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世界で一番大好きな料理

 数年ぶりに見る故郷の景色は、褪せても変わらないものがあった。いつの間にかシャッターが閉まっているお店も多かったが、実家の暖簾は今日も外に出ていて、風に揺れている。


「Shaw, are you ready?」


「Sure. イツデモイイヨ」


 澪は扉に手をかける。その手は少し震えていた。すると、後ろからショウがその手に彼の手を重ねる。暖かく、澪よりも大きな手が、その震えを和らげてくれた。


「ありがとう」


 いよいよ扉を右へ引く。ガララと音を立てると、懐かしい香りが漂ってきた。この時間は開店前の仕込みの最終段階。この香りがするのも、頷けた。


「ああ、澪。お帰り」


「た、ただいま」


 両親に「おかえり」と言われると、不思議にも「ただいま」と返してしまうらしい。


「電話でいいって言ったのに、わざわざ来てくれるなんて珍しい」


「今日は、来たかったの。それに、会わせたい人もいるし」


「会わせたい人?」


 父と母はそれぞれその手を止めた。二人の視線の先に、暖簾をくぐって、顔を出す大柄の男。


「その人......もしかして」


「うん。私の彼氏」


 二人はしばし、状況が呑み込めていないようだった。無理もない、久しぶりに帰ってきた娘が、突然大柄の、しかも外国人を連れてきて、それを彼氏と言うのだから。


「アア、エエット......ハジメマシテ、ショウ、ト、モウシマス」


 ショウの片言の挨拶に、二人は「はじめまして」と返さざるを得ないようだった。


「今日は二人に会ってもらいたくて、ショウにも来てもらったの」


「そう......なのね」


 母はやはり戸惑いを隠せずにいたが、ずっと立ち話をするわけにもいかないので、澪とショウを見せの中へ入れ、席に座らせた。


「先に、そっちの話をしよう」


 父も一時手を止めて、母とともに澪の前に相対して座った。もちろん、ショウも澪の隣に。しかし、ショウにはまだ完全に日本語を理解できないので、言葉というよりかは空気を読んで、神妙な面持ちになっていた。


「うん。改めて。三月いっぱいで、店を閉めようと思ってる」


 あの日から高校の二年間、そして大学からは一人降らしを選んだので、それから十年間。ほとんど話していなかったために、少し違和感もあったが、澪はとりあえず、黙って聞いていた。


「お父さんがこの前、体調を崩してね」


「え?」


「ごめん、忙しいから心配かけまいと思って、母さんには言わないでくれってお願いしてたんだ」


 十年の空白の時があった。そのような変化があってもおかしくない。むしろ、時間の問題だったろう。


「それで、私も看病しながらお店の面倒も見てってなると、厳しいものがあってね。お客もだんだん少なくなってきたし、そろそろ潮時かなって」


 あれだけ重い枷だと思っていたこの店も、間もなくその息を終えると思うと、澪は少なからず寂しさを抱いた。しかし、両親の判断は妥当だ。澪がこの店を継がない決断をした時、おそらく父も、このような未来を想像していたに違いない。


「......私は、このお店をどうすることもできない。でもね」


 すると、澪はカバンの中から、いくつかの小瓶を出した。


「これ......この前テレビで紹介されてた出汁パウダーでしょ? 海外でも人気だとか......」


「そう。これ、私が作ったの」


 両親は目を丸くした。そして、小瓶と澪の顔を交互に見る。そんなに百点満点なリアクションをされると、なんだかおかしくて、澪もそれで少し気がリラックスできた。


「これ、匂い嗅いでみて」


 小瓶の蓋を開け、二人はそれをそれぞれの鼻に近づける。それから、また目を丸くして、二人で顔を見合わせた。この反応には、ショウも上機嫌だ。


「これ......もしかして......」


「そう。うちの出汁の匂い」


 この人生で、ずっと傍にあったもの。それは、時に澪を苦しめ、時に安心させた。晴れの日も、雨の日も、気分がいい時も、悪い時も、変わらずあったもの、それを澪は小瓶に閉じ込めた。


「今は食品の会社に勤めてて、日本食を海外にプロデュースする部署にいるの。そこで私が初めて企画したのがこれだった」


「ミオサントデアッタノハ、ソレノオカゲデス」


 4年前に、ショウと初めて空港で出会ったあの日。澪は初めて自身で企画したこの出汁パウダーの商談でオーストラリアの地に飛んだ。そこから全てが始まった。


「やっぱり......私は、この味と、この匂いしか、世界に届けたいって思えなかった。だって」


 ふと、父と母の顔を見ると、二人とも涙を流している。父の涙は、祖父の葬式ぶりに見た。


「......私が世界で一番大好きな料理だから」


 母は立ち上がって、澪をハグした。小声で「ごめんなさい」と数回言って、澪はそれに首を振って応えた。ショウも涙目になりながら、父にハンカチを差し出して、手を握っている。


「それで、澪。そういうことなのね」


 親の勘は、いつも鋭い。澪の言葉を待たずして、ショウの存在を悟った。


「オトウサン、オカアサン......ミオサン、ト、ケッコン、シテモイイデスカ?」


 数年前、澪は同じ場所で絶望した。この人たちの世界はここでしかなくて、広がる空はどこへも繋がっていないと思っていると。きっと、分かり合える日は来ないと。しかし、今、海外の血を流す男が、精一杯の日本語で、二人に気持ちを伝えた。そして、二人は......。


「もちろん」


 神棚の上に飾られた祖母の穏やかな笑顔が、この瞬間を温かく見守っていた。







「そういえば、澪。これ忘れて行ったでしょ」


「え? ああ、アルバム! 懐かしいな」


 今日はお祝いだと言って父は午後から店を休みにし、ショウにありったけの和食を振舞った。もちろん、あの生姜焼きも。団欒を楽しんでいる時に、母が思い出して二階から持ってきたのは、高校のアルバムだった。


「ミオ、ノ、コウコウジダイ、ミタイ!」


 澪は10年ぶりにアルバムを開く。そこには懐かしい顔が並んでいて、父と母、そしてショウと一緒にゆっくりと眺めた。そして最後のページ、寄せ書きが書いてあり、久しぶりに目を通す。


「ミオ、コレ、ナント、カイテアルノ?」


 ショウが見つけたのは、藤代隼人からのメッセージだ。


「10年後......水平線の見える丘で......」


 思い出した。卒業式の日に、こんな約束を九組の皆で交わしたっけ。


「10年後って、ちょうど今日じゃない。行ってきなさいよ、すぐ近くなんだし」


「えー、だってこういうのって結局集まらないっていうパターンなんじゃない?」


「まあそうかもしれないけどさ」


 その時、店の戸がガラリと開き、一人の男性が入ってきた。


「あ、あれ? 今日もう終わっちゃった?」


「......瀬下君?」


「......ああ! 高瀬じゃん! えー! 久しぶり」


 店に入ってきたのは、高校二年の時のクラスメイトの瀬下海渡。どうやら店の暖簾が下がっていることに気づかなかったらしい。ショウはちょっと訝しんだ顔もしていた。


「あ、そっか。高瀬もこの後のやつに行くから?」


「”も”って他に見たの?」


「ああ、さっきバスケ部の練習に、水野たちが来たんだよ。あいつらもこれから行くんだってさ」


「ほんとうにあるんだ......」


 そうと分かれば、澪の心も行きたくなってきた。久しぶりに先生にも会いたい。澪はショウに簡単に説明して、丘へ向かうことにした。ショウは少し心配そうだったが、その後瀬下君とすぐに打ち解けたらしく、了解してくれた。






 外はもう夕焼けも終わりに差し掛かり、青色の空が近づいてきている。ちらつく星の光も、見え始めていた。


「やばい、出遅れちゃった......Oh, my gosh......」


 走って数分。学校の裏山の草木を踏みしめ、息を切らしながら丘にたどり着くと、もう既に数人集まっていた。


「Sorry! I'm late!」


 慌てて英語が出てしまったが、それですぐにみんなも誰か分かってくれたのか、茜たちが駆け寄ってきた。走って乱れたロングヘアをかき分けて、再会の喜びを顕にする。


「ひさしぶりー! 澪!」


「茜、ニュースで見たよ。凄いじゃん! それで、先生は?」


 澪が辺りを見渡しても、香坂先生の姿は見えない。茜は心なしか曇った表情を浮かべたような気がしたが、暗くてよく見えなかった。


「時間的にもそろそろかな......」


 藤代が時計を気にして、集まる人たちもそろそろかと打ち切ろうとした時、もう一人、やって来た。


「遅くなった!! ごめん」


 ちょうど、水平線に夕日が完全に沈む頃、最後にやって来たのは三年九組十三番、嵯峨零士(さがれいじ)だった。

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