いのせんと
【固定】
始めまして、三軒長屋 与太郎です。
ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。
まず間違いないことは、あなたが産まれたという事実。
それは、仮想現実やメタなどと呼ばれているいずれでもないし、そもそもに、あなたが今の世界をどう捉えていようが関係ない。今、私の話を聞いている時点で、あなたは私と同じ次元に息をする住民であり、即ち、あなたは十数年前にこの世界に産声を上げたのです。
ここで問いたいのは、あなたがそれを選択したのか?
あなたはこの世界に産まれ落ちることを自ら望んだのか?
ごく一部のぶち抜けた頭でない限り、自ずと答えは“No”であるはずです。選べるはずがありません。よもや、指先にも満たない命だった頃から意志を宿していたと……ささくれにも満たない身体で、神秘の大海を泳いでいたなどと言うまいに。
“あなた”という生命の誕生を決める最終ミーティングの卓上に、あなたは存在しない。
ピンと天高く伸ばし上げる腕など持ち得ないし、抗議の為に力強く立ち上がる脚もあるはずがない。
それでは、“そこ”にあったのは何でしょうか——
父親と母親です。男と女です。欲望と願望です。
逆らいようのない先輩。絶対的な先祖。
それが真剣な議論の上の営みだったのか、一夜の過ちだったのかすら分かり得ない。
この不公平、この不条理を、『パワー・ハラスメント』と言わずに何と言いましょうか?
大勢はこう言うでしょう。
それは、“愛”……と。
◆◇◆
坂本は、俗に言う“出来る男”であった。
爽やかな身なりに整った顔立ち、スラッと伸びた長身に、心地よい低音ボイス。
型にはめて焼き上げたクッキーのように容姿端麗であり、まさに焼きたての香りを振りまくように、周りの人間を魅了する笑顔を持ち合わせていた。
男女関係なく気が利き、傍から見るに、彼の人生に欠点など存在しないように思えた。
しかし、彼の心の中には、人知れず閉じた大きく歪んだ扉があり、ごく最近新設された小さな窓の外には、暗雲が立ち込めていた。
坂本が今の性格に至ったのは、間違いなく父親の影響が大きかった。
銀行員として、一端のバックオフィス担当から、本部長にまで上り詰めた堅物は、その在り方を自身の息子にも求めた。
幼少期より坂本は、何事にも歪んだ誠実さを追求させられ、それは幼心の“友達選び”にまで干渉した。習い事は当たり前に、遊びよりも勉学、友情よりも人脈。他人とどう付き合うかではなく、他人をどう使っていくのかを、徹底的に叩き込まれた。
そこには“自我”など存在せず、全ては他人という手鏡にどう映るか。いや、どう映すか……どう見せるか……どう思わせるか。
坂本はこれを“愛”であると受け止めた。“すべては僕のためにである”と、必死に抱きしめた。
そんな彼に、母親からの手は差し伸べられず、母親はただ、父親の意思に従順であった。それは、敬意であったのかも知れないし、恐れだったのかも知れない。ひとつの愛であったのかも……。
とにかく、そんな日々の中で、坂本の母親は、彼を見なくなった。坂本の心の中で閉ざされた扉の中にも、母親の顔は無い。そこにはただ、小さく肩を震わせながら縮まる背中だけが、油絵のようにへばりつき、嫌な臭いを出していた。
坂本が初めて違和感を覚えたのは、高校一年生の冬だった。
思考が大人びたからか、街の外にも友人が出来たからか、一人の女性を深く愛したからなのか。理由は定かではなかったが、鮮明に“違う”と思った。今まで自身に向けられてきた愛が、“ごく普遍的な愛情”ではないことを理解した。
それでも坂本は、腕の中で脈打つ“塊”を、強く強く抱きしめた。この腕を解いてしまうと、自分が自分ではなくなってしまう気がしたから……。
街を行き交う同年代の若者たちが、一瞬の煌めきを謳歌するように笑顔を輝かせながら、坂本がまだ行ったことのない場所へと向かう。
カラオケボックス、ボウリング場、ゲームセンター、遊園地。
もっと知らない場所、もっともっと知らない場所へも。
そんな背中を見つめるたびに、坂本の心の中の扉が軋んだ。心臓の鼓動を邪魔するように、激しい叩音が響き渡った。
そして、坂本は足を止める。目を瞑る。自分自身に言い聞かせる。
(父さんが正しい。皆が遊んでいる間に、僕は早く立派な大人になる。大人になって、偉くなって……遊ぶのなんて、その後でもいいじゃないか。父さんが正しいんだ)
高校三年生の夏が過ぎた。
母親がいなくなった——
坂本は何も聞かされなかった。離婚の説明も、母親から言葉を掛けられることも。
ただ、母親がいなくなった——
そして、坂本の父親は、いつもは飲まないウイスキーを不慣れに揺らしながら言った。
「お前は何も気にしなくていい。もとより、学費は全て私の金だ。バイトなどせずとも、十分な仕送りはやれる。K大学に入って、沢山の事を学びなさい。私は学歴が薄く、銀行に入ってから相当苦労した。お前にはそうあって欲しくないし、K大学でしっかりとした結果を残せば、私の銀行に来ても誰も文句は言うまい。全て……お前を想ってのことだ。頼むから、お前だけは私を、失望させないでくれ」
坂本の中で、何かが爆ぜた。
気づいてしまった。あの時感じた違和感の根幹に。
自分は“この人”に、名前を呼ばれていない。
“この人たち”が決めた名前のはずなのに。
自分自身が使えない特権を利用して、与えられたはずの名前なのに。
僕の名前は、正幸なのに……。
心の中の扉を、もう一度しっかりと、より厳重に施錠する。
今、自身の中で起きている革命を、決して表に滲ませまいと、強く目を瞑る。
怒れる感情も、あてどない悲しみも、拳の中で握りつぶす。
奥歯がすり減る程に、自身の過去をすり潰す。
それでも坂本は、父親を恨んだりなどはしない。
自分がかつて愛情だと思っていたものが、“無”であっただけだ。
自分自身が、父親の手鏡に過ぎなかっただけのことだ。
坂本はそっと、腕に抱きしめていた“塊”を解き放つ。
“それ”は、自由を得て飛び立つわけでもなく、ただ、力なく、コトリと床に転がった気がした。
(これからは僕が、父さんを手鏡にする)
坂本は、鏡に映る自分の顔をキリっと引き締め、ほのかに微笑む。
「大丈夫だよ。お父さん」
坂本の言葉に、父親は深く息を吐き出しながら、小さく、小さく、縮んだ。
◆◇◆
大学への進学と共に、坂本は家を出た。
それは、坂本自身の考えというよりも、父親の勧めであった。坂本の父親は、何よりも効率を重んじる人間であり、通勤や通学といった隙間時間を極端に嫌った。家族の住む横浜の家には居つかず、職場近くの蔵前駅に自分専用のマンションを借り、週末だけ横浜に帰ってくる……そんな人間像。
しかし、この時父親が一人暮らしを勧めてきた理由が、単に効率を重視したからではないことくらい、坂本にも分かった。
いくつかの事実として、母親を失った横浜の家に、存在価値が無くなったのもある。それに、東京の蔵前駅から、坂本が通うこととなる神奈川県の日吉駅が、そこまで近くはないのも確かではあった。
ただ、父親は、坂本と暮らしたくはなかったのだ。男二人のアンバランスな生活を嫌ったのだ。さっさと横浜の家をたたみ、自分の匂いだけが充満する蔵前の家に、引きこもりたかったのだ……と。
坂本は、そんな見え透いた父親の思惑ごと、笑顔で呑み込んだ。
日吉駅のすぐ近く、綱島駅と大倉山駅の間に最低限のアパートを借り、大学へは自転車で10分と少し、何不自由のないキャンパスライフ。
大学三年生になり、通うキャンパスが東京の三田駅に変わった時も、坂本はすぐ近くの泉岳寺駅で安い賃貸を探し、移り住んだ。よもや、父親の住む蔵前駅には電車で20分ほど。乗り換えすらいらない。それでも、坂本は一人暮らしを選んだし、父親もなんら反対しなかった。やはり、大学へは自転車で10分と少し、何不自由のないキャンパスライフ。
大学に入って以降、月に一度、父親と晩御飯を食べる日があった。
交わされる会話は定例文。生活の具合、勉強の具合、就活の具合。それは、父親としての最低限の施しであったのだろうし、坂本も、父親の仕送りによって保たれる自身の生活に、至極まっとうに感謝していた。
言いつけ通りにバイトはせず、勉学に集中し、余計な出費は控え、厳選した人間関係を構築した。そのおかげで、坂本の就活は無限大の可能性を帯びた。
当初こそ、自身の勤める銀行への就職を進めていた父親も、いつしかそれをしなくなった。“息子を守る必要はない”——大学に対する坂本の真摯な姿勢が、父親にそう判断させたのであろう。
それもあったのか、坂本が大学四年生になってすぐのこと、父親は再婚した。
顔合わせも兼ねた食事。むず痒い立派な料亭での数時間。
そこでもやはり、交わされる会話は定例文。お互いのこれからの事、お互いのこれからの姿勢、お互いのこれからの人生。
全てを説明されなくても、坂本には十分理解出来ていた。
(大丈夫だよ、父さん。父さんたちの新しい生活に僕は顔を出さないし、勿論、邪魔なんてしない。恨みや憎たらしさなんてこれっぽっちも無いし、むしろ心から祝福しているよ。それに、お母さん。戸籍上は、貴女が新しい母さんで、僕が新しい息子。でも、その前にひとりの大人と大人。書類では紡げない赤の他人。これからは、父さんも息子という重りの鎖を外し、自由に生きればいい。父さんは十分に、頑張ったのだから)
以降、坂本が父親や新しい母親と会うことはなかった。
連絡もせず、それでも、初任給までの間、しっかりと仕送りは振り込まれた。
そして、初任給と共に、全ての関係は絶たれた。
繰り返しにはなるが、坂本は感謝していた。父親にも、父親に新たな人生を与えてくれた今の母親にも、家族を崩壊へと導き、横浜の家を、自分の中の幼い記憶ごと荒廃させた昔の母親にも。
坂本は、池袋にあるシステム会社へと就職した。
一流大手とまではいかないが、それでも十分に大きな会社だ。無論、そこには坂本の狙いがあった。余計なライバルは作らず、肩ひじを張らずとも出世が出来る。
実際、坂本の狙い通り、彼は入社一年目から目立ちに目立った。企画部に配属された坂本は、新卒という肩書を一切恐れず、様々な新企画を提案した。
この男に抜かりはない。悪目立ちして鼻については意味が無い。
坂本は、自分が仲良くするべき先輩をピンポイントで見抜き、攻略していった。自身の仕事の傍らで、先輩たちのプレゼンを積極的に手伝い、煽て、称え、時には励まし、その効力は部署の垣根を超えた。
さらには、会社内における“女性コミュニティ”にも敏感なアンテナを張り、地雷を見極め、時には先輩の弱みを握り、会社全体を掌握せんとする勢いであった。
特に、特出するべきは、坂本の“飲みにケーション”能力であった。
中心となって盛り上げる一方で、アルコールで緩む相手の思考から、巧みに本音を誘い出し、目の前に出された真意のパールを、ピカピカに磨いてみせた。
時には自身の悩みや弱さを撒き餌とし、先輩たちの制圧欲求を満たし、女性たちの母性を擽った。
そんな坂本に、太刀打ちできる同期はおらず、入社四年目の春には早々に、主任へと出世して見せた。
同期の誰もが坂本を愛し、誰もが坂本に媚びた。
ただ一人を除いては……。
坂本が《影山》と出会ったのは、入社三年目を迎えてすぐの事。
連日連夜の飲み会が祟り、坂本にしては珍しく出勤時間ギリギリに出社した日。
影山は、水色のビアンキに跨って、颯爽と登場した。
街乗りに不向きなマウンテンバイク仕様。男の小柄な身体が、水色のボディから伸びるごついサスペンションを、より頑丈に見せる一方で、より場違いな空気を漂わせる。
大きなヘッドホンで耳を覆い、伏し目がちなこの男が、休日に山へと走りに行くとも思えない。しかし、妙に気になった。坂本自身も、このイタリアの老舗メーカーを通勤時に愛用していたのもある。男とは違い、スマートなスポーツタイプではあるが。
「良い自転車に乗っていますね」
坂本の世辞を、影山は無視した。違う……聞こえていないのか。淡々と駐輪場を去る影山の背中を、坂本はぼんやりと見送った。
初対面ではあったが、“この男が影山である”ことを、坂本は知っていた。同期に限らず、様々な人間から、噂で聞いていた。
システム部の変わり者。誰にも挨拶せず、パソコン上の仕事のやり取りでしか会話もしない変人。ただし、圧倒的に仕事ができる——
同期の飲み会でも見たことが無いし、実際、これまでにこの駐輪場で、水色のビアンキのマウンテンバイクなども見たことが無い。
しかし、この理由も容易に理解できた。影山が毎日、出勤時間ギリギリに出社し、誰よりも早く退勤しているからであると。
それ以降の坂本は、影山の事が気になってしょうがなかった。
その他大勢は皆、自分の手鏡となるのに、影山という男には、自分が映らなかったから。
影山の持つ圧倒的な孤独、圧倒的な自我に、坂本は惹かれたのであった。
「おはようございます! 《水原》係長」
坂本は、自分の少し前を歩く背中に向かって声を掛ける。心労からか、酷く丸まった巻き肩。力ない表情が、男の身体をより小さく見せる。
坂本より一回り年上の水原は、噂の影山が配属されているシステム部の係長。ごく普遍的な人間であり、仕事の出来ではなく、“何も問題を起こさない”ことで出世するスロータイプ。坂本は、影山に近づく口実を見つけるために、先ずは水原に擦り寄った。
表面上は、企画部とシステム部の連携強化であり、それは実に容易に遂行された。
初対面から一か月にも満たない間で、坂本は影山のデスクのアドレスを手に入れ、直接仕事のやり取りをした。
しかし、ここから先が厄介であった。
『お疲れ様です。今回のシステムエラーですが、修正と共に、バックデータを共有できる補助ボックスを作成して下さい。クライアントからの要望ではありませんが、相手方の会社規模、目的が他部署共有であるからして、万が一に備えた保険的ツールを完備していた方が、当社の営業部にとってもセールスしやすくなるとの判断です』
坂本がどんなに長文を送っても、返ってくるメールは『わかりました』の六文字であった。そして数時間後、修正されたアプリケーションが共有に貼られ、『確認お願いします』の八文字が添えられる。
坂本は、この男との交流に、難攻不落の要塞をイメージすると共に、ほとんどの依頼がその日のうちに完璧な形で創り上げられて返ってくる現実に、舌を巻いた。
坂本による影山攻略は、思いもよらぬ形であっけなく完遂されることとなる。
二人の初対面から半年が過ぎた夏の終わり、昨今のハラスメントに対する世間の風当たりを鑑みて、坂本たちの会社にも、急遽風紀委員が立ち上げられ、その中に、坂本の名前が連ねられたのだ。
如何に鉄壁を誇る影山でも、“会社命令”となれば、城門を開かざるを得ない。
『会社上層部よりの通達で、私たち二人でのセッションが指示されました。会社の核となる二部署の若手で、意見交換を踏まえ、最近ニュースを騒がせているハラスメントに対する対策を、協議して欲しいとのことです。正直なところ、この指令も何かのハラスメントにあたる気もするのですが……笑 つきましては、今度の水曜日の就労後、お時間を頂けないでしょうか?』
要するには、会社が飼いならしきれない影山のお世話係に任命されたのだ。
いつもより、ほんの少し間を開けて、影山から『わかりました』の六文字が送られてきた。坂本は不思議と、エンターキーの上で固まる影山の指を思い浮かべ、あの冷え切った目を想像した。圧倒的な孤独と自我を兼ね備えた黒塗りの瞳を。
こうして、毎週水曜日の奇妙な飲み会がスタートすることとなる——
影山と初めて酒を飲み交わした日。
坂本は、影山の中に潜む闇に触れた。『第一回恐怖症(何事も最初の一歩を極端に恐れる奇妙な精神疾患)』という聞き覚えの全くない闇。
しかし、坂本が驚いたのは、自分が思っているよりも、影山がいたって普通の同い年であることであった。
確かに、飲み会の席に着くまでは違った。『わかりました』と返ってきた返信の直後に送られてきた、箇条書きの条件。
・会場は会社より徒歩圏内
・場所は完全個室
・必ず二人きり
・店員も近づけたくはない
・オーダーは個室の外
・フード注文は一度だけ
・私はビールしか飲みません
・トマトは食べられません
どこぞのマフィアとでも密会するかのような条件。それでいて、可愛らしさも滲む。
坂本は正直、この男とまともに議論できる気はしなかったし、そもそも会話が通じるのかさえ怪しかった。最悪の場合、上司への報告は作り話で誤魔化そうと思っていた。
ところが、いざ飲み会が始まると、影山は単なる口数の少ない青年に思えた。
完全個室のテーブルの上に、様々なつまみが並んだ。
串焼きの盛り合わせ、刺身の盛り合わせ、山芋鉄板焼き、だし巻き卵、炙り〆さば、牛肉カルパッチョ。
ありふれた居酒屋の、ありふれた面子。“我ながら色気が無い”と、坂本は思った。
しかし、影山はまんざらでもなく、ほんの少しだけ硬い表情を崩した気がした。
不意に、影山がヘッドホンを外す。「どうも」と言葉を吐き、合図を待たずビールに口をつける。すぐさまに、山芋鉄板に箸を伸ばす。そして、ゆっくりと味わうように飲み込むと、もう少し言葉を続ける。
「すみません。僕は何事も“スタートすること”が苦手でして、ドリンクも、つまみも、こうやって一気に始めてしまわないと、タイミングを逃してしまうんです」
坂本は大いに笑った。勝手にビールを飲み始めたことも、鉄板料理を直箸で突いたことも、全てを許した。
坂本は理解したのだ。目の前の歪な存在が、種類こそは違えど、同じ穴の狢であると。
それ以降は順調だ。
喋っていたのはほとんど坂本ではあるが、影山も影山なりに、仕事への意思や、自身の経験になぞらえたハラスメントに対する意見を口にしてくれた。
この意外な成功体験に快感を覚えた坂本は、毎週水曜日を影山との“サシ呑み”の日と決めた。名目上は影山と社会との距離を保つトレーニングとしたが、実際には、坂本の為の予定であった。
坂本は、目の前に自分が映らない……決して手鏡にならない影山とのサシ呑みを、何よりも心地の良い空間として、大事に、大事に、抱きしめた。
◆◇◆
影山が死んだ——
まもなく入社から六年目を迎えようとしていた三月の月曜日。そんな報せが坂本の鼓膜をつんざいた。
先週の水曜日にもサシ呑みをした。簡単には受け入れられない。
だが、影山という大きな核を失った会社は、けたたましい程に悲鳴を上げ、自らのデスクに飛び交う未体験な書類の山は、それが現実であることを訴えていた。
その年の五月、最後の水曜日。
坂本は池袋東口の裏路地に居た。人気のない細い路地。薄暗がりの中で、安っぽい看板が灯っている。腰より少し低いくらい。小さな看板に『Pantera』とだけ書かれていた。
入口のテラス席から、奥に長く伸びている。最奥のカウンターには、外から見ても分かる程に巨漢な店員と、それと向き合うように客席に一人、季節外れなトレンチコートを着た男が座っていた。
騒がしい音楽を流してはいるが、どこか陰気臭い。客も、その男一人だけ。
それが、水曜日の夜だからなのか、つい最近店の前で起きた悲惨な出来事からなのかは、判断できなかった。
二か月前、この店の目の前で、影山は死んだ。反対側のビルの屋上から飛び降りて。
坂本は、アスファルトに刻まれた何でもないはずのシミを、影山の身体と重ね合わせ、すぐに首を振った。
坂本が『Pantera』の店内に入ると、店員は当たり障りなく迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日は暇だ。どこでも好きな席に座りな」
店員は明らかに日本人ではなかったが、流暢さを軽く超える見事な日本語に、坂本は一瞬、差別的な驚きを抱いてしまった。
店員はすぐにそれを察して笑って見せる。
「はは、驚かせてしまったかい? 海外の雰囲気を愉しみに来たんであれば、やめてあげても良いぞ? 英語でも、イタリア語でも、スペイン語でも……どれが好みかな?」
雰囲気に呑まれそうになる自分を、一生懸命に創り直す。
「是非、日本語でお願いします。せっかくバーカウンターがあるお店なので、会話を楽しみたいですし、僕は、リスニングは得意なんですが、実際に喋るのがちょっと……」
これに、カウンターの男が割って入る。
「日本人は皆そうさ。シャイだからな。発音が気になって恥ずかしいんだろ?」
坂本はまたもや驚いた。客の男も明らかに日本人ではないのに……二人とも、最近入った新入社員よりも、日本語が上手な気がした。
坂本は照れくさそうに微笑みながら、小さく頷いた。
「そんなわけで、カウンターに座っても良いですか?」
坂本の伺い立てに、店員は大きな手を広げてジェスチャーを交えながら、深く頷いた。
客の男も歓迎する。
「是非そうしてくれ。こいつがバーカウンターから外に出るたびに、テーブルが揺れて、俺たちは酒を守らなきゃならない。さっさとウェイターを雇えって言い続けているんだけどな」
「俺は、自分の両手で抱えられる物しか抱えない。それだけだ」
店員がムッとしたような言葉を返すと、客の男は「それも“神のお告げ”ってやつかい?」と、皮肉めいた言葉を返した。
「俺はイグニス。こいつはクレメンスだ。あんたは?」
「坂本です」
店員の質問に、坂本が答える。そして、客の男が注意する。
「日本人らしいな。その癖を止めな。俺たちはあんたの歴史にも家系にも興味がない。今知り合ったばかりの他人じゃないか。こんな時はファーストネームを教えてくれ。それこそが、君の形と成りだと思わないかい?」
なんとも子気味の良いセリフだった。坂本は一気に、この店が好きになった。
どうやら店主であった巨漢の男。バーカウンターの向こう側にすっぽりと納まりながらも、深い賢智と思想が窺える。
客の男もそうだ。一見すると陰気臭い死神のように思えたが、実に自然体な優しさがある。
何よりも、目の前の二人は、決して自分の手鏡になどなり得ない、圧倒的な自我があった。坂本は不謹慎にも、影山の代わりを見つけたような気がした。
「正幸です」
坂本が改めて名前を提示すると、二人は順に「よろしくな」と握手を求めた。
坂本が“先ずは”と注文したカールスバーグを、冷えたグラスに丁寧に注ぎ、カウンターの上に置く。
「イグニスさんも、良ければ何か飲んでください」
坂本が奢る姿勢を見せると、イグニスは「良い子だ」と呟き、坂本と同じカールスバーグを注いだ。子ども扱いされたようにも感じたが、不思議と悔しくはなかったし、むしろ嬉しく感じた。イグニスの大きな手に包まれたピルスナー型のビールグラスは、ほんのショートカクテルに思えたし、この二人からは、父親とは違う……坂本がまだ知らない形の愛情を、感じざるを得なかった。
こうして、坂本は、“新しい水曜日”を手に入れた——
「どうしてこんな店に迷い込んだんだい?」
クレメンスの問いに、坂本は丁寧に答えた。
自分が、駅の反対側の会社に勤めていること。毎週水曜日に飲んでいた“友人が転勤してしまい”、水曜日がポッカリと退屈になってしまったこと。そして今日は、そんな代わりとなる店を探していて、“たまたまこの店に惹かれた”こと。
坂本は、影山の存在を隠した。店の目の前で人が死んだのだから、この店にとっても良いことなはずがない……当然の配慮だった。
「そうか……」
二人の返事はどこか余所余所しく感じたが、特段気にならなかった。ただ、詰まる内容ではなかっただけだし、そもそも初対面の二人に、自分と影山の関係など、知り得る道理が無い。
その後は淡々とした会話。
『Pantera』という店名の由来が、動物の豹や、アメリカのヘヴィメタルバンドではなく、綺麗な模様の鉱石の一種であること。二人はドイツで知り合った20年来の知り合いで、今はたまたまお互いに日本に住んでいること。坂本の仕事の話、他愛もない人生観、日本の良い所、悪い所。
特別盛り上がるでも、盛り下がるでもなく、心地の良い時間が過ぎていった。
——それは、坂本が“お手洗いに”と席を立った時のことである。
いつからそこに居たのか……ひとりの女性が、一番外側のテラス席に座っていた。
やはり、明らかに日本人ではない。しかし、外国人と言い切れる顔立ちでもない。
謎めいた魅力、煌びやかな透明感、それでいて、決して触れてはいけない背徳感。
坂本は一瞬、“見てはいけないものを見てしまった”気がした。しかし、坂本がお手洗いを終えて席に戻る時にも、変わらず、ごく当たり前に、女性はぼんやりと人気の少ない裏路地を眺めていた。
そんな坂本の戸惑う目線を、イグニスとクレメンスは、静かに見守っていた。
坂本は席へと戻る。
一度自分を落ち着かせようと、お代わりのビールを注文する。それを真似するように、クレメンスも空のロックグラスを傾け「日本人との夜だ、響をくれ」と言った。
「水は要るかい?」と、イグニスが尋ね、「そうだな。常温で貰おう」と、クレメンスが返す。特に意味はない、普通の会話。それなのに、どこか緊張感が漂う。
坂本は、四杯目のカールスバーグに口をつけ、ふとテラス席を見る。やはりそこには、変わらず、ごく当たり前に、女性が座っている。
坂本の辛抱は限界を超え、カウンターへと向き直し、ついにイグニスへと尋ねる。
「あの入口のテラス席の女性は、常連さんですか? 待ち合わせか何かで、あそこに……」
坂本の問いかけに、一瞬ではあったが、確実な沈黙が流れた。さらには、坂本は、入口の女性からの視線を感じた。
慌てて女性を見る。しかし、女性は変わらず、人気のない路地裏を、ぼんやりと眺めていた。
「気になるかい?」
坂本の後頭部に、唐突なイグニスの問いが刺さる。
「はい……なんだか少しだけ……」
朧げな坂本の返事に、今度はクレメンスからの言葉が刺さる。
「俺も最近知ったんだ。魅力的な女さ」
やはり常連なんだ……と、思った。
「そんなに気になるなら、話しかけてみると良い」
続くイグニスの言葉が、高嶺の花に手を出そうとしているミツバチへの皮肉なのか、単に背中を押してくれているのかは分からなかった。すぐ近くの二人の声が、なんだかこもって聞こえたし、その前に、坂本の身体は入口のテラス席へと歩き出していた。
「もしも会話の返答に困ったら、俺たちの方を向きな」
背中にぶつけられるイグニスの声が、ひどく遠く聞こえた。
入口のテラス席、そこには、五月の夜らしい涼やかな風が吹いていた。
薄暗い路地裏であるはずなのに、黄金に輝く麦畑の匂いがした。それが風なのか、目の前の女性なのか……。
(今までナンパなどしたことがないし、そもそもこれはナンパなのだろうか? 恋とかではない、もっと単純な“興味本位”な気がする。本能に近しい)
坂本はそんなことを思いながら、自分でも意外と……あっけなく声を掛ける。
「すみません。もし良ければ、少しお話しませんか? なんだか……貴女のことが気になって。あっ……日本語は分かりますか?」
坂本の問いかけに、女性はゆっくりと目線を移し、坂本を見上げた。その表情には、急に話しかけられた迷惑を嫌がる顔も、逆に言えば、特別喜ぶような顔も無い。ただ、不気味なほどの美しさが張り付いていた。
不意に口を開いた。
「ええ、日本語で構いませんよ。それに、お話しするのも構いません。
私は美編。私は何も飲まないですけど」
とりあえずホッとした。ひとまず受け入れてくれたことに対してでもあるが、大きくは、女性の声色が優しかったから。
坂本は、美編と名乗った女性の対面の椅子に座る。しばし、見つめる。見れば見れほどに、現実味のない美しさ。年上にも年下にも見え、大人びていて幼げで……。
また不意に、口を開いた。
「それで? 正幸君が話したいことは?」
何故、美編が自分の名前を知っているのか……坂本はぎょっとしたが、きっとカウンターでの会話を聞いていただけだと、無理やり呑み込んだ。
「それが……何を話したかったのか……ついさっきまでは、貴女のことが気になって、貴女のことが知りたくて声を掛けたんですけど、今こうやって向かいに座ってみると、なんだか、貴女を知ってはいけない気がして……」
今度は不意に、クスリと笑った。
坂本は、心臓を直接握られた気がした。恋や、愛など、そんなちっぽけな存在じゃない。
絶対的な服従……逆らえぬ摂理に近しい。
「おかしな人。それじゃあ私から。正幸君は、お父さんのことをどう思ってるの?」
あまりにも急な展開。薄気味悪さに息を呑む。しかし、逃げられない。
自分自身が望んで、話しかけたのだから——
◆◇◆
——気づけば坂本は、自身の心の中の扉の前に座っていた。
そして美編も、ごく当たり前に、そこに居た。
真っ白で、綺麗な部屋。家具も家電も無い正四角形の空間。
ただ、自分たちの座っていた『Pantera』のテラス席だけはそのまんま。
そんな空間に似つかわしくない、大きく歪んだ薄汚い扉。
知っている。自分自身が、両親への想いを封じ込めている扉。
反対側の壁には小さな窓があり、その向こう側で暗雲が立ち込めている。
これも知っている。影山が死んだと聞かされた日に、何故だか現れた小窓。
「それで? お父さんのことはどう思っているの?」
この非現実的な状況をなにひとつ気にすることなく、美編が再度問う。そして坂本も、何故か全く気にならない。むしろ心地良かった。影山と二人きりの個室を思い出した。ありのままの自分でいられる空間……どの自分が、ありのままなのであるかは分からないけれど。
そしてそれは、美編の質問も同じく。
「正直、分かりません。感謝してると思います。母親にも。ただ、産んでくれて、育ててくれて、感謝しているんだと思います」
不意に、グッと近寄ってきた。
テーブルに飛び乗るように、グッと。
吐息すら感じる距離。
燃え尽きた藁炭のような臭いが漂う。
美編の大きな瞳が、自分の瞳を覗き込んでくる。
瞳孔には何も映らない。
吸い込まれそうな深淵がある。
もはやそこには、美しさなどない。
吐きそうなほどに、ただただ気持ちが悪い。
そして、美編は語り始める——
「まず間違いないことは、貴方が産まれたという事実。
それは、仮想現実やメタなどと呼ばれているいずれでもないし、そもそもに、貴方が今の世界をどう捉えていようが関係ない。今、私の話を聞いている時点で、貴方は“私と同じ次元に息をする住民”であり、即ち、貴方は十数年前にこの世界に産声を上げたのです。
ここで問いたいのは、貴方がそれを選択したのか?
貴方はこの世界に産まれ落ちることを自ら望んだのか?
ごく一部のぶち抜けた頭でない限り、自ずと答えは“No”であるはずです。選べるはずがありません。よもや、指先にも満たない命だった頃から意志を宿していたと……ささくれにも満たない身体で、神秘の大海を泳いでいたなどと言うまいに。
“あなた”という生命の誕生を決める最終ミーティングの卓上に、貴方は存在しない。
ピンと天高く伸ばし上げる腕など持ち得ないし、抗議の為に力強く立ち上がる脚もあるはずがない」
“違う”——その二文字が、坂本の喉の奥に貼り付いた。
口を開けば何か言えそうで、しかし舌は、冷えた金属みたいに動かなかった。
美編の言葉を否定したくても、抗える箇所が見当たらない。
坂本の口の中に、情けなく唾液が溜まる。
「それでは、“そこ”にあったのは何でしょうか——
父親と母親です。男と女です。欲望と願望です。
逆らいようのない先輩。絶対的な先祖。
それが真剣な議論の上の営みだったのか、一夜の過ちだったのかすら分かり得ない。
この不公平、この不条理を、『パワー・ハラスメント』と言わずに何と言いましょうか?
大勢はこう言うでしょう。
それは、“愛”……と」
美編の言葉が、一段低くなる。
坂本は、喉を通る唾液に、焦げたような苦みを感じる。
「しかし、私から言わせれば、そんなものは愛ではない。
もっと決まりの良い言葉があります。
それは、定めであり、運命です。
人間は皆、愛という便利な言葉にしがみつく。
定めや運命を、自分ひとりで背負える自信がないから、愛であることにする……愛であったことにする。
抽象的な言葉で包んで、ポケットに仕舞うのです」
逃げ出したい。これ以上聞きたくない。
美編の言葉の端が、濡れた布みたいに坂本の皮膚に貼り付く。
そのまま脳みそまで濡らされる。受け入れられない言葉たちで埋め尽くされていく。
「もう分ったでしょう? 正幸君。
貴方はまだ、大人になれていないのですよ。
自分の定めや運命を否定し続け、愛の名の下に、両親をこの扉の中に閉じ込めたから。
友人の死から目を逸らし、愛の名の下に、あの小窓から投げ捨てたから。
そんな子供じみた不安が、貴方と私を巡り合わせた。
人間として真に形を成すには、『パワー・ハラスメント』を受け入れるほかないのです。
人生という『パワ・ハラ』を。
もしも正幸君が辛いのなら、もしも耐えられないと言うのなら、私の胸に飛び込みなさい。
私はいつだって貴方の味方だし、いつだって貴方を楽にしてあげられる。
だから……」
正直、今すぐに美編を抱きしめたかった。
美編の胸で、泣き叫びたかった。
これ以上、僕を虐めないで。これ以上、僕を慰めないで。
これ以上……僕を愛さないで——
「もう一度問います。正幸君……貴方は、お父さんのことを、どう思っているの?」
張り詰める。世界が凍る。
この返答に、自らの命と同等な重さを感じる。音が聞こえてきそうなほどに、坂本の脳内がショートする。自分が今、息をしているのか分からない。自分の心臓が今、脈打っているのを感じられない。
全身の産毛が逆立つ中で、坂本は、イグニスの言葉を思い出す。
「もしも会話の返答に困ったら、俺たちの方を向きな」
ナンパの指南であると聞き流した言葉が、唯一の救いに感じられたから。
坂本は改めて、部屋をぐるりと見渡す。無論、イグニスもクレメンスも見当たらない。
左には扉、右に小窓。
(自分が座っていた場所から考えると、バーカウンターは小窓の外か……)
ただ何となく、そう思った。
次の瞬間、急に小窓が開け放たれ、嵐のような風が吹き荒れた。
湿っぽく、噎せるような熱気。風は部屋の中で渦巻き、坂本を包む。
美編の輪郭が薄れた気がする。
次いで、扉の向こう側から叩音が鳴り響き、扉は軋み、施錠部分の金属が、叩音のリズムに合わせてキンキンと、ハーモニーを奏でた。
また、美編の輪郭が薄れた気がした。
坂本は席を立ち、扉の前へと歩み寄る。怖くはない。ただ懐かしい。
扉の表面を撫でるように触る。温かい人間の体温を感じる。荒い息遣いが聞こえる。
「開くのですか?」
背中に甘えるように、寂し気な美編の声が寄り添う。
「はい」
短く答える。ひとつの別れを告げるように。
「大人になるのですね」
美編の声が、潤む。
「両親を受け入れることが、大人になることだとは思いません。
ただ僕は、ありのままであって欲しいと願うのです。
父親が選んだ愛も、母親が選んだ自由も、友人が選んだ最後も。
そして、僕自身も」
坂本は、ゆっくりと、扉の鍵を開ける。
◆◇◆
その日、クレメンスは、いつもの店に向かっていた。
池袋東口の路地裏で、ひっそりと営まれている『Pantera』。20年来の腐れ縁が営むタヴェルナ。
店に入ると、巨漢の男が歓迎する。
「やあ、イグニス。いつものだ」
クレメンスの注文に、イグニスは表情だけで返事をし、グレンモーレンジのボトルを棚から降ろす。許可を得るわけでもなく、それを二つのグラスに注ぎ、ひとつをカウンターに、そしてもうひとつを控えめに持ち上げて揺らす。
「今日も“居るな”」
クレメンスが徐に、入口のテラス席を横目で見ながら、ため息交じりに言葉を吐く。
「“女神様”ってのも大変なのさ。きっと、ここに来るべき人間を、待っているんだろうよ」
イグニスは、(しょうがないことさ)と、肩を竦める。
そこへ、ひとりの青年が現れた。
勿論、イグニスよりは小さいが、日本人にしてはしっかりとした体格。それを見せびらかさない謙虚な爽やかさ。まだどこかあどけない表情。
「あの子が迷える子羊かい?」
クレメンスの問いに、イグニスはまた、肩を竦める。
正幸と名乗る青年はカウンターへと座り、三杯分ほど会話をした。
無邪気な少年のようであり、しかし、必死に身に付けたであろう教養が窺える。大人のスーツを着た子供。そんな感じだ。
大抵の人間は騙せても、“ただの人間”ってわけじゃない二人には筒抜けだ。しかし、愛着は持てる。まさに“良い子”だ。
正幸は、テラス席の女が気になるらしい。二人はそれを止めない。いや、止められないことを知っている。誰しもが、運命からは逃れられないのさ……と。
テラス席に向かい合う正幸と女。
その情景を、カウンターから眺める二人。
「どうやら、“今回の子”は大丈夫そうだな」
イグニスの言葉の真意が、クレメンスにはまだ分からなかった。故に、問う。
「なんでそう思うんだい?」
「二人は心で会話をしている。“こないだの子”とは次元がひとつ違うのさ。もしかしたらあの青年も、“我々と同じ”なのかもしれないな」
やはり、クレメンスには分からなかった。故に、「そうか……」と、曖昧に流す。
それはほんの束の間であった。
正幸が椅子から立ち上がり、カウンターへと戻ってきた。それと同時に、女が寂し気に店を後にした。
イグニスが声を掛ける。
「おかえり。やっぱりあんたは“良い子”だ」
その後、何もなかったかのように再開する他愛もない会話。
しかし、クレメンスはどうしても気になり、正幸に聞いてみる。
「ところで、どうしてあんな良い女を振ったんだい? 一生に一度、出会えるかどうかだぜ?」
これに正幸は、ぬるくなったカールスバーグをゆっくりと飲み干し、どこか恥ずかしそうに答えるのであった。
「分かりません……ただ、僕にはまだ早すぎただけだと思います。
彼女はひどく大人な女性でしたから。
単純に、誰かの言葉を鵜呑みにするほど、僕は成熟していないし、この命を諦めるほど、人生を悲観してもいない。
ただの我儘と言えばそれまでですが、それでも良いなって……鏡に映るのが、そんな情けない自分でも許そうと思えたんです。
それは、彼女があまりにも完璧だったからかもしれません。
けれど、僕は自分の運命を認めるでも、受け入れるでもなく、ありのままで抗っていこうと思ったんです」
イグニスは言う。
「それも、ひとつの運命だな」
クレメンスは何も言わない。
ただ、空になりかけたグラスの氷をカラリと鳴らし、(分かったよ)と、返事をする。
正幸が言う。
「来週も来て良いですか? 出来れば毎週水曜日に」
イグニスは「もちろんだとも」と返し、クレメンスも、ニヒルな笑みで受け入れた。
◆◇◆
坂本 正幸の決断。
それは、運命という『パワー・ハラスメント』を告発するでもなく、また、泣き寝入りするでもなく、ただ当たり前に寄り添う。
父親のように背を向けず、母親のように逃げ出さず、影山のように諦めない。
それが、彼にとっての定めであり、運命だから。
こちらの作品は、別短編『スタートライン』と同一世界線の兄弟作となっております。
もしも気に入っていただけましたら、私の作品『スタートライン』を併せてお読みいただけますと、物語の深みが増すかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
【固定】
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