ヒロ
その年の冬は少し長くて、つい最近まで雪がちらつく日もあった。しかし、気づけば桜が咲き、新たな制服に袖を通した時にはすっかり春の陽気になっていた。
「あ、おはよう! おばあちゃん」
「おはよう。朝から元気ねえ」
「ちょっと、澪! あんたいっくら学校まで近いからってゆっくりしすぎなのよ! まったくもう」
まさか新学期早々に母の説教が炸裂するとは思わなかったが、無理もない。高校からは校則もゆるくなり、化粧も軽くしなければいけない。初日は特に肝心。なので、今までの中学の朝の時間間隔ではダメだった。
「澪はきょうから高校か」
「そうそう、あ、お母さん。私も準備したら入学式行ってくるから、冷蔵庫のもので朝適当に済ませて頂戴」
澪は無事に、地元の公立高校の陽川高校に合格し、今日からその生徒のひとりになる。しかし特段、何かを期待するわけでもなく、毎日も変わらないだろうと思っていた。
「じゃあ行ってきまーす」
「忘れ物ないね? 気をつけて!」
澪は家を出るなり、イヤホンを耳にして、音楽アプリを開く。アプリのトップに出てくる流行りのJ-POPでもなく、洋楽を選んで、再生させた。流れてくる音と、英語の言葉。周りの風景はいつもと変わらないけど、洋楽を聞いて歩くと、街並みが少し映画の中のワンシーンに思えて、足取りが軽くなった。
初めて入る校舎に、一歩足を踏み入れると、そこは違う国に行ったようで、何となく澪の心を高鳴らせた。
「ねえ」
突然話しかけられ、イヤホンを外して振り返ると、そこには少し外国人っぽい顔をした男の子がいた。
「ん? 何かありましたか?」
すると彼は耳を指さして、笑った。
「もしかして、Maroon5聞いてる?」
彼の言う通り、澪が今歩いて来た道で聞いていたのは、その名のイギリスのロックバンドだった。澪はなぜバレたのかという疑問と、初対面という異質な状況が掛け算され、恐怖感が募ってきた。
「ああ、ちょっ。怖がらないで」
どうやら表情に出ていたのか、慌てて彼は弁解しようとした。
「ベースの音が音漏れしてて。聞いたことあるなーって思ったから声かけちゃった」
なんだ、音漏れか。と安堵したのち、初対面の人に音漏れがバレたのが妙に恥ずかしく、顔が火照りだしたので、慌てて何かを話そうとした。
「えっと、あー。一年生?」
「うん、俺は7組のフレイザー浩。ヒロって呼んで」
「うん、わかった。私は高瀬澪。同じ、7組」
「え、うそ! 一緒?」
「うん、一緒」
彼は見る見るうちに笑顔になった。元々目鼻立ちがくっきりしていた顔が、笑うとすごく絵になる。ファーストネームにも納得がいった。
「俺も、父親がアメリカ人でさ。洋楽聞くんだけど、特にMaroon5が好きでさ」
一期一会とはこういうことを指すのだろうか。澪は何となく、彼と相性が合う気がした。同じクラスメイトで、最初の友達になれそうだ。二人は洋楽の話で盛り上がりながら、教室に向かった。
入学式が終わり、校内は部活の勧誘でにぎわいだした。コロナウイルスのパンデミックが終息し、中学の時は見られなかったこの光景も、高校で初めて見ることとなった。
「なあ、澪はどっか入りたい部活あるの?」
ヒロに話しかけられ、澪はまったく考えていなかったことに気づく。
「......どうしようかなあ。ヒロは? 体格良いし、運動部とか?」
「あー、体格は父さん譲り。中学はバドミントンやってたけどー、俺不器用だったんだよね」
ヒロは苦笑いを浮かべ、肩を揺らした。
「まあ、部活に入らないって道も......」
澪は無理に答えを出さずに終えようとした時、ヒロはある部活のポスターを指さした。
「なあ、これ入らない?」
ヒロが興味を示したのは『英語部』のポスターだった。名前と活動日と場所、それからいくつかのアルファベットがデザインされていた。
「澪、洋楽聞いてたし......英語興味あるかなって」
文化部でも、かなり穏やかそうな部活にヒロが興味を示したことに、澪は少し可笑しさを覚えた。勝手に人を見た目で判断してはいけないが、どうしても、見た目と部活のイメージの解釈が一致しなかったから。
「なに笑ってんだよ」
「ははは、ごめんごめん。いいよ、入ろう」
澪の答えに、ヒロはまたあの笑顔を見せた。おおらかで包み込んでくれそうな、笑顔。目元のクシャっとした彼を見ると、澪もまた心の温度を一つ上げた。
「じゃあ、明日、体験行こうぜ。じゃあな」
「うん、じゃあね」
彼が手を振って去っていくのを、澪はただ見つめた。たった一日、それなのに、自分の世界が一気に一方のレールへ進んで行った気がする。ふと空を見ると、飛行機雲が浮かんでいた。小学生のあの日、思いを馳せたあの雲と同じ。今まで心に抑え込んでいて、祖母にしか打ち明けなかった気持ちが、反動で溢れてきたのかもしれない。
帰路に着いた澪は、その道を一歩一歩家に近づける度に、現実に戻ってきた気分だった。春の陽気に酔って、少し舞い上がっていたのかもしれない。
「ただいまー」
家の戸を開けて、またいつもの出汁の匂いが鼻に入る頃には、開け放っていた心の戸を完全に閉めていた。




