響かぬ声
朝日が窓から差し込んで、空気に舞う埃が目に見えた。人のいない道場は当たり前のように静かだが、とりわけ今日の朝は凪いでいる。
(大会近いのに......)
大会が近づき、昨日から朝練が始まった。しかし、この二日間の朝、いつも当たり前にあった太く通る部長の声は、稽古中に響かなかった。昴は面を小脇に抱え、黙って誰のいない道場のつや光る床を見つめた。
「先生―、隼人今日も休みなんすか? 最後の大会なのに部活にも来ないし」
香坂が担任に就任することが伝えられてから二日、隼人は欠席が続いた。体調を崩さないタイプで、滅多に休んでいるところも見ないので、余計に違和感に感じる。
「うん。体調不良って連絡入ってたよ」
「えぇ、絶対おかしいっすよ。メッセージにも既読付かないし」
昴は隼人がいない学校には何かが欠けている気がした。しかし、それ以上に隼人のことが心配でもあった。このところ隼人の様子がおかしいのは昴にも気づいていたし、あんな噂が出回っているのだから、それが彼を蝕むのも無理もない。
「昴! ちょっとこっち来て!」
「どうした?」
「なぁ、このニュース見た? この恋愛リアリティショーの男、ゲイ用の風俗で働いてたらしいよ」
「ぜってぇこいつもゲイじゃん」
彼らは冷やかし笑いで盛り上がる。別に、彼らにとっては、ゲイが異端者であるという認識は何もおかしくもないことなんだろう。思い返せば、今まで自分もこれに同調していた。でも最近隼人の件があり、真偽はどうであれ、トピックが身近になり、昴自身の中でも少なからず考え直すところもあったのは確かだった。
「へぇ、そうなんだ。俺、見てねぇからわかんねえわ」
「まあ、今の時代は多様性だもんな」
「出た、多様性」
昴自身も、ゲイとか多様性とかは表面上でしか理解していないので、彼らと大して変わらない。それなのに、違和感を感じるようになった。別に自分は多分当事者ではないし、身内がそうというわけでもないのに。今までの自分も含めて、本当の意味で「多様性」という言葉を使えていたのだろうか。きっと自分たちにとって都合の悪いもの、受け入れがたいものを総じて一つのラベルに片付けていたのではないだろうか。
(らしくないな......)
これも隼人がいないからだろうか。昴はいつになく思い詰める時間が増えていた。
「てかこの子めっちゃ可愛くね? なぁ昴?」
「あ、あぁ。え、可愛いね。どこの人?」
「ショート動画で流れてきてさ。俺昨日これで抜いちゃったわ」
「ばっかじゃねぇの」
こんなものでも瞬く間に会話が笑いで包まれる。いつもの男子高校生らしいしょうもない会話。隼人もいつも、こういった話に嫌悪を示しているようには感じなかった。
(さすがに……違うよな)
隼人は自分たちの中の揺るぎないリーダー。男子高校生の鏡で、憧れの存在。そんな彼が、根も葉もない噂に屈している状況が、昴には悔しかった。
「ゲイといえばさ……隼人、最近来てなくね? 学校」
特に深い考えもなく、集団の一人が話題を変えた。
「え、まさか図星だったとか?」
「んなわけねぇだろ」
嫌な雰囲気になりそうで、昴は咄嗟に声を少し荒らげてしまった。皆、昴の突然の反応に驚いている。
「……いや、ごめん」
ちょうどチャイムが鳴って、一同は解散した。昴は自席について、自問自答する。なぜ、自分は否定したのだろうか。本人から本当のことを聞いてもいないのに、決めつけている。自分だって無意識に、そのカテゴリーを拒んでいるのではないか。ではもしも、隼人が本当にそうだったのなら……。
――俺は、受け入れられるのだろうか。
その日、昴は珍しく授業中に寝ることはなかった。しかし、板書の手は進まない。自分の心に渦巻く複雑な心境が、自分を出口のない箱の中に閉じ込めているようだった。
帰りのホームルームが終わり、担当の人は清掃場所に移動する。昴の今週の担当は教室の掃除で、ゴミ捨てのジャンケンに負けたために、昴は両手にペットボトルと燃えるごみの大袋を持って、集積場に向かった。
「隼人がいないと、稽古やる相手がいないんだよなぁ」
昴が部活の愚痴をぼやきながら歩いていると、聞き捨てならない噂話が耳に飛び込んできた。
「藤代君って、そうなんだ。意外だわ」
「まあ、このご時世、多様性ってこと?」
今の「多様性」には、やはり明らかにわざとらしさが込められている。女子の笑い声が聞き捨てならず、昴は思わずその声の方を向いた。すると、目に入ったのは、昴が思いもしなかった人物だった。
(秦さん......?)
すると、昴の頭の中で、色々散らばっていた点と点が繋がり始めた。隼人と秦さんが別れた件が突然広まったのも、それと一緒にじわじわと隼人の疑惑が広まりつつあるのも、発端は彼女だ。そう考えれば、全ての辻褄が合った。愛されなかった恨みを全て噂として矢に変えた。もし本当なら......昴は腹の奥底がふつふつと湧き上がり、気づいたら秦さんに声をかけていた。
「なあ。そういうの、本人のいないとこで言うのはおかしいんじゃねえか?」
突然責められ、最初は困惑した秦さんも、昴の顔を見るや否や、面白くなさそうにして、目を細めた。
「でもさ、昴君は、隼人が絶対そうじゃないって言い切れるの?」
そう言った秦さんに、昴は次の言葉をぶつけられなかった。これではまるで、核心を突かれたみたいじゃないか。しかしながら、本人から直接本当のことを聞いたこともない。イエスともノーとも言えないのが事実だった。
「それにさ......」
秦さんが畳みかける言葉を口にした時、昴は呆然とした。
(隼人が……俺を......?)
なぜ、信じようとしているのだ。今突然、親友の元カノに告げられ、真に受けている自分が怖かった。昴はこれ以上秦さんと話しても無意味だと感じ、その場を急いで後にした。まるで、現実から逃げるかのように、それでも、今の自分には向き合えそうもない。ずっと、自分と同じだと思っていた。そんな親友が、何者か分からない。
駆け足で階段を降りようとした時、足元ばかりを見ていたせいで昴は何かにぶつかった。慌てて目線を上げると、そこには香坂がいた。
「だ、大丈夫? 日高君」
「すみません、大丈夫です」
香坂は様子がおかしい昴を見て、その場を後にしようとした彼を呼び止めた。
「どうしたの? 何かあった?」
昴はもう何が何だか、分からなかった。誰が好きとか、人がどうであるとか、愛とか、性とか......。もう、どうでもいい。隼人は、隼人でいい。だから......。
縋れるものがあれば、縋りたい。昴には、その時、目の前の香坂しか見えていなかった。
「先生、一つお願いがあるんです」
昴は荒れた呼吸を整えて、それから言った。
「先生! 隼人に伝えて欲しいんです......」




