私の居場所を奪った貴女
「先生って、貴族だったくせに地味すぎ」
授業が終わったあとの教室で、ミーナが頬杖をつきながら言った。
「今日の服もひどいわね。灰色の袋でもかぶってるみたい。鏡、見たことある?」
ピンクブロンドの髪を揺らしながら、彼女は遠慮なく笑った。
孤児院の子どもとは思えないほど整った顔立ちをしていて、背も高く、年齢よりもずっと大人びて見える。
本人も、自分にはどこか貴族の血が入っているに違いないと信じていた。
「いいのよ。勉強を教えるのに、おしゃれは必要ないわ」
「そうやって、すぐ諦めるところが嫌い」
「諦めているわけでは……」
「本当、先生って勉強を教えることしか能がないよね」
さすがに何か言おうと、わたしが口を開きかけたときだった。
教室の扉から、院長先生が顔を覗かせる。
「まだ残っていたのですか、ミーナ」
それまで机に頬杖をついていたミーナは、すぐに姿勢を正した。
「はい。先生に、分からないところを教えていただいていました」
先ほどまでの嫌味が嘘のような、にこやかな笑顔だった。
ミーナは椅子から立ち上がると、きれいに裾を整え、わたしに向かって頭を下げる。
「先生、今日もありがとうございました」
院長先生にも丁寧に礼をして、ミーナは教室を出ていった。
院長先生は、感心したようにその背中を見送った。
「あなたが来てから、子どもたちの成績も上がりましたし、立ち居振る舞いもずいぶん綺麗になりました」
「皆、真面目に授業を受けてくれるからです」
「そんなことはありません。特にミーナは、すっかりお嬢様のようですね。あなたにも、よく懐いているようですし」
「……そうでしょうか」
わたしは曖昧に笑った。
この孤児院に来て二年が経つが、ミーナはずっとこんな調子だった。
王都へ戻らない理由を誤魔化せば、
『家族に捨てられたの? それとも、先生が捨てたの?』
と、笑いながら聞いてきた。
わたしの髪飾りがなくなったこともある。
数日後、それはミーナの髪に挿されていた。
『いいでしょ? ちょっとくらい貸してくれたって。それに、私のほうが似合うもの』
そう言って返そうとせず、その髪飾りは今も彼女の髪にある。
「ミーナは、今年で十六になりますね」
わたしが言うと、院長先生の表情が曇った。
「ええ。そろそろ、この孤児院を出たあとのことを考えなければなりません」
院長先生は困ったように息を吐いた。
「ただ、このあたりでは選べる仕事も多くありません。あの子なら、どこへ行ってもうまくやるでしょうが……」
ミーナは、孤児院にいる子どもたちの中でも飛び抜けて優秀だった。
頭の回転が速く、人の顔色を読むのがうまい。
相手によって言葉も態度も変えられるし、媚びるべき相手と、切り捨てるべき相手を本能で見分ける。
わたしは、ミーナが出ていった扉へ目を向けた。
「わたしから、一つ提案があります」
◆
翌日、わたしは私室にミーナを呼び出した。
ミーナは部屋へ入るなり、辺りを見回した。
「先生、何? わざわざ呼び出して。昨日のことで説教でもするつもり?」
用意していた紅茶の前に座っても、視線は棚や衣装箱へ向けられている。
「というか、本当に何もないのね。ドレスは? 一着くらい持っているんでしょ?」
「ここでは必要ないもの」
「またそれ。必要ない、仕方ない、もういい。先生って、そればっかり」
わたしは小さく息を吐いた。
ミーナに令嬢としての作法を教え始めた頃から、考えていたことだった。
いざ口にしようとすると、胸の奥がわずかに震える。
「ミーナ。あなたを、ヴァレンティア侯爵家に養女として迎えてもらえないか、話をしてみようと思っているの」
ミーナは目をぱちくりさせ、それから鼻で笑った。
「は? 無理でしょ」
即答だった。
「ヴァレンティア侯爵家って、あの名門じゃない。孤児の私を、どうして紹介できるのよ」
「家名まで、きちんと覚えていたのね」
「これくらいで褒めないでよ。そんな話を持ち込める伝手なんてないくせに」
「あります」
「没落貴族のくせに?」
「……ミーナ。わたくしは、ヴァレンティア侯爵家の娘です」
ミーナの指が止まった。
「は……?」
ミーナは、わたしの顔をまじまじと見た。
「嘘でしょう」
「本当よ。……あなたが着けている髪飾りを見てみなさい」
ミーナは訝しげに眉を寄せながら、髪から飾りを外した。
表から見れば、少しくすんだだけの銀細工だ。
裏返した瞬間、ミーナの表情が変わった。
そこには、ヴァレンティア侯爵家の紋章と、わたしの名を示す頭文字が小さく刻まれている。
「母から贈られたものよ」
ミーナは髪飾りとわたしの顔を、何度も見比べた。
「……なんで、そんな家の娘が、こんな場所で勉強を教えてるの?」
わたしは窓の外へ目を向けた。
山に囲まれた、小さな孤児院。
傷んだ机。何度も縫い直したカーテン。冬になると、隙間風が入ってくる教室。
ここは王都から遠い。
だから、わたしはここを選んだ。
「わたくしは、王太子殿下の婚約者だったの」
ミーナの表情が消えた。
「……先生が?」
「ええ。五年前、ある令嬢を虐めたと決めつけられ、婚約を破棄されたわ」
五年前、王宮で開かれた祝宴。
王太子殿下は、大勢の前でわたしを責めた。
『リベルタを傷つけ、追いつめたのだろう。そのような者を、妃にすることはできない。彼女といると、私は心から笑うことができる。君とは違ってな』
殿下の隣に立っていたリベルタは、涙を浮かべながら頭を下げた。
『セシリア様、申し訳ありません。あなたの居場所を奪うようなことをしてしまって……。ですが、殿下のお心に寄り添えるのは、わたくししかおりませんの』
彼女と親しくしていた令嬢たちも、口々にわたしを責めた。
『いつもリベルタ様は、セシリア様に怯えていました』
『階段から突き落としたのでしょう』
話を聞いていたミーナが、ぽつりと言った。
「先生、やるじゃない」
「落としていないわ」
「え? してないの?」
「すれ違うとき、向こうからぶつかってきたの。わたくしは避けただけよ。リベルタ様は、そのまま自分で階段から落ちたわ」
「はめられたのね。ださ」
「……」
「私なら絶対に言い返してるわ。私はやってません、証拠を出してください、そっちこそ婚約者のいる男にくっついてたんでしょうって」
「そうね。その通りよ」
あのとき、頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでいた。
それを口にして、自分の正しさを訴える気力が、もう残っていなかった。
王太子妃教育を受けながら、王宮から回される事務までこなし、どんな場でも完璧な振る舞いを求められていた。
毎日を乗り切るだけで、精いっぱいだった。
リベルタと王太子殿下の関係にも気づき、何度か注意した。
そのたびにリベルタは泣き、王太子殿下はわたしを責めた。
もっと寛大になれないのか。
王太子妃となる者が、その程度で騒ぐのか。
そう言われ続けるうちに、わたしは何も言えなくなっていた。
「だから、あなたを実家へ迎えたいと思っているの」
「……ふうん……」
ミーナの指は、カップの縁をなぞり続けていた。
「嫌かしら」
「そんなこと言って、私をここから追い出したいだけなんじゃないの」
「そんなことはないわ」
「じゃあ、先生も帰るの?」
「わたくしは、ここに残ります」
「……やっぱり」
「ミーナ?」
「先生、私に自分の代わりをさせたいだけなんでしょ」
「違うわ。あなたにとって、それが一番いいと思ったからよ」
「侯爵家の娘として失敗したから、今度は私を送り込んで、うまくいったら満足するんでしょう?」
「そんなつもりは――」
「気分悪い」
ミーナは立ち上がった。
椅子が床を擦り、鈍い音を立てる。
「ミーナ、待って」
「嫌」
「これは、あなたにとっていい話よ。よく考えて」
ミーナは扉へ向かいかけ、足を止めた。
振り返らないまま、低い声で言う。
「先生って、本当に勝手ね」
「……ごめんなさい」
「謝ればいいと思ってるところも嫌い」
そう吐き捨てて、ミーナは部屋を出ていった。
◆
その夜、わたしは机に向かい、便箋を前にしたまま息を吐いた。
ミーナの言ったことは、あながち間違っていない。
自分が果たせなかった役目を、彼女なら果たせるのではないか。
そんな思いが、まったくないわけではなかった。
それ以上に、あの子の才能を、この辺境で埋もれさせたくなかった。
ミーナなら、王都でも自分の居場所を作れる。
そう信じて、わたしはペンを取った。
宛先は、クラウディアス公爵家。
公爵家の嫡男であるエリアス様は、幼い頃からの知人で、かつて憧れていた相手でもあった。
婚約破棄された夜、彼には何も告げずに去った。
今さら頼る資格などない。
だけど、ミーナを王都へつなぐには、彼に頼るしかなかった。
書き終えた手紙を読み返し、しばらく動けずにいたが、やがて封をした。
◆
数日後、クラウディアス公爵家の馬車が、孤児院の前に止まった。
案内した応接室は、最低限のものが置かれているだけの部屋だ。
古い長椅子に、傷のついた卓。壁際には、寄付で集められた本が並んでいる。
「お越しくださり、ありがとうございます」
わたしが頭を下げると、エリアス様は息を吐いた。
「当たり前だ。五年ぶりに君から手紙が届いたんだぞ」
エリアス様は、昔より少し大人びていたが、困ったように眉を下げる癖は、変わっていなかった。
「申し訳ありません……」
「謝罪を聞くために来たわけではない」
エリアス様は、向かいの長椅子へ腰を下ろした。
「君は知らないだろうが、表向きは領地で療養していることになっている」
「……お父様が、わたくしの失踪を伏せてくださったのですね」
王太子殿下との婚約を破棄された直後、元婚約者である侯爵令嬢が姿を消した。
そんな事実が広まれば、ヴァレンティア侯爵家だけでなく、王家にとっても外聞が悪い。
父なら、そうするだろうとは思っていた。
エリアス様の表情が険しくなる。
「ご両親は、秘密裏に君を探し続けている。なぜ、何も言わずに出ていった。ご両親にも、私にも」
「……両親の期待を裏切ったと知られることも、王太子殿下の婚約者でなくなった自分を見られることも、全部怖かったのです」
「だからといって、身を隠し続ける必要があったのか?」
「あの頃のわたくしには、そうするしかありませんでした。何も考えたくなかったのです……」
「それで、各地の孤児院を転々としていたのか」
「それだけではありません」
わたしは、役に立てなかった。
王太子の婚約者としても。
侯爵家の娘としても。
何一つ、まともに果たせなかった。
「わたくしは、探していたのだと思います」
「何をだ?」
「自分が、まだ何かの役に立てるという証を」
そのとき、応接室の扉が叩かれる。
「失礼いたします」
聞き慣れた声とともに扉が開き、ミーナが現れた。
「こちらが、手紙に書いたミーナです」
わたしが紹介すると、ミーナは青い古びたワンピース姿のまま、一歩前へ出た。
裾は何度か縫い直され、袖口も少し擦り切れている。
彼女はそれを恥じる様子もなく、完璧なカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、クラウディアス公爵令息様。ミーナと申します。本日は、わたくしのためにお時間をいただき、ありがとうございます」
エリアス様の目が細められた。
「その作法は、誰に習った?」
「セシリア先生です。礼も、言葉遣いも、すべて先生に教えていただきました」
「そうか」
「ですが、教えを受けるだけで身につくものではございません」
ミーナは、涼しい笑みを浮かべる。
「先生の教えが優れていたことと、わたくしがそれを身につけられる人間だったこと。その両方があって、初めて今の礼がございます」
エリアス様は目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「なるほど。ずいぶん自信があるらしい」
「自信のない者を侯爵家へ推薦されても、お困りでしょう?」
「その通りだ」
ミーナは、少しだけ顎を上げた。
その顔には、ここ数日ずっとわたしに向けていた苛立ちなど、欠片も見えなかった。
「……君は、相変わらずだな」
エリアス様が、ぽつりと言った。
「何がでしょうか……?」
「自分以外の価値を見つけるのは上手い」
その言葉に、わたしは目を伏せた。
エリアス様は再び、ミーナへ視線を向ける。
「ミーナ。君をヴァレンティア侯爵家へ迎えられるよう、私から話を通そう」
ミーナは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、エリアス様」
「ただし、王都は優しい場所ではない。君の出自は、すぐに知れ渡る。それを理由に侮る者もいるだろう。油断すれば、足をすくわれるぞ」
「存じております。先生の失敗から、貴族社会での立ち回り方も学びました」
「ミーナ……」
わたしが思わず名前を呼ぶと、彼女は薄い笑みを浮かべた。
「孤児院育ちですから。笑いながら近づいてくる人間を見極めるくらい、簡単ですわ」
「それは頼もしいな」
先日はあれほど怒っていたのに、侯爵家へ行くことを拒む様子はなかった。
そのことに、わたしはほっとしていた。
ミーナは荷物をまとめるため、応接室を出ていった。
残された部屋には、わたしとエリアス様だけになる。
「ありがとうございます、エリアス様」
わたしは深く頭を下げた。
「ミーナのことを、どうかよろしくお願いいたします」
「その話は引き受ける。だが、セシリア」
久しぶりに名前を呼ばれ、肩が跳ねそうになった。
孤児院では、誰もがわたしを先生と呼ぶ。
名前で呼ばれることは、もうずっとなかった。
「君も一度、帰っておいで」
「……わたくしは、ここに残ります。今さら、どんな顔をして父と母に会えばいいのか分かりません」
エリアス様は、深く息を吐いた。
呆れられたのだと思った。
「君は昔から、自分が壊れるまで黙る」
その声は、優しかった。
「……」
「王太子殿下の婚約者になったと聞いたときも、君は笑っていた。だが、目は少しも笑っていなかった」
「……そんなふうに、見えましたか?」
「見えた。ひどく辛そうだった」
「わたくしは、やはり貴族令嬢として足りなかったのでしょう」
「違う。そういう意味ではない」
「わたくしが戻れば、ミーナの足枷になります。ヴァレンティア侯爵家にも、迷惑をかけます」
「君は、自分の代わりをあの子にさせるつもりか」
胸を衝かれ、息が止まった。
否定したかった。
すぐには言葉が出なかった。
「……わたくしは、王都では罪を犯した者とされています」
「君は何もしていないだろう」
「そうだとしても、社交界はそう見ません。今さら何を言っても、もう取り返しはつきません」
エリアス様は黙った。
そのとき、扉が少しだけ開いた。
「先生、荷物をまとめ終わりました」
ミーナが顔を出す。
「もう準備ができたの?」
「元から、大した物なんて持ってないもの」
手にしているのは、小さな鞄が一つだけだった。
十六年間を過ごした場所から去るというのに、荷物はそれしかない。
ミーナの髪には、わたしの髪飾りが挿されていた。
わたしはそれを指摘せず、二人とともに孤児院の玄関へ向かった。
廊下を歩いていると、先を進んでいたミーナが、ふいに歩調を緩める。
「ミーナ。受け入れてくれて、ありがとう」
「当たり前でしょ。こんな機会、逃すほうが馬鹿よ」
「先日は、あんなに嫌がっていたから」
「それとこれとは別」
ミーナは、ちらりとわたしの顔を見た。
「それより、先生。泣いてないわよね?」
「ええ」
「……エリアス様が好きなの?」
思わず足が止まりそうになった。
「いいえ。憧れていただけよ」
「ふうん……じゃあ、私が狙っちゃおうかな」
「狙うだなんて、エリアス様にそんなことを――」
「ふふっ」
ミーナは再び先へ歩いていった。
孤児院の外へ出ると、クラウディアス公爵家の馬車が待っていた。
ミーナは馬車へ向かいかけたが、途中で足を止め、わたしの前へ戻ってくる。
「先生、お世話になりました」
完璧な淑女の礼だった。
「この御恩は、忘れませんわ」
その声も表情も、どこから見ても立派な令嬢のものだった。
次の瞬間、ミーナはわたしのそばへ寄り、誰にも聞こえない声で囁いた。
「ごめんね。先生の居場所、奪っちゃって」
わたしは一瞬、目を見開いた。
それは、かつてリベルタ様から言われた言葉だった。
あのときは、胸を抉られるように痛かった。
「……奪ってちょうだい」
ミーナが、ばっと顔を上げる。
わたしは、ゆっくりと微笑んだ。
「それくらいの意気込みがあれば十分よ。 だけど、あなたはわたくしの代わりではないわ。自分の居場所を作りなさい」
ミーナは唇を引き結び、ふんと顔をそむけた。
「当然でしょ」
そう言って、馬車へ乗り込む。
エリアス様は、わたしの前で足を止めた。
「手紙を出す。ミーナの様子も知らせよう」
「ありがとうございます」
「ご両親にも、私から君のことを伝える」
「エリアス様、それは……」
「居場所は明かさない。だが、君が生きていることを知る権利まで、ご両親から奪ってはいけない」
何も言い返せなかった。
「君が帰る気になったときは、必ず知らせてくれ」
そう言い残し、エリアス様も馬車へ乗り込んだ。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
窓の向こうにミーナの横顔が見えた。
彼女は一度も、こちらを振り向かなかった。
わたしは、馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて、その影が細い道の向こうへ消える。
孤児院へ戻ると、授業を終えたあとの教室が、ひどく広く見えた。
いつもなら、ミーナが机に頬杖をついて文句を言っている。
その声は、もう聞こえない。
わたしは教卓の前で立ち止まり、そっと机に手をついた。
「……よかった」
あの子を送り出せた。
ミーナなら、きっと王都で自分の道を見つける。
それでいい。
それでいいはずなのに、涙が止まらなかった。
◆
それから、わたしは月に一度、ミーナへ手紙を書くようになった。
エリアス様が、近隣の町を通るクラウディアス公爵家の連絡便へ預けられるよう、手配してくださったのだ。
ミーナは元気にしているか。
侯爵家の暮らしには慣れたか。
一月分の出来事と問いかけを、一通の便箋へ詰め込んだ。
ミーナから返事が届くことはなかった。
代わりに、エリアス様が折に触れて様子を知らせてくれた。
ミーナは、ヴァレンティア侯爵家の養女として正式に迎えられたそうだ。
孤児だったことを陰で笑う者もいたが、すぐに夫人たちの名前と好みを覚え、相手ごとに話題や言葉遣いを変え、社交の場へ入り込んだらしい。
『ミーナは、自分ほどヴァレンティア侯爵家の娘にふさわしい者はいないと言っている』
「あの子らしいわね」
慈善活動として王都の孤児院へ顔を出し、子どもたちに慕われていると自慢しているらしい。
実際のところは分からない、とエリアス様は付け加えていた。
さらに数カ月後。
エリアス様から届いた手紙で、ミーナが王妃殿下の茶会に参列することを知った。
「王妃殿下の茶会……?」
ミーナは、母の同伴として王宮の茶会へ出るそうだ。
侯爵夫人の同伴とはいえ、簡単なことではない。
母がそれを許したということは、ミーナを正式に社交界へ出す娘として扱い始めたということだ。
ミーナは、わたしよりずっと強い。
ずっと器用で、ずっとしたたかだ。
だけど――。
手紙を机に置き、窓の外を見る。
山の向こうに、王都がある。
「……大丈夫かしら」
そう呟いても、答える声はなかった。
それから数週間後。
孤児院に、再びクラウディアス公爵家の馬車が来た。
今回は、事前の手紙すらなかった。
子どもたちが窓から外を覗き、院長先生が慌てて玄関へ向かう。
わたしも胸騒ぎを覚えながら、廊下へ出た。
玄関の扉が開き、最初に入ってきたのはエリアス様だった。
その後ろにいる人々を見て、わたしは息を止めた。
「……お父様、お母様……」
父は記憶の中より少し痩せ、母の頬にも疲れが見えた。
二人とも、わたしの姿を見るなり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「セシリア……!」
次の瞬間、わたしは母に抱きしめられていた。
「どうして……どうして、こんなところに。消えることなんて、必要なかったのに」
「お母様……」
「あなたが生きていてくれただけで、よかったのよ」
父も、苦しそうに顔を歪めていた。
「セシリア……よく、生きていてくれた」
本当は、ずっと会いたかった。
会いたかったのに、合わせる顔がないと思っていた。
嬉しいのに、申し訳なくて。
安心したのに、苦しくて。
わたしは母にしがみついたまま泣いた。
その後ろで、小さく鼻をすする音がした。
顔を上げると、ミーナがいた。
淡い水色のドレスをまとい、ピンクブロンドの髪も綺麗に結われ、どこから見ても立派な侯爵令嬢だった。
ただ、目元だけが赤かった。
「泣いてないわよ。馬車の中が乾燥していたの」
「そうだったの……大丈夫?」
ミーナは睨むようにわたしを見ると、早足で近づいてきて、わたしにしがみついた。
「……ミーナ?」
彼女の手が、わたしの服をぎゅっと握る。
わたしがそっと頭に手を置くと、ミーナは何も言わずに鼻をすすった。
「王都にいる間、ずっとここへ帰りたいと言っていたぞ」
エリアス様が言った。
ミーナが勢いよく振り返る。
「エリアス様、余計なことを言わないでください!」
「本当のことだろう。先生に会いたいと――」
「やめてよ!」
思わず笑うと、ミーナは不機嫌そうな顔のまま、再びわたしの胸元へ顔を埋めた。
エリアス様は、そんなわたしたちを見届けてから口を開いた。
「セシリア。君の無実が証明された」
「……え?」
「五年前、王宮で起きたことだ。君がリベルタ嬢を階段から突き落とし、日頃から虐めていたという証言が覆された」
「どういう……ことですか」
「ミーナがやってくれた」
エリアス様がミーナを見る。
ミーナはわたしにしがみついたまま、ぷいと顔をそむけた。
「別に。暇だっただけよ」
「暇で高位貴族の夫人方の信頼を得て、リベルタ嬢を罠にかけたのか?」
「罠だなんて、そんな」
ミーナは顔を上げ、にやりと笑った。
「先生を陥れた女が、どれくらいのものか見てやっただけ。でも、大したことはなかったわ」
リベルタは、身分にこだわらない明るく親しみやすい令嬢として、若い貴族たちから人気を集めていた。
一方で、婚約者のいる王太子殿下に近づき、婚約破棄騒動を引き起こした令嬢として、夫人たちからは疎まれていたそうだ。
ミーナは、同年代の令嬢ではなく、その母親である夫人たちを先に見極めた。
「先生に教わった通りにしただけよ。簡単だったわ」
夫人たちに可愛がられ、同年代の令息や令嬢からも注目される孤児上がりの娘。
一方のリベルタは、五年経っても王太子妃にはなれず、いまだ婚約者のままだった。
ミーナの存在は、面白くなかったのだろう。
「それで、先日の王宮での茶会のあと、リベルタ様と階段ですれ違ったの」
ミーナは急に眉を下げた。
いかにも、か弱い令嬢の顔だった。
「リベルタ様は、わたしに肩をぶつけようとなさったわ」
「……それで?」
「避けたの。ついでに、足も出しておいたけど」
「ミーナ!」
「大丈夫よ。数段だったし、下は踊り場だったもの」
リベルタはミーナの足につまずき、階段を転がり落ちた。
大きな怪我はなかったが、髪は乱れ、ドレスの裾もめくれた。
そこでミーナは、にこやかに笑ったという。
『申し訳ありません。わたくし、少し足癖が悪くて』
『ふざけないで! この平民が!』
『それにしても、リベルタ様はよく階段から落ちますのね』
『今回は、あんたが落としたんでしょう!』
『今回は? まるで前回は違ったようにおっしゃるのですね』
そこまで言われて、リベルタは自分が何を口走ったのか気づいた。
もう遅かった。
「王妃殿下付きの侍女長と、数人の夫人方が聞いていたわ」
ミーナは満足そうに笑った。
「わたくしは、その場できちんと謝ったのよ。今回、足をかけたのは自分ですって。そうしたら、あの女ったら、『今度は本当に、あの平民がやったのよ』って」
ミーナは、くすくすと笑い始めた。
呆れて見つめても、少しも悪びれる様子はない。
エリアス様が咳払いをして、話を引き取った。
「リベルタ嬢の発言を不審に思った王妃殿下が、五年前の件を再調査された」
当時、リベルタの友人として証言した令嬢たちは、誰一人として虐めを直接見ていなかった。
泣きながら相談してきたリベルタの言葉を、信じただけだったのだ。
「リベルタ嬢は認めた。階段から突き落とされた事実はなく、君から受けた注意を虐めだと言い換えていたと」
「……そう、だったのですね」
母が、もう一度わたしを抱きしめた。
「あなたのことは信じていたわ。あなたが姿を消したあと、王家へ何度も再調査を申し入れたの」
父の拳が、固く握られる。
「当時、王家は聞き入れなかった。だが、それでお前を守れなかったことが許されるわけではない」
父は、顔を伏せた。
「すまなかった、セシリア」
わたしは何も言えず、父と母の手を握った。
王太子殿下は、廃太子となることが決まったという。
再調査の場でも責任をリベルタや証言した令嬢たちへ押しつけ、自分も騙されていたのだと言い訳を繰り返したため、王位を継ぐ資質はないと判断された。
リベルタも王太子の婚約者ではなくなり、虚偽の証言によって侯爵家の令嬢を陥れた責任を問われることになった。
ミーナが鼻で笑った。
「あの人、見る目がなさすぎるもの。王になったら国が傾くわ」
「ミーナ。相手はまだ王族だ」
エリアス様がたしなめる。
「でも、再調査の場で『私は悪くない。リベルタや証言した令嬢たちに騙された』って、情けない声を上げていたんでしょう? エリアス様が言っていたじゃない」
エリアス様は額に手を当てた。
父も母も、否定はしなかった。
その様子がおかしくて、わたしは笑ってしまった。
「王家からは、正式に謝罪がある。ヴァレンティア侯爵家にも、君にもだ」
「……わたくしに」
「ああ。君の名誉も、正式に回復される」
「帰りましょう、セシリア」
母が、わたしの手を両手で包んだ。
「……ですが、わたくしがいなくなれば、この孤児院の子どもたちは……」
「大丈夫ですよ」
穏やかな声がして、院長先生が一歩前へ出た。
「あなたが教材を作ってくれました。読み書きも計算も、年長の子たちが下の子へ教えられるようになっています」
「院長先生……」
「あなたは、ここで十分すぎるほど働いてくれました。だから、もう大丈夫です」
廊下の窓から、子どもたちがこちらを覗いていた。
わたしが振り返ると、小さな子どもたちが部屋から飛び出し、駆け寄ってくる。
「先生、王都に行くの?」
「手紙くれる?」
「また会えるよね?」
わたしはしゃがみ込み、一人一人の顔を見た。
「ええ。手紙を書くわ。字を覚えた子は、返事をちょうだい」
「先生、泣いてる」
「少しだけよ」
ミーナが、ふんと鼻を鳴らした。
「先生、もういらないって」
「ミーナったら……またそんなことを言って」
「事実でしょ。ほら、帰るわよ。王都へ戻ったら、まずその服をどうにかしないと」
「そんなにひどいかしら」
「ひどいわ。老けて見えるって、前にも言ったでしょ」
「では、ミーナに選んでもらおうかしら」
「仕方ないわね。選んであげる。先生は、素材まで悪いわけじゃないんだから」
そのぶっきらぼうな言葉が、思いのほか胸にしみた。
わたしの人生は、もう終わったのだと思っていた。
わたしにはもう、何も残っていないのだと。
戻れる場所は残っていた。
待ってくれていた人もいた。
「なによ、その顔。別に褒めてないわよ」
「ええ。ごめんなさい」
「謝ればいいと思ってるところ、本当に嫌い」
そう言いながらも、ミーナはわたしの手を強く握った。
わたしも、その手を握り返す。
孤児院の外には、迎えの馬車が待っていた。
父と母、そしてエリアス様が、先に乗り込む。
ミーナに手を引かれながら、わたしも王都へ帰るための一歩を踏み出した。
【エピローグ】
午後の光が差し込む応接間に、淹れたばかりの紅茶の香りが漂っていた。
「そういえば、王立劇場で『月影の姫君』が再演されるそうだ」
エリアスが茶器を卓へ戻しながら言った。
「今回は、若手で人気のリディア・ベルクが姫君役を務めるそうだ。ラウレンツ一座が結末にも手を加えたらしい」
「ラウレンツですか。あの一座は、人物の感情を大胆に見せる演出がいつも面白いのですよね」
セシリアが目を輝かせる。
「君は、ああいう物語が好きだったな」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「もちろん。だから、今度――」
「先生、私と一緒に観に行きませんか?」
セシリアの隣に座っていたミーナが、身を寄せるようにして顔を覗き込んだ。
セシリアが目を瞬く。
「ミーナも興味があるの?」
「はい。侍女たちが話しているのを聞いて、気になっていたんです」
エリアスがわずかに眉を寄せた。
「あれは大人向けの恋愛劇だぞ。君には、まだ少し早いのではないか」
ミーナは小さく首を傾げる。
「けれど、今もっとも話題になっている演目なのでしょう? 令嬢として、知らないままではお茶会でも困ります」
「それなら、席の手配も送り迎えも私に任せてくれ」
「まあ、よろしいのですか?」
「もちろんだ。私が二人を案内しよう」
セシリアが嬉しそうに微笑む。
しかしミーナは、にこりと笑ったまま、セシリアの腕へそっと手を添えた。
「ですが、こういう恋愛劇は、女同士で感想を話しながら観たほうが楽しいのではありませんか?」
「劇の最中に話すものではないぞ」
「終わってからです」
ミーナはセシリアへ顔を向けた。
「劇場の近くに、評判のティールームがあるそうなんです」
「銀鈴亭?」
「そうです。そこでお茶をいただきながら、先生とゆっくりお話ししたくて」
「いいわね。あのお店の林檎のタルトは、とても美味しいのよ」
二人の様子を見ていたエリアスが、すぐに口を挟む。
「私も感想くらいは話せる」
「エリアス様は、恋愛劇がお好きなのですか?」
「……詳しくはないが」
「では、今回は私と先生で行ってまいりますわ」
「いや、だから私も――」
「エリアス様……わたくし、少し恥ずかしくて」
「……何がだ?」
「恋愛劇について、殿方を交えて感想を話すなんて……」
ミーナは頬へそっと手を添え、恥じらうように目を伏せた。
それを聞いたセシリアも、頬を淡く染める。
「そ、そうね。確かに、少し恥ずかしいかもしれないわ」
「でしょう?」
ミーナが嬉しそうにセシリアを見上げた。
「では、先生。一緒に参りましょうね」
「ええ、そうしましょう」
「……」
エリアスはしばらくミーナを見つめたあと、無言で茶器へ手を伸ばした。
紅茶は、すっかり冷めていた。
【ミーナ視点】
母は、ある屋敷で侍女をしていた。そこで、屋敷の主人に見初められたらしい。
主人は、妻とはうまくいっておらず、いずれ母を正式に迎えると言っていたそうだ。自分は特別なのだと、母は信じていた。子どもを産めば、その約束は確かなものになる。少なくとも、何不自由ない暮らしをさせてもらえる。そう思って、母は私を産んだ。
もちろん、そんなことにはならなかった。屋敷の主人には、すでに妻も子どももいた。母が私を産んだあと、屋敷へ戻ることは許されなかった。母はわずかな金を渡され、私と一緒に追い出された。
「男なんて、どいつもこいつも口先だけ」
母は何度もそう言った。けれど、新しい男ができるたび、今度こそは違うと信じた。
住み込みの侍女として働けなくなった母は、洗濯を請け負ったり、酒場の手伝いをしたりして、私を育てた。それでも金が足りなくなると、夜になってから胸元の開いた古い服に着替え、濃い化粧をして出かけていった。
母がどんな仕事をしていたのかは、幼い私にも分かっていた。母は美しかった。だから、男たちは母に近づいた。そして、飽きれば去っていった。
母は私を育ててくれた。食べ物を与え、寒い夜には毛布もかけてくれた。それだけでも、ましだったのだと思う。けれど、抱きしめてもらった記憶はない。私が泣けば、母は面倒そうな顔をした。
話しかけるときは、いつも機嫌を確かめた。口元が下がっている日は近づかない。声が高い日は、酒を飲んでいるか、新しい男ができた日だ。男がいる日は、なるべく物音を立てない。
そうやって暮らしているうちに、人の顔を見れば、何を望んでいるのか少しくらい分かるようになった。
母に、また男ができた。今度の男は、子どもが嫌いだった。
母は私の手を引いて孤児院まで来ると、院長先生に頭を下げた。
「少しの間だけお願いします。暮らしが落ち着いたら、必ず迎えに来ますから」
私は、母が嘘をついていることを知っていた。院長先生も、おそらく知っていた。それでも誰も、何も言わなかった。
母は一度も振り返らずに去った。私は追いかけなかった。追いかけて、いらないと言われるほうが怖かった。
それから何年経っても、母は迎えに来なかった。
孤児院の人たちは、思っていたよりも親切だった。食事は質素だったけれど、毎日決まった時間に出た。失敗しても、怒鳴りつけられることはなかった。熱を出せば、院長先生が額に濡れた布を置いてくれた。
けれど、私は誰にも心を開かなかった。親切にされても、笑って礼を言うだけだった。
どうせ、いつかはいなくなる。どうせ、最後には捨てられる。最初から期待しなければ、傷つかずに済む。
決まった食事を取るようになると、私の背は急に伸びた。手足も細く長くなり、鏡を見るたび母に似ていった。
「ミーナは器量もいいし、頭もいい。きっと、よいお屋敷で侍女や子守として雇ってもらえますよ」
院長先生にそう言われたとき、吐き気がした。
屋敷で働けば、母と同じになる。最初は侍女として雇われ、そのうち主人か、その息子の目に留まる。そして、飽きられれば捨てられる。
私に残されている道も、それだけなのだろうか。
体が大きくなるのが怖くなった。食欲がないふりをして食事を残し、パンを年下の子へ譲った。背中を丸め、なるべく目立たないように歩いた。
誰にも見つからなければいい。そうすれば、母と同じにはならずに済む。
何度も姿勢を正すように注意されたけれど、やめなかった。
そんなある日、新しい教師がやってきた。
こんな山奥の孤児院に、わざわざ教師として来る人間など珍しい。私はほかの子どもたちに混じり、廊下の陰からその人を覗いた。
遠目からでも、ほかの大人とは違うと分かった。背筋が伸び、歩くときにもほとんど音を立てない。古びた灰色の服を着ているのに、不思議とみすぼらしく見えなかった。
院長先生と話す声も、澄んでいて穏やかだった。言葉の一つ一つが丁寧で、こんな場所には似つかわしくない。
――貴族。
すぐに、その言葉が頭に浮かんだ。どうして、そんな人が孤児院にいるのだろう。
その人が部屋を出たとき、私と目が合った。彼女は少し驚いたあと、微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、胸の奥がざらついた。
哀れまれている。
そう思った。可哀想な孤児たちを救って、自分は立派な人間だと思いたいのだ。好きでここにいるわけでもないくせに。
あとで、あの人が元貴族らしいと聞いた。没落して行き場をなくし、この孤児院へ来たのだと、子どもたちは噂していた。
それでも、彼女の立ち居振る舞いから優雅さは消えていなかった。それが、ひどく鼻についた。
きっと、貴族の世界から落ちてきても、私たちよりは上だと思っているのだ。
授業の初日、私は一人で教室に残った。彼女が教材を片づけるのを眺めながら、机に頬杖をつく。
胸は大きな音を立てていた。大人へ、わざと嫌なことを言った経験などなかった。母の顔色をうかがい、機嫌を損ねないことだけを考えて生きてきた。
それなのに、その人には、どうしても言ってみたくなった。
「先生、没落貴族なんだ」
彼女の手が止まった。
「惨めだよね」
言ってから、逃げたくなった。けれど、私は頬杖をついたまま、余裕があるふりをした。
怒鳴るだろうか。頬を叩くだろうか。それとも、院長先生に言いつけるだろうか。
彼女は一度だけ目を瞬かせた。それから、静かな声で言った。
「人を蔑むようなことは、言ってはいけません」
それだけだった。声を荒らげることも、傷ついた顔をすることもなかった。
予想と違いすぎて、私は返事もできなかった。彼女は少し考えるように私を見た。
「ミーナ、でしたわね」
「……そうだけど」
「とても優秀だと、院長先生から聞いているわ」
何を言われているのか分からなかった。彼女は穏やかに微笑んだ。
「これから、よろしくね」
腹が立った。どうして、この人はそんなに余裕があるのだろう。
それから私は、彼女に会うたび嫌なことを言った。
「家族に捨てられたの?」
「今日の服もひどいわね」
彼女はそのたびに私を窘めた。けれど、怒鳴らなかった。私を嫌いだとも言わなかった。
それが悔しくて、私はますます意地になった。
ある日、出された課題をわざとやらなかった。
「ミーナ。どうして課題をしなかったの?」
「こんなの、簡単だもの」
「簡単なら、なおさら取り組めたでしょう」
その声を聞いた瞬間、初めて彼女が怒っていると分かった。表情は変わっていない。声も穏やかなままだ。それでも、目だけが真剣だった。
やっと怒った。
そう思って、私は身構えた。何を言われても、傷ついていないふりをするつもりだった。
けれど、先生が口にしたのは、思ってもいない言葉だった。
「ミーナ。あなたには可能性があるのよ。自分を粗末にしてはいけません」
「……は? 何を言ってるの?」
私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「可能性? あるわけないでしょ、こんな孤児に」
先生が何か言おうとしたが、私は止まらなかった。
「私にある未来なんて、せいぜい容姿を気に入った金持ちに引き取られるくらいよ。屋敷で働いて、主人の機嫌を取って、飽きたら捨てられるの!」
自分で口にしながら、母の顔が浮かんだ。
「勉強なんて、何の意味もないわ!」
先生は首を横に振った。
「いいえ。そんなことにはさせません」
「どうやってよ。没落貴族のくせに!」
言った瞬間、先生の目がまっすぐに私を捉えた。初めて、まともに視線がぶつかった。
逃げたくなったのは、私のほうだった。
「読み書きと計算ができれば、選べる仕事は増えます。屋敷で働くとしても、侍女だけではありません。文書を写したり、品物の数を記録したり、子どもへ勉強を教えたりする仕事もあります」
「そんな仕事、孤児に任せるわけないでしょ」
「確かに、最初から任せてもらえるとは限りません。だから、任せてもらえるだけの力を身につけるのです」
「力があったって、身分で決まるわ」
「身分だけで決まることもあるでしょう」
先生は否定しなかった。
「理不尽な目に遭うこともあります。努力したからといって、必ず望んだ結果を得られるとは、わたくしにも言えません」
「じゃあ、やっぱり意味ないじゃない」
「それでも、何も持たないままより、選べる道は増えます」
先生は一歩も視線を逸らさなかった。
「あなたが望まない道へ進まなくて済むように、できる限りのことを教えます。院長先生とも相談します。あなたを、誰かの都合だけで屋敷へ送り出すようなことはさせません」
そんなこと、できるはずがない。この人は、私の母親でもなければ、家族でもない。ただ勉強を教えに来ただけの人だ。
いつか、ここからいなくなる。約束など、信じてはいけない。
「だから、ミーナ。諦めてはいけません」
その声は、あまりにまっすぐだった。
私は何も答えられなかった。そんな未来があるはずはない。期待すれば、また捨てられる。
分かっているのに、ほんの少しだけ、信じてみたいと思ってしまった。
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【王都へ帰る馬車の中】
ミーナは、隣に座るセシリアの腕へぴったりと抱きついていた。
(やっと先生を独占できる! 王都へ帰ったら何をしよう。茶房へ行って、ドレスを選んで、夜は先生の部屋でおしゃべりして――)
向かいに座るエリアスは、セシリアを静かに見つめていた。
(五年ぶりに王都へ戻るんだ。落ち着いたら、今度こそ二人でゆっくり話をしなければ)
ふと、ミーナと目が合った。
互いに何も言わない。
ただ、ミーナはセシリアの腕をさらに強く抱きしめた。




