世界が狂いだす
小学校から帰り、澪はお店の戸を開ける。
「ただいまー」
「おかえりー、澪ちゃん」
学校帰りのこの時間は、ちょうど昼の部の終わりの時間で、いつもの常連さんがお茶をしに来る。澪は常連さんに笑顔で愛想を振りまいた。
≪中国で発生した未知のウイルスが、世界を混乱に陥れています。日本でも2月に初めて感染者を確認し、その数が影を忍ばせるように増えてきている今回の件。この前代未聞の危機的状況に、政府は依然として......≫
冷蔵庫の上部に置かれたテレビでは、午後のニュースが放映されており、近頃渦中にある、新型ウイルスの話題で一辺倒だった。
「怖いわよね、このウイルス」
「でも、空気感染とかはしないらしいわよね」
「早く治療法を見つけられると良いんだけどねぇ」
大人たちが気難しそうにニュースの話題を話すのはいつものことだったので、澪はさほどこの話題を気にしてはいなかった。この頃は。
あれからたった数日後だっただろうか。気にしていなかったあの件は、自分たちの予想をはるかに超えるほどに猛威を振るい、史実に残るほどの世界的な事件になっていた。
「お母さん、今日は夜ご飯何食べればいいの?」
夕方の休憩時間にいつもの用意をしていなかったので、澪は一階のお店へ下りてきた。
「あぁ、今日はお店で食べていいわよ。お父さん、澪の夜ご飯なんか作ってちょうだい」
「あいよ」
澪は少し高いカウンター席に登って座り、父の調理を黙って見ていた。もう午後六時を回るというのに、店内は活気がなかった。いつもなら、ちらほらと客が見えてくるはずの時間なのに。
「澪、今日は何食べたい?」
「んー」
ちょうどテレビのコマーシャルでハンバーガーが流れているのが目に入り、無性にハンバーガーを食べてみたい気分になったが、その気持ちを口に出すことはやはり無く、みそ汁と、アジフライを頼んだ。
≪速報です。たったいま、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、首相の会見が行われ、来週から、全国の公立学校で臨時休校を一斉に開始することが......≫
ふと耳に入ってきたニュースの音が、母親の視線を注目させた。父親も調理の手を止め、テレビに視線を移す。そして澪もまた、すぐの理解には至らなかったが、ことの大きさは何となくわかった。明日が突然来なくなる。そして、大した変化もないと思っていた未来が狂いだすのを、まだ誰も知り得なかった。
≪速報です。今日の東京都の新型コロナウイルス新規感染者は前日から増加し......≫
代り映えのないテレビをぼーっと見ては、チャンネルを変える。しかし、チャンネルを変えた先もまた、同じニュースを放送していた。
「お母さん、今日はもうお店おしまいなの?」
いつもは澪が風呂に入る時間に下げる暖簾を、今日はずっと早く、中にしまっていた。
「もうお客さん来ないからね」
≪外出自粛を受け、全国の飲食店は休業を余儀なくされ......≫
たった二ヶ月前は遠い国の話だと思っていたことが、すぐそこにまで影を忍ばせていた。「緊急事態宣言」というただ言葉の甚大な力を感じさせるような並びが、日本全体に発表され、世界は呼吸を止めた。暖簾を片付けた母は、世界と同じように店の呼吸を止めるべく、張り紙を戸に貼った。
学校も休校が延長され、気づけばもう桜も散ってしまった。形だけでも卒業式を執り行えたのは良かったのかもしれない。あの日以来、自宅から出る時間はほとんどなくなった。
「今日は、生姜焼きにしましょう。久しぶりに」
味気のない日々、色のない景色、それでも夕食の時のフライパンの音、出汁の香りと、変わらない味は、そんな世界で生きていることを証明してくれる唯一の存在だった。
未知のウイルスは、呼吸器官を蝕み、多い例で言うと肺炎を引き起こすらしい。当初は、感染経路も分かっていたものが多かったが、最近では、不明のものもあり、いつどこでウイルスが忍び込んでくるかは誰にも分かり得なくなっていた。
夕食を終えて、澪は自室へ戻った。中学校から出された課題を進める気力も湧かないので、澪はテレビをつけた。それから、最近見られるようになったサブスクリプションの動画配信サービスを起動する。コロナ禍になって、一気に普及した波に乗るように、両親も加入した。そのおかげで、澪の部屋のテレビでも色々な映画やドラマが見られるようになり、その点においては生活が豊かになった。
「今日は......これ見ようっと」
澪は今まで見たことのなかった洋画や海外ドラマを見ることに没頭した。見れば見るほどに、興味が湧いていき、海外への気持ちは高まっていく。しかし、それを口に出すことはできない。だから余計に、自分の内なる感情を募らせていった。
かすかに一階で電話の鳴る音がしたが、澪は構わず映画を見続けた。映画に出てくる街並みは、澪の目に映り、心に温かい温度を灯す。
海外は日本とは違う街並みだ。レンガ造りの家や、暖かな光を灯す街灯、そこから派生する服装や食文化、そしてそこで生きる人の生き様。自分とは違うからこそ、知りたくなって、足を伸ばし、自分の目に焼き付けたくなる。きっと、彼らもまた、同じように自分たちよりはるかに小さい天敵に暮らしをロックダウンされているのだろう。遠いようで近い、なのに近いと思えば遠い。世界は澪にとって、好奇心そのものだった。
しばらくして、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。澪が何を慌てているのかと思った瞬間、戸が勢いよく開けられた。澪は慌ててテレビを消し、顔を向けると、母親がものすごい形相で立っていた。
「澪、おじいちゃん倒れたって......」
簡単な一言だった。その重い言葉が、部屋に漂い、色のない世界に、もっと重い空気が垂れ込んできた。




