針は向けども
扉をガラリと開けると、教室の真ん中に寄せられたテーブルの上に、お菓子とジュースが並べられていた。
「Hi! Mio!」
「Hi! Mr. Adrian!」
顧問であり、陽川高校のALTのエイドリアン先生と挨拶を交わす。するとすぐに、ヒロもやって来た。
「Hi! Hiro!」
「Hi! What do we do today?」
「Today......」
エイドリアン先生は、注目を集め、それから持っていたパネルをこちらに見せた。
「THANKS GIVING DAY!」
先生の盛り上げに、ヒロは手を挙げて喜ぶ。澪も一緒になって盛り上がった。
英語部は、三年生の先輩が四人いたが、約半年前の六月に引退した。二年生の先輩はいなかったので、澪とヒロ、それからもう四人の同級生が部の存続に貢献したのだ。しかし今は、その四人は幽霊部員。どうやら四人とも兼部先にメインを置いたり、アルバイトに勤しんだりしているようだった。おかげで、今ではほとんどの活動が澪とヒロ、それからエイドリアン先生の三人で行われた。
「OK, Let’s call it a day!」
「I have a good time. Thanks you, Mr. Adrian!」
今日の活動もお開きになり、澪はヒロと二人で帰路に着いた。最近はヒロが自転車通学になったので、澪の家の近くまで帰路が一緒だった。
「今日も楽しかったね」
「うん、エイドリアン先生マジでおもろい」
「でも、お菓子食べすぎちゃったー、夜ご飯の前なのに」
「それな。でも俺はまだまだ腹入るぞ」
「さすがアメリカンの息子だわ」
たわいもない会話で、部活の余韻に浸りながら歩く。しかし今日は何となくパーティーでエネルギーを使いすぎたのか、話のネタが尽きてしまったような気がした。
「そういえばさ。ヒロは、なんで英語部に入ろうとしたの?」
ふと、話のネタになるかと思って、澪はベタな質問をしてみた。しかし、意外にもヒロははっきりした答えを出しはしなかった。その曖昧な返事の前に一瞬見せた都合の悪そうな表情を、澪は見逃さなかったので、それ以上は詮索しなかった。
あっという間に年が明け、三学期になった。今日も同じ英語部の活動場所の教室の扉を開ける。
「え、あれ。先生は?」
教室には、いつも先にいるはずのエイドリアン先生の姿が見えず、代わりにいつも後に来るヒロが先にいた。
「ああ、なんか。職員室に資料忘れてきたらしいから、取りに行ってるって」
「ふーん」
別にそれだけであったら奇妙なことではないのだが、それに対して奇妙だったのは彼の様子だった。
「......ヒロ、なんかあった?」
しかしヒロは一貫して、首を横に振った。
「Hi! Everyone! How are you today?」
それから間もなくして、いつもの調子でエイドリアン先生が教室に入ってきた。そして、一瞬ヒロにアイコンタクトをしてから、一枚の紙を机に置いた。
「This is "THE STUDY ABROAD PROGRAM". If you are interested in this program, you can apply for it.」
「Wow......」
少し、ヒロの反応が大袈裟な気もしたが、澪も先生の提案には心が動かされた。たった一枚の紙だけれど、その中に自分の興味の針が向いている。澪は先生から受け取ったパンフレットを、しばし眺めていた。
その日の帰り道、先ほどの一件の話を切り出したのはヒロの方だった。
「なあ、澪はさっきの留学プログラム、どうなんだよ」
「ああ、面白そうだったんだけど......」
澪の押している自転車のタイヤの回るスピードが遅くなる。先ほどの瞳の輝きは、既に澪の目からは薄れていた。
「まあ、現実的に考えたら、厳しいよなぁって」
選択は、心だけではできない。それは、このたった十数年でも痛いほどに感じてきた。今の自分には、家に逆らってまで、自分の心を曝け出す勇気はない。いくら澪の興味がそこに針を向けていても、船がその海の上にいなかった。
「でもさ......」
ヒロは逆接の言葉を並べた。なんでだろう。マフラーに顔を埋める澪は、横目でヒロを見ると、彼は実に真剣な眼差しで目を合わせた。
「現実的に、でしょ?」
彼は本気だ。そう、ヒロの目が語っている。ヒロは、澪を説得しようとしていた。でも、なぜそんなに、突然踏み込んでくるのだろう。
「......どういう意味?」
「澪の本当の気持ちはどうなの?」
彼は唐突に核心を突いてきた。土足で踏み込んでくる彼に、準備をしていなかった澪は拒絶反応が出てしまった。
「......」
「なんで、黙ってるの?」
それでも彼は引き下がらない。今までは程よい関係で、互いにその距離を尊重していたはずなのに、どうして急に。ヒロに、澪の気持ちは分かり得ない。この十数年、もし言えるのであれば、とっくに打ち明けていた。それでも、言えなかった。飛行機雲を見ては、夢を見て、そして出汁の香りがして、夢を消しゴムで消す。そうやってここまで生きてきた。自分は自分だけのものではない。そんなの、ヒロに分からない。
「......分からないでしょ」
「......?」
「だから......分からないでしょ!」
琴線に触れたのだろうか、澪は不本意ながら声を荒げてしまった。ヒロはきっと動揺しているだろう。彼も悪気があったわけではないから。本気で、私の航路を変えようとしているのだ。しかしどうしても、彼が突然に、そこまでしてくることの理由が、澪には皆目見当もつかなかった。
「ごめん、今日は先帰るね」
澪は慌てて自転車に乗り、逃げるようにペダルをこぎ出した。一度も振り返らずに、ヒロの寂しさも知らずに。




