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知らない彼

 冬のこの頃は、大気が冷たく、こめかみがキーンと痛くなることがある。それに加え、昨日の一件も残像がぼんやりと残り、何となく頭が重かった。一限の情報の授業は、PC室で行われるため、澪は浮かない顔で移動し、少しふかふかの大きな席に座った。


「ねえねえ」


 チャイムが鳴る少し前、出席番号が一つ前で席が隣の青海温(せいかいはる)が小さな声で話しかけてきた。


「澪ちゃんって、浩君と付き合ってるの?」


 あまりにも直接的に聞かれたので、澪は思わずせき込んだ。


「......え、なんでそうなるの」


「だって、二人一緒に帰ってるでしょ? それに英語部だって二人きりだし......」


 温はいかにも興味を隠しきれていない。思えば、高校生にもなって男女二人きりで帰ったり、部活に入ったりしていたら、それはそのような噂になるのも無理もない。むしろ、この一年大きな噂にならなかったのが奇跡なくらい。それに、ただでさえヒロは目立つので、少し考えればこうなることくらい、誰でも分かることだった。


「そんな、私は......それに昨日喧嘩したし」


 澪がボソッと言うと、温はつまらなそうに潔く引き下がった。







 澪はクラスの教室でヒロの斜め後ろの席にいた。澪はぼーっとヒロの背中を見つめる。先ほどの噂、大事になっていなかったから澪が気にしていなかっただけで、周りではとうに噂になっていたらしい。移動教室の帰りに温に追及すると、噂だけでなく、二人は既に付き合っていて、ゆえに周りの熱はそこまで上がらなかったのだという。誠に勝手な憶測だ。しかし、澪もまた、その噂を耳にして、ヒロの見る目が変わっていたのは確かだった。


「じゃあ......次、フレイザー。続きから読んで」


 先生に指名され、ヒロは音読を始めた。気づけばいつもそばにあった声、そして背中越しに見える彼の顔。外国人由来のはっきりとした顔が、いつもと違って見えた。


「じゃあ次、高瀬。おい、高瀬」


「......っ、はい」


 ヒロに気をとられ、すっかり恥をかいてしまった。澪は頬を熱くしながら、教科書で顔を隠した。その時ふと、教科書越しにヒロが自分を見ているのに気づいた。彼も少し子馬鹿にして笑っている。いつもは、反抗してガンでも飛ばすのだが、今は妙に気が狂っていた。彼と目が合わせられず、すぐに教科書に視線を戻した。


「私がKに向かって新しい住居の心持はどうだと聞いた時に......」


 澪は音読しながら、一連の奇妙な現象に、噂ではなく、昨日の喧嘩を理由として結び付けた。そしてそう、心に言い聞かせた。








 二月、昨日までの寒さは一旦やわらぎ、小春日和がやって来た。澪は久しぶりに外に出てちょうどよい気候になったことを喜ばしく思いながら、男子たちがサッカーで熱戦を繰り広げるのを見ていた。


「三組勝ったらしいよ。だから、男子これに勝てば決勝行けるって」


「えー、じゃあ頑張って欲しいね」


 二月のこの時期は、一年生と二年生の合同球技大会が行われる。種目は三種。澪は女子のバスケに出る予定で、試合はさきほど一つ勝利を収め、二回戦はこの後だった。一方、男子のサッカーも順調で、決勝に望みをつなげている。


「うわー、今の惜しかったね」


「スポーツしてる男子って、いつもの三割増しでかっこよく見えるよね」


「わかるー。あ、ヒロ君、あちゃー、ボール取られちゃってんじゃん」


 そういえばヒロはスポーツが苦手だと言っていた。体育はいつも男女別なので、ちゃんとヒロがスポーツしているのを初めて見た。本当に、不器用なんだな。


「ヒロ君、ガタイはいいから、スポーツ得意じゃないの意外だよね」


「それなー、まあハーフとはいえ、ヒロ君も人間だからね」


 女子たちの勝手な言い様に、若干モヤッともしたが、澪の視線はヒロにくっついていた。大きな体を彼なりに頑張って動かしている。ところどころ不器用で、でもそこが人間らしく、落ち着く。全く貢献はしていないけど、仲間たちと笑顔を交わし合っている彼の姿は、澪の心を軽くさせるようになった。


「そういえば、聞いた? ヒロ君、転校しちゃうらしいよ」


「あー、らしいよね。でももともと決まってたんでしょ? 海外に転勤になるからって」


「まあでもヒロ君なら英語も問題ないよね」


 初めは同じようにテキトーに「へえ」と聞き流していたが、会話の言葉が澪の認知に及んだ瞬間、澪は時が止まったように感じた。


「......え?」


 呼吸が浅くなり、冷や汗が滲み出る。言葉が「知る」に及んでもなお、「わかる」には至らなかった。澪はもう一度、ヒロを見る。いつものヒロ。それなのに、その言葉を聞いたら、もう違った。


「え、澪、知らなかったの?」


「澪が一番最初に聞いてると思ってた」


 視界がにじみ出す。耳の奥で、何かが崩れる音がした。


「......全然、知らない。言われてない......」


「え、ちょっ、澪!」


 澪は思わず、校舎へ走り出した。何かから逃げたいのか、自分の行動も理解せぬまま、自分の知らないヒロから逃げるように、あるいは自分の知っていたヒロを追いかけるように、走った。

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