ここだけの秘密
それから六月になって、中学へ無事に入学できた。止まっていた世界も、少しずつ息を吹き返すように、しかしながら、それ以前とは確かに違う時間が動き出した。何回か休校や、分散投稿を繰り返しながら、澪は順調に中学生活を送った。
「じゃあ英語のテスト返すぞ。相田」
時は三年経ち、中学最後の定期テスト。澪は名前を呼ばれ、英語のテストを受け取った。点数は、97点。英作文で一つケアレスミスがあって、それ以外は全てに〇がついていた。
「え、澪点数たっか。クラス一位じゃね?」
「英語だけできるんだよね、他が散々だから意味ないんだけど」
そう、他のテストは散々な出来だった。三年間変わらず。しかし、英語だけは、何故か興味が向いて、見る見るうちに頭の中へ入ってきた。
「すごいじゃない、澪。んで、他の教科は?」
「えーっと、......はい」
親に見せる順番を間違えた。英語を最後に持ってくるべきだったが、最初に見せてしまったがために、一度満面の笑みだった母の顔は、あっという間に落胆に変わった。
「高校はどこに行くか決めたの?」
「うーん、地元の公立でいいかなって」
本当は、英語を活かした国際系に強い私立高校なども考えた。しかし、家庭情況、それに国際系という進路は、専ら家で打ち明ける気持ちになれなかった。
「そう、そしたら陽川とか?」
「そうだね、それなら徒歩で通えるし、お店手伝ったり、おばあちゃん見たりできるでしょ」
「そうね、それだと助かるわ」
その言葉とともに浮かべた母の表情の意味、それを澪は知っていた。
「じゃあお母さん、澪の夜ご飯よろしくね」
祖母が来てから、夕食は祖母ととるようになった。そのため、夕方の母との料理の時間も、だんだん無くなっていった。
「おばあちゃん、今日は夜ご飯何?」
「うーんとね、煮物と、焼き魚にしようかな。澪は、受験勉強かい?」
「うん。できるまでしてくるね」
「はい、いっといで」
澪は自室に入り、机に向かった。地元の陽川高校は、模試ではA判定だった。それも全て英語のおかげ。それに近年は公立高校の人気も下がり、中堅以下の高校は倍率が低い。普通に勉強すれば、受かりそうだった。
澪は無意識に英語の参考書を開いた。それから、すらすらとペンを動かす。他の教科は、そのペンの心地が悪いのに、英語は心地よかった。何となく、芯がノートに引っかからない気がして、摩擦が少ない。そして、時間も忘れて夢中になれる。
「澪ー、入るよー」
ふとノックする音が聞こえて、振り返ると、祖母がやって来ていた。
「夜ご飯できたよ」
時計を見ると、一時間半くらい経っていた。澪は参考書をしまい、すぐにリビングへと戻った。
「わあ、たくさん」
食卓には、宣言通りの煮物と焼き魚に加えて、漬物、みそ汁、それにサラダまで用意されていた。祖母の食卓はだいたいこうで、いつも余るので、余った料理は一階へ持っていき、両親のまかない、ないしは閉店後までいる地元の常連さんへの酒の肴になるのだった。
「あ、これ。澪が好きなやつじゃない?」
リモコンでチャンネルを変えていた祖母は、民放でやっていた、あの、お気に入りの洋画で止めた。
「おばあちゃん、知ってたの?」
今まで誰にも話したことなかったので、澪は祖母がなぜ知っているのか、戸惑いが隠せなかった。
「この前、ごみ捨てで部屋にお邪魔した時にね、机の上に置いてあって。この映画、おばあちゃんも好きなのよ」
母よりもずっとテンポの遅い口調で、納豆を混ぜながら言った。
「映画、好きだったの? おばあちゃん」
澪は拍子抜けして、祖母を見つめた。ずっと隠してた心を、祖母はこじ開けることなく、川の流れのように優しく撫でた。
「澪は、海外に行ってみたいんじゃないのかい?」
祖母のその言葉で、奥にしまっていた本当の気持ちに光が灯った。長年の勘というものだろうか、英語が得意であったり、洋画が好きだったり、細かい要素が祖母の勘を働かせたのだろう。自分の中でしか存在できないと思っていたものが、祖母の言葉で、形を伴って、外に出てきた。
「おばあちゃん......」
いつもは潤まないシーンで、澪はふわりと瞳を潤ませた。涙を流すほどではない、その少し滲む思いが、澪にはとても大きな扉だった。祖母も、澪のその様子を静かに見守る。
「......ここだけの秘密ね」
そして澪は、生まれて初めて、心の声を、自分の肉声に変えた。




