移りゆく世界
息をする間もないほどに、急いで母親の実家へ向かった。母親の実家は、自宅の隣町であったことが、不幸中の幸いだったのかも知れない。父と母が家で状況把握に向かい、澪は車でじっと待機した。しばらくして、救急車の音が近づいて来た。そして、澪の心配が的を射て、その音は家の前で止まった。
父が戻ってきたのはそれから三十分した頃だった。浮かない表情を見て、澪は状況を察する。自分からは言わないように、そっと親の話し出すタイミングを待った。
「澪、落ち着いて聞いてくれるか?」
「うん」
「おじいちゃんが倒れて、今、救急車で運ばれた。おそらく肺炎だってさ」
「はいえん?」
「うん。今のコロナウイルスのせいの可能性が高いって」
まだ十三歳の澪に、詳しい言葉の意味は分からなかった。しかしながら、その七文字は、とうとう身内にまで忍び寄ってきていた。そのウイルスに感染した人の行く末は、ニュースでたくさん見て、言葉にしてもらわなくても、覚悟をした。
「お父さんも、お母さんも、病気が移っちゃいけないから、ちゃんとおじいちゃんの顔は見れなくて。お母さんも、もう少し時間が必要だろうから、今はそっとしといてあげられるか?」
とはいえ澪も今年で中学生。父の切迫な語気から、事の重大さ、理解できる。そしてそのくらいの弁えはできる。澪は黙って車の窓から夜の空を見つめ、しばらくして再び鳴り出したサイレンが遠くなって夜に消えていくのを、ただ耳で燻ぶらせた。
物語では、こういう日はだいたい雨が降る。しかし今日は、雲一つないほどの澄み切った空が広がる、春の日だった。
祖父はあの日から数日して亡くなった。コロナウイルスによる肺炎らしい。厳戒態勢の中、十分に最期も看取れず、不甲斐ない別れだった。澪は、身内が亡くなるのが初めてで、いまいち実感が湧かなかった。
「それでは、ほどなくお別れです」
本当なら、棺の中で眠る祖父の顔を見て、涙を流したかもしれない。しかしそれすらも叶わなかった。澪が初めて涙を流したのは、祖父の棺がゆっくりと火葬場に進むとき、静かに涙を流していた父親を見た時だった。澪にとって、父親の涙を見るのは初めてだったから。
葬儀が終わり、家族葬とはいえ感染対策もあるので、すぐに解散になった。祖母は、色々と整理がつくまでしばらく、家に来ることになったため、一緒に実家へ帰ってきた。
「澪、おなかすいてるだろ。なんか作ろうか」
「うん」
父は口数少なく、静かに調理を始めた。しばらくして、いつもの出汁の香りがした。優しく、懐かしい匂い。その匂いは、時が止まっているのに、世界は目まぐるしく狂っていく中で乱れる澪の心を落ち着かせてくれた。
数十分で、父は澪の前にみそ汁とおにぎりが出てきた。先ほどの出汁の匂いが閉じこもった、みそ汁を口にして、それからおにぎりを口いっぱいに頬張った。中の具は、おかか。これもいつものままだ。
≪ニュースです。ニューヨークではロックダウンが......≫
海外のニュースが流れて、澪はふとこの頃の自分の気持ちを思い出した。自分のレールはどこに伸びているんだろうか。もしかしたら、海外に伸びているのかもしれない。でも、そのレールに乗っていったら、この出汁の匂いはもう消えてしまう。傍にあった味が遠く離れてしまう。自分の心を追いかけたら、自分のもう一つの心を手放さなければいけない。澪にはその決断も、相談もできそうになかった。
「お父さん、美味しいよ」
父は澪の言葉を聞いて、ただ静かに頷き、それから父の出汁のように優しい笑顔を浮かべた。
翌朝、父と母と澪の三人で家族会議になった。今後、どう暮らしていくか、そして主な議題は祖母の居場所だった。
「俺は、一緒に住んでもらってもいいよ。一人で暮らすのは心配だ」
「でも、これから介護も必要になってきて、お店やりながらだと厳しいんじゃない?」
「それなら、私も手伝うよ。おばあちゃん、一緒に暮らそうよ」
「うん。それに、施設は結構お金もかかるだろ?」
「そうね......貯金もしなきゃだし」
それから少しして、結論が出た。
「お母さん、ちょっといい?」
おばあちゃんは母に呼ばれるなり、ゆっくりとやって来た。
「お母さん、これからのことなんだけど」
おばあちゃんは母の話を黙って聞いていた。
「これから一緒に暮らそうと思ってるの」
「......ほんとにいいのかい? 私がいるとお店の邪魔になるでしょう」
おばあちゃんは心配そうな表情を浮かべる。それを見た澪は、すっと、おばあちゃんの膝の上に乗った。すると、おばあちゃんは、次第に表情を明るくしていった。
「......そしたら、お言葉に甘えちゃおうかしらねぇ」
その日から、澪の世界だけがまたひとつ動き出した。




