見えるものよりも
あれから一年と少しが過ぎようとしていた。桜は葉桜に変わり、梅雨が始まろうとしている。いつの間にか夏が近づいていた。
「おはよう、澪。お弁当は持った?」
「うん。おばあちゃんは午前中、病院だっけ?」
「そうね。じゃあ行ってらっしゃい」
家を出て、イヤホンをする。耳に流れてくるのは、Maroon5。ここだけは変わらなかった。この登校の道も、三年目が過ぎ、数える程度になってきた。でも、この景色はこの先も見続けるのだろう。かつては洋楽を聞きながら歩けば違って見えたこの町も、特段変わって見えなくなった。
「あ、おはよー。澪、数学の宿題やった? 樹里ちゃんのプリントのやつ」
「あー、やべ。やってないわ。茜はやった?」
「私も今から。土日は練習試合でさ」
「そっか、大会近いもんね」
隣の席の女バスの茜は、バッグからプリントの束を出す。それは明らかに、数学の課題以外にもあるようだった。
「はい、みんなおはよー」
「おはようございまーす」
「今日から面談があるのと、今日のロングホームルームは文化祭のクラスの出し物について話し合いをしてください。OK?」
最後のクラスは九組。当初担任だった鈴木から、新人の香坂樹里先生に代わり、それももう一ヶ月が過ぎるところだった。
「今日の面談は......高瀬さんからかな」
澪は迷わず、面談のトップバッターを選んだ。それも、澪には選択肢がないから。レールは決まっていて、それがブレることはもうなかった。
文化祭の出し物決めは、学級委員の藤代隼人が執り行った。
「え、俺メイド喫茶やりたいんだけど」
「いやいや、しんちゃんのメイド姿とかどこにも需要ないって」
クラスのムードメーカー阿部慎之介が、笑いを起こす。それはいつもの光景で、受験やそれぞれの進路でピリピリしがちなこの時期にしては、雰囲気の良いクラスだと思った。それは、逆境を越えて前に立つリーダーのおかげか、はたまた、生徒に寄り添うお姉ちゃんのような存在の担任のおかげか。
「でも、あながち良い案かもよ? 飲食なら進学組も準備参加しやすいだろうし」
「高瀬の実家、レストランじゃなかった? 食材とか安く仕入れられそうじゃね?」
突然澪にベクトルが向いて、若干驚いたが、もうバレていることだし、このクラスの良い雰囲気を崩したくもない。
「あー、いいよ。おばあちゃんに聞いてみる」
その時、携帯電話が一つ震え、メッセージが届いた。送り主は......。
《Frazer》
ヒロが必死に考えて提案してくれた、あのパンフレットは、次の日ゴミ箱に捨てられていた。ヒロが転校して、エイドリアン先生も異動してしまったので、英語部もなくなった。澪の元に残った、あの飛行機雲はまた夢となって、心にしまった。それでも一つだけ、繋がっていた。それは時々送られてくるヒロからのオーストラリアでも生活の話。オーストラリアの朝食、休日のおでかけ、ガールフレンドの話まで。それに対して澪も、陽川高校での出来事を話している。このやりとりだけが、閉ざした澪の心を腐らせなかった。
《そういえば、この前。Shawがね......》
Shawはヒロが向こうで最初に出来た友達。ヒロの話によく出演していて、とっても素敵でおもしろい人だということが伝わってくる。そして、彼のSNSにあがる写真で顔も見たことがあるので、なんだか話したことのある気がしてしまう。
《また、日本の皆にも、澪にも会いたいな。あ、Shawも澪に会いたいって言ってたよ》
澪はいつものように、ヒロと同じくらいの分量で返信した。
《私もいつか会ってみたいな......》
澪は必ず「いつか」を付けることを忘れなかった。心だけでは、叶えられない。少なくともすぐには。見える現実には、ヒロやShawと会うことはないから。
「じゃあ、そのまま掃除して、今日は解散です。高瀬さん、そしたらそのまま数学準備室行こうか」
「はい」
澪がヒロとのやり取りに夢中になっている間に、ホームルームが全て終わっていた。
「失礼しまーす」
準備室に入ると、先生はバインダーから澪の提出した進路希望調査を取り出して、座った。
「えーっと、高瀬さんは......専門学校志望か。この成績なら、指定校推薦も取れそうだけどいいの?」
「はい。昔から、実家を継ぐように育てられてきたので、調理師を目指します」
「ふーん、なるほど......」
先生は頷きながらコーヒーをすすった。
「それは、ご家庭の方針だよね。高瀬さん自身は、それでいいの?」
痛いところを突いてくる。それでも、澪にとってこの問いは慣れっこだった。正論のように聞こえる問いを振りかざしても、一度傷となり、それが塞がったところは簡単には見せびらかさない。
「はい。ってか、先生。そんなこと言ってたらいつか、保護者に怒られたりしそうですけど」
「たしかに......踏み込みすぎか」
そう言って先生は苦笑いをした。どうも体当たりな感じの先生の方針は危なっかしい。だが、嫌な感じもしなかった。よっぽど飾った人間の方が感じが悪い。このくらい真っ直ぐだと、ついつい心を置いてしまう。
「......なんで、そう思ったんですか?」
面談など数分で終わらせる気でいたが、思わず聞くはずのないことを聞いてしまった。
「ん-、なんか......見えるものしか見てない感じがしたから」
先生は再びコーヒーをすする。澪は、言葉を失ってしまった。先生は......占い師か何かなのか?
「なんで......」
「高瀬さん、本当は海外に興味あるんじゃない? ほら、一年生は英語部に入ってたみたいだし、英語の成績も頭一つ違う。私は英語苦手だったから、羨ましいわ」
先生はズバズバと核心を突いた。それも、適当な冗談と一緒だから、嫌でもすんなりと聞いてしまう。
「......私......諦めたんです。ずっと前から、興味はありました。留学にも行きたかった。でも、うちは料理屋で、両親は自分が継ぐことを期待してる。その期待を裏切るなんて自分にはできなかった。一度、試みたりもしたけど、無理だった。私の心なんて、誰にも見えないんです」
澪の連ねた本音を、先生は真剣な表情で聞いた。そして、ゆっくりと口を開く。その目は離さずに。
「そうね......心は誰にも見えないものよね......だからさ、高瀬さん」
澪は固唾を飲んだ。
「見えるものよりも、大事にするのよ。あなたの心を」
こんなにも真っ直ぐで、力任せな言葉は初めてだった。遠い所へ行きたい、それは飛行機で行くようなところ。町を出て、山を越え、海を越え、知らない町の知らない人の知らない文化に触れる。それほど遠い場所には、これほどまでに純粋で力強い言葉が背中を押す必要があったのだ。自分で歩く、そのための一歩を踏み出す勇気を、先生の言葉は添えてくれた。
「私......でも......」
久しぶりに心が揺らいでいる。あの日から死んだように固まっていた心が、動き出そうとしている。それは、かつて自室のテレビで、隠れて観たあの映画に出会った時のように。ヒロがくれたパンフレットのように。
「すぐに決断できないかもしれない。でも、大学に行けば何か違う道が見えるかもしれない。時間もできる。そうすれば、強くなって、勇気が出るかもしれない。心を失う決断は、まだ早いよ」
先生の後ろの窓から、空が見える。夕日のオレンジが濃くなって、雨の多いこの頃、飛行機雲も浮かんでいる。澪は、自分が思うよりも、空はずっと広いみたいだと気づいた。
「先生。私......」
澪は決断を言葉にした。思い切って舵を切る。今いる海から離れて、もっと遠くへ行こう。嵐も荒海もあるだろうけど、きっと先生は信じてくれる。そうして辿り着いた先には......。
※※※
澪は空港につき、確かな異国の風を感じた。心は踊っている。澪は携帯でヒロにメッセージを送った。
《着いたよ!》
すると、前を歩いていた上司が振り返った。
「そしたら高瀬、明日のミーティングは午前九時からな。俺は前にお世話になった人のところにお邪魔するから......高瀬は、先方の人がホテルとってくれてるみたいだな。迎え来るんじゃないか?」
入国審査の列に並びながら、上司はスマホでメールに添付されていた資料を確認した。
「そうですね、たぶん。2,3人の若手社員が来てくれて、今日は少し町を案内してくれるみたいです」
「そうか。シドニーはいいとこだぞ。初めてか?」
「はい、初めてで......ずっと、来たかったところです」
澪はそう言って、輝かせる目を笑顔に乗せた。
入国審査が終わり、ロビーに向かう。遠くに手を振る人がいた。
「Hey! Kazuki!」
「Hi! Brendan! Be good?」
上司が迎えに来た今回の商談相手で、かつて交流のあった現地の先方と挨拶と軽い抱擁を交わす。澪は上司にアイコンタクトで「また後ほど」と言って、自身の迎えの人を探した。その時、
「タカセサン!」
片言の日本語が聞こえ、音の発信源を見ると、ひとり笑顔で手を振る青年がいた。手には、歓迎の言葉と、澪の会社名、それから澪の名前がデザインされたパネルがあった。
「Something came up, and my colleague can't come.」
彼は申し訳なさそうにして、同僚が来れなかったことを誤った。その時、澪は脳裏で何か見覚えのある記憶が呼び出されてきた。髪はビジネスマンのさっぱりしたスタイルに代わっていたが、顔が見たことある。大きくぱっちりとした青い瞳に、幸せそうな優しい笑顔。ヒロの隣によく立って写真に写っていた、あの人。
「......Are you Shaw?」
その時ふと目が合って、窓など開いていないはずの空港に、風が吹き抜けたような気がした。この先、彼と始まる新しい世界を祝福するように。




