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飛行機雲

 人はその手に届きそうにないものや、自分とは違うものに憧れたりする。押してはいけないと書かれたボタンや、行ってはいけいけない場所。破ってはいけないと分かっていても、その危険信号を無性に破りたくなる時がある。たとえ、傷つこうとも、そして、全てを失おうとも。


「みおー! そろそろ時間だよー」


 母の声を聞いて、澪はいつの間にか日が傾いていることに気づいた。


「はーい、あとちょっとー!」


「お母さんも時間無いんだから、早くしてちょうだい」


「......わかったー。今行くから!」


 澪はリモコンの再生停止ボタンを押して、DVDプレイヤーからディスクを取り出した。それはお気に入りの洋画で、澪は誰にも見つからないように鍵のついた机の引き出しにしまった。


 一階に下りると、キッチンにお母さんがエプロン姿で立っていた。


「今日はこの後予約が入ってるから、お父さんのお手伝いをしなきゃいけないの。テキパキやるわよ」


「はーい」


 澪も、母の隣に並んで、手を洗った。


 澪の家は代々続く、和食居酒屋。この辺では、そこそこ有名で、人気のある老舗の店だ。店の品書き通りの、和テイストの母屋で営まれている。一階は食事処で、高瀬一家の生活拠点は二階である。一階はもちろん、二階も和式一色で、いかにも出汁の香りがしてきそうな中で、澪は育ってきた。


「じゃあ澪、冷蔵庫からお肉漬けてあるボウル取ってきて」


「うん!」


 澪は毎日、こうしてお母さんと夕食を作るのが日課で、大好きな時間だった。この後、夜の時間は、またお店も混むので、最近はこうして夕方の休憩時間に料理を作って、夜は一人で食べるようになってきた。澪も来年から中学生、少しずつ現実が見えてきて、両親の迷惑にならないようにと考えるようになってきた。


 フライパンで自家製の生姜焼きのタレに漬けておいた肉が音を跳ねさせる。この音と、香ばしい匂いは澪の心に沁みついていて、安心感を抱かせる。


「澪も野菜切るの上手になったわね」


 母親に褒められ、澪はしばし自分の切った千切りキャベツを嬉しそうに眺めた。


「これなら将来、うちの店でも出せるわよ」


 そう言って母親は澪の頭を撫でる。そうされる度に、澪は料理が好きになって、母と過ごすこの時間も好きになった。


「じゃあ、時間になったらあっためて、ちゃんと食べなさいね。なんかあったら下に来なさい」


 母はそう言ってもう一度澪の頭を撫で、一階へ下りて行った。


 母が去って、澪は再び自分の部屋に戻り、先ほどのDVDを再生した。最近は洋画を字幕版で見れるようになってきた。難しいストーリーはまだ好む年頃ではなかったので、単語も何となく聞きとれたりした。そして、映画を見るたびに思った。


――いつか、行ってみたい。


 それは漠然とした憧れだった。今までの12年間、澪は実に「和」の生活で暮らしてきた。もちろん、外食の文化はあまりなく、和食がほとんど。お店のことがあったので旅行もあまり行かない。そうなると、次第に、洋の文化に憧れを抱くようになった。両親に言ったことはないが、澪はそれを考えている時間も、母との料理の時間と同じくらい、幸せを感じるようになった。






 学校は間もなく卒業式。授業もほとんどのカリキュラムを終えていた。


「じゃあ今日は、卒業文集を書いてもらいます。テーマは、『将来の自分』です。じゃあ書き始めて」


 先生の合図に従って、皆は筆を進めた。澪も同じように筆を持つ。


(将来の自分......私は......)


 今までにも、将来の夢を考える場面は何度もあった。その度に、澪はブレることなく「料理人になって実家のお店を継ぐ」と述べてきた。


 澪は、ふと窓の外を見た。遠くで飛行機雲が浮かんでいる。その白い線の先に、飛行機が米粒ほど小さく、真っ直ぐと進んでいた。あの飛行機はいったいどこへ行くのだろう。誰を乗せ、想いを運び、どこへ行くのか。飛行機を見ると、澪は世界の広さを感じるようになった。


(......海外に行ってみたい......)


 それは衝動的なもので、そうでなくてはきっと、書きだせなかっただろう。澪は恐る恐る心に降りてきた言葉を文字にしてみた。その時、


「澪ちゃん」


 六年間同じクラスで、幼馴染の日和が、一つ前の席から先生の目を盗んで話しかけてきた。


「どうしよう、私思いつかないんだけど」


「え、日和、パン屋さんとか言ってなかったっけ?」


「パン屋さん、朝早いらしくて、私朝弱いから......澪ちゃんは、やっぱりお家のお店継ぐんでしょう?」


 日和に改めて言葉にされると、衝動的になっていた自分が恥ずかしくなってきた。


「う、うん。もちろん、そうだよ」


「いいなー、ちゃんと道が決まってて悩まないもんね」


「相馬さん、高瀬さん、おしゃべりしてないで手を動かしなさい」


 先生にバレたことで、会話はそこで終わった。澪は慌てて、自分の気の迷いを消しゴムで消し、無かったことのように書き直した。いつものように、心を躍らせることもなく。


 何度も同じことを書いてきたし、それまではその道しか考えられなかった澪にとって、そうと決まれば作文など容易い話であった。


「先生、お願いします」


「澪ちゃん、はっや」


 先生も目を通し、問題なさそうだ。書いていて気に障ることもなかった、ただ、それまでのことだった。澪は席に戻り、もう一度窓の外を見る。明日は晴れの予報。飛行機雲はどこかへ消えていた。

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