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あの頃の自分

 樹里ちゃんの視線は、温かく腕を広げ、待っているかのようだった。茜の言葉を、全身で受け止めようとしている。


「......私は、戻りたい。ただ、純粋にバスケをすることが楽しかった、あの頃の私に」


 でも、それは逃げている。そんな情けない姿を見せたいわけではなかった。抱えきれないものは、みんなで協力し合えばいいと、人は言うけれど、それに甘えるつもりはない。両親と約束した、あの言葉を守るため。


――茜は、特別な才能を持っている。その才能は、みんなを導くために使うんだ。


「私は、キャプテンをやめたいわけじゃない。エースの荷を下ろしたいわけじゃない。むしろ、やりきりたいです。......でも、今の私には......」


 今の私には、キャプテンもエースも背負う資格があるのだろうか。両親との約束には続きがあった。


――決して奢らず、傲慢になってはいけない。光のように、ただ輝くんだ。


 私は、背負ったものに囚われて、道を見失っていた。きっと、光は灯せていなかっただろう。


「......私は、キャプテンしっか......」


「茜!」


 その時、樹里ちゃんが初めて口を開いた。その目は真剣で、茜を掴んで離さない。


「今その言葉を言ったら、もう、戻れなくなるよ。あの頃自分に」


 樹里ちゃんの言葉が、真っ直ぐに、茜の心を握る。その訴えが、耳でこだまする度、込み上げてくるものがあった。


「樹里ちゃん......」


 私はどうすればいいんだろう。自分で答えを探さなければいけない、歩き出さなければいけない。なのに、道が見えなかった。キャプテンアメリカのように、隼人のように、傷を抱えても光り輝く存在として、部員に映っていないだろう。


「......私は、見えない。自分のことが......」


 吐息を漏らすような茜の本音は、一筋の涙とともに流れ出た。静まる空気に、茜の鼻をすする音だけが響く。すると、樹里ちゃんは茜の隣に腰を掛け、タオルを差し出してそっと肩に手を添えた。


「苦しいよね、エースとか、キャプテンとか」


「......うん、私は......っ......隼人みたいに輝けない......」


 樹里ちゃんの手は温かい。服を通してでも、伝わってきた。


「......藤代君、凄いよね。でも、彼は、決して自分のことを強いなんて言わないと思う。彼も、自分を認めてあげたから、また歩き出せたんだ」


「隼人が......?」


「うん。エースだってキャプテンだって、弱さも傷も抱えてるし、自分で自分の背中なんて見られない。そんな時はさ......」


 樹里ちゃんは添えた手で、茜の肩をポンと叩いた。


「恥ずかしがらずに、聞いちゃえばいいんだよ」


 あまりにも率直で、茜は少し拍子抜けした。きっと理解できるけど成し得ない答えが突きつけられると思っていた。でも、樹里の差し出した言葉は、茜の牙城を簡単に崩した。


「だって、咲も美聡も、信頼できる仲間なんでしょ? 二人の前で、百獣の王でいる必要は無いんじゃない? きっと、二人も待ってるよ。茜のこと」


 二人も待ってる。本当にその言葉を信じていいんだろうか。でもなぜか、樹里ちゃんの言葉に、茜の涙は堰を切ったように溢れ出した。それまで抱えていた、仮面を割って、弱い自分をさらけ出せた。もしかしたら、今のこの自分が、あの頃の私なのかもしれない。戻りたい、あの頃の私。


 茜は樹里ちゃんに一礼して、教官室を後にした。さっきと荷物は同じなのに、軽く感じる。雲の切れ間から覗く月が、少し足取りを軽くした茜の道を照らした。






 部室のドアノブに手をかける。中からは咲と美聡の声もする。少し緊張もあるけれど、恥なんて要らない。仮面も要らない。弱さも傷も見せながら、二人に聞こう。


「そうそう......あ、おつかれ、茜」


「おつかれ、うちらすぐ練習行くね」


 立ち上がる二人に、茜は上がる鼓動を抑え、伝えた。


「ちょっと待って」


 二人はきょとんとして、動きを止めた。


「......あの......私、二人にどう見えてる?」


 口にしてから時が止まったかのように、空気の流れが遅く感じた。二人も戸惑っているに違いない。何か言わなきゃ。


「......私、キャプテンになれてるかな」


 すると、咲と美聡は顔を見合わて、それから笑い出した。


「ちょ、何がおかしいの」


「......だって、ねえ」


「うん。茜が改まってそんな」


 二人があまりにも笑うので、茜もだんだんおかしくなってきた。でも、美聡が次に言った言葉が、茜の心を救った。


「何言ってんの。茜は、うちらのキャプテンだし、エースでしょ」


 咲も頷く。


「うちら、茜がすごいプレイヤーなのはわかってる。だから、ちょっと引け目を感じてた。でも、今思い出した。うちらも、茜も、バスケが好きなんだよ。それは一緒。この前の大会、茜が一番責任感じてたのに、何も言ってあげられずにごめん」


 いつの間にか、雨は上がっていた。いつしかセミの鳴き声も聞こえる。頭を下げた二人に、茜は堪えきらなかった涙を少し落としながら、めいいっぱいハグした。


「じゃあ練習行くか」


「あ、そういえば、茜見た? 留学生」


「あのキャプテンアメリカに似てる人?」


「え、キャプテンアメリカ?」


「うん。隼人が言ってた」


「いやうちまーばる見たことないからわかんないって」


「それ言うなら、マーベルでしょ」


「え、今うちなんて言った?」


「まーばる。何、まーばるって」


「ちょっと、笑わせないで。おなか痛い」


 こんなところにいた。あの頃の私。茜は雨の上がった体育館までの道を、再び咲と美聡と歩きだした。

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