿は大内家屈指の忠臣でありますぞ!」

「黙れ!これを見よ!」


 隆世から叩き付けられた書状を急いで拾い見ると、毛利元就が内藤隆春にてた書状だった。


「『江良房栄殿から謀反者の排除に協力を求められ候。おそらく石見への遠征中にことを起こすと見ゆ。その真偽を確かめられたく候…』こ、これは!」

「間違いなく、謀反の証拠ですな」


 代わりに隆正が答える。その顔はなんだかうれしそうな表情が見え隠れしていた。


「分かったであろう。房栄めは裏切る算段をしておる」

「隆世様に申し上げます!繰り返すようですが、房栄は忠臣の中の忠臣にございます。だ、第一、これまで大内家のために命を張って尽くして…」

「“義隆様のため”であろう。義長様の代になってからまだこれといった功績をあげていなかった」

「それは成り行きで…」

「くどいぞ、隆兼!即刻出立せよ!」


 隆世は聞く耳を持たず出て行った。追いすがろうするのを隆正に食い止められた隆兼は呆然ぼうぜんとその場に立ち尽くした。


「隆兼様、少しお話が」


 隆正の言葉にハッと我に返る隆兼。


「黙れ黙れ!貴様が一枚かんでいることなど見え透いておるわ!房栄殿が失脚すれば、貴様ら晴賢様の直臣の株も上がろうというもの、それを見越しての讒訴ざんそだな!」

「隆兼様、口が過ぎますぞ。まるで晴賢様が我々に騙されているような口ぶり…」

「その通りではないか!」


 隆兼の言葉にため息を漏らす隆正。


「そのようなことを申されては晴賢様のお目こぼしをふいにするようなもの」

「ん?どういうことだ?」


にやりと笑った隆正は耳打ちするかのように、隆兼のそばに寄った。


「隆兼様は房栄様とはご昵懇じっこんであられましたな、ここ最近も房栄様が訪ねていらっしゃったとか」


 隆正の発言に「まさか」と隆兼はつぶやく。


「儂にも、嫌疑がかかっているのか」

「はい」


 頭を抱える隆兼に隆正は追い打ちをかけた。


「隆春様を始め、多くの方があなた様も房栄様の仲間と思い晴賢様に進言なさいましたが、晴賢様はそれを退けられました。いやあ、それほどまでの信頼を得られておいでとは、実にうらやましい限りです」

「笑うな、隆正!そうやって余裕を見せるのも今のうちぞ!すぐに山口に赴き、房栄殿の嫌疑を晴らして見せよう。」

「……隆兼様、何か勘違いしておられますな」

「?」

「房栄様の嫌疑、もう晴れることはございませぬ」


 外ではいつの間にか風が強まり、横殴りの雪が庭の木々を叩く音がする。隆兼の驚く表情を楽しむ隆正は、もはや笑みを隠してはいなかった。


「やはりお分かりになってはいなかったようですねぇ。江良様の裏切り、これは晴賢様の認めるところにございまする」

「う、嘘だ」

「嘘ではござりませぬ!そして、隆兼様に“討伐”を命じたわけでございます」


 蒼白になった隆兼の表情は、また隆正を楽しませることになった。


「わ、儂は“問責”を命じられたのだろう…」

「隆兼様、あなた様を疑う隆世様方は晴賢様の決定に従われましたが、一つ代案を出されました」

「代案!?」

「その内容とは、隆兼様、あなた様に江良様を討たせることにございます」


 膝から崩れ落ちる隆兼、見下す隆正。両者の力関係はすっかり逆転していた。隆正にはそれが何よりの褒美であったことだろう。

 しばらくその姿を眺めていた隆正が出て行こうとすると、隆兼はそれに気づき、急いですがりつく。


「頼む、晴賢様に会わせてくれ!」


 見下す隆正の目に笑みの色は無く、軽蔑の色しかなかった。


「それはなりませんな、隆兼様。もはや晴賢様に会うことも近づくこともできません」

「お主の力なら何とかなるだろうが!頼む、この通りだ…」


 地面に額をつける隆兼。その姿にため息を漏らす隆正。


「あなた様ほどのお方なら、もう無駄であることぐらい分かっておられるでしょうに。隆兼様ができることは、裏切者を討ち嫌疑を晴らすか、弘中家ごと江良家と心中するか、それのみです」


と言うと、隆正は静かに方向を変え部屋を出て行こうとする。ふすまをあけると振り向き、まだこちらを見ている隆兼を見下し、言う。


「もっとも、隆兼様ならどちらが賢明かはお分かりかと思いますが」


襖のしまる音。取り残される男一人、うつむき、立ち上がる様子はない。外の吹雪の音はますます強まり、部屋全体を包み込んでいた。


 〈岩国 琥珀院〉


 少し雪が混じる山道、じゃりじゃりと歩く一行は口々に言葉を交わし楽しげであった。琥珀院へと続く参道は笑い声にあふれていた。


「隆兼殿、晴賢様も粋なお方であられる。まさか椿見物に招待され、お主ほどの人物が接待役になってくれるとは」

「いやはや、急に言われた時にはびっくりしたぞ。『前線に兵を残して、お前だけ房栄を接待しに行け』とは、冗談かと思ったぞ」

「ご苦労様だな。次は儂が接待してやるぞ」

「それはそれは、楽しみじゃ。とりあえず今回は存分に楽しんでくれ」


 笑う房栄と隆兼、その後を江良一族と少し多すぎるくらいの隆兼の家臣団が続く。嘘かと思うぐらい青い空が、山の上に広がっていた。

 一行は琥珀院に到着すると、すぐさま咲きほこった椿を見に行った。庭を赤と白に彩る椿は美しく、皆その見事な景色に酔いしれた。隆兼は「食事の準備ができているか見に行く」と言ってその場を離れた。琥珀院の裏門に近い、目立たぬ部屋へ向かった。


「隆兼様、お待ちしておりました」


 そこには晴賢の側近である柿並隆正と山崎隆方がいた。無表情で居座る彼らの前に、隆兼も表情を変えずに坐った。


「首尾はいかがでしょうか?」

「…問題ない。大丈夫だ」

「それならばよいかと」

「さすがは隆兼様、智将と呼ばれるだけはありますな。このような策を思いつかれるとは、感服しました」


 褒める隆方を隆兼は睨み付ける、しかしその眼には全く力がこもっていなかった。


「では、我々は見届け役としてここにおりまする。事が済むまでここにおりますので、終わり次第呼んでくださいませ」

「…分かっておる」

「あと、申し遅れましたが、事を成す前に房栄様と二人で会われませ」

「なぜじゃ」

「一応“問責”という任務ですので、形だけでも…」

「………分かった」


 日が沈みかけた頃の琥珀院の庭は赤い椿も白い椿も赤らめた顔を見せ、庭に置き忘れた雪の絨毯じゅうたんの上に残る椿もまた鮮やかに染まり、もの悲しくも、昼とは異なる装いにため息が漏れる。房栄もこの寒い中、障子を開けたまま火鉢ひばちの隣でそれを楽しんでいた。隆兼は酒と杯を二つ、自ら持って部屋に入ってきた。


「隆兼殿、いやぁ、これは見事。絶景ですな」

「そう言ってくれるとありがたい。ここを選んで正解でしたな」


 房栄に杯を渡し、酒を注いでやった。少し舐めるように口をつけた房栄は急に笑い出す。


「…ふふふ……」

「どうした?」

「いや、なに。これが最期の酒かと思うと、つい…」


 房栄の言葉に驚愕する隆兼。山の向こうでは太陽がこの日最後の輝きを見せていた。


「房栄殿、知っておられたか!」

「此度の遠征を外され、屋敷の周りには多くの見張り。そして妙な時期に妙な場所で一族全員をもてなされる……これで分からぬ者などいまい」

「どうして、逃げてくれなかった!」

「気づいた時にはもはや逃げられぬ状況ではなかった。妻の里帰りさえ許されなかった」

「………」

「だが、息子の彦二郎だけは逃がしてやることができた。今は兄上の賢宣のもとにいるだろう」

「!!…じゃあ、今日連れてきた、あの子供は…」

「身代わりじゃ。これで、心残りはなくなった。仲が悪い兄上までは嫌疑はかかるまい」

 太陽はもう地平線の彼方に沈み、夜が夕空を食らっていた。言い終えた房栄は達成感に満ちた穏やかな顔をしていた。しかし隆兼は食い下がる。


「ここから海岸へ出て船を使って海に出れば、安芸の毛利の領内に逃れることができよう。後は儂が何とかする。逃げてはくれまいか」

「無理じゃ、お主でも何ともできまい。第一、お主とて疑われているのだろう。前線に将兵を残していったのもそれが原因じゃろう」


 日が完全に落ち、部屋を照らすのは火鉢の明かりだけとなる。だが房栄は隆兼が泣いているのが分かった。それでも、と隆兼は声を絞り出す。


「それでも、房栄…お主には何の罪もないんじゃ……頼む、生きてくれ…」


 夜の闇の中、房栄の目には落ちた白い椿の輝きが映った。太陽の光に隠れていた月が遠い空に見えた。


「隆兼殿、それは無理じゃ」

「なぜだ!」


 隆兼の方に振り向く房栄。房栄も静かに泣いていた。


「儂はな…大内家の、江良房栄じゃ……それ以外には…なれない…」


 その夜、酒宴の場に武装した弘中家の家臣が切り込んだ。江良一族やその家臣は必死に防戦するも、多勢に無勢、全員討ち取られた。当主の房栄は、今までの功績に免じて、捕えられた後に切腹を許可された。介錯は弘中隆兼。見事な切腹だったと伝えられている。見届け役が確認した後、僧侶達に依頼して後始末を頼み、一行はすぐさま山口へ出立した。


「殿、出立の準備ができました」


 椿の庭にたたずむ隆兼、呼ばれても返事を返さず、月を見続けていた。


「殿?」


 不審に思う家臣。すると突然、隆兼は自分の刀を抜き、庭に置かれてある岩に叩き付けた。


「殿!何をなさいますか!」


 家臣の制止も聞かず岩を殴り続ける。殴る、殴る、殴る。そしてとうとう真ん中から刀が折れてしまった。隆兼は憤りを発散したりない様子で、手に残った柄を投げ捨てた。唖然とする家臣を後目に隆兼は部屋に上がり、荒い息のまま屋敷の奥へと消えて行った。


 ようやく春が近づいていた頃、庭で若い僧侶が掃除をしていた。あのような忌まわしい事件で出た死者の葬儀が終わり、ようやく落ち着きを取り戻した頃だった。ふと、その僧侶は庭に光るものを見つけた。岩の陰に分かりにくかったが、それは壊れた刀だった。長い間雪の下にあったからか、ほぼ全体に錆が回っていた。その色はこの間まで咲いていた椿のように赤かった。だけどもう二度と使えない、汚れた刀だった。




最長記録です。疲れた~。読者の皆様もお疲れ様でした(笑)

次は作者初の合戦シーンです。もっと短くなりますので安心してください。

ではまた今度。今回も読んでいただきありがとうございました。

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