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贖罪

 テーブル席から外の様子を眺めていると、どうやら雨が降り出したようだ。ちょうどその時、入店の音ともに、男性が一人入ってきた。彼はコートについた雨粒を払って、少しクシャっとなった髪をハンカチでぽんぽんと拭いた。


「あ、いたいた!」


 声も元気も相変わらずで、手を振ってやって来た。


「ちょうど雨降ってきてさ、ちょっと濡れちゃった」


「ギリギリ間に合ってよかったよ」


「まあ若干アウトだけどね」


 青春、そんなものに自分は触れない人生を送ると思っていた。非効率で、無駄で、時には傷ついて、そして、愛おしい。


 喜一は仕事用のバックパックから、ファイルを取り出して、目の前で広げた。


「持ってきたぞ、これ」


 書類の中から喜一は一つ冊子をピックアップして、開いた。表紙に書かれたタイトルは『ペネロペの罪』。


「俺、次の企画コンペに出したくてさ。そろそろ監督としてデビューしないとなって思って、それでちょうどこれを思い出したんだよねー」


「俺も、これを勝負にしようと思ってる」


「え? 上手くいかなかったら、脚本辞めちゃうの?」


 悠斗は苦笑いをしながら、コップの氷をストローでひと回しした。


「まあ......いつまでも夢見てられないからな」


 淡々と答える悠斗の決意に喜一は顔を暗くするが、本人は前向きだった。それも全て、ひとりじゃないから。


「でも、喜一と一緒なら勝てるって、思ってるから。心配はしてない」


 それを聞いて喜一も、すぐに顔を上げた。そして満面の笑みを浮かべる。


「そうだよね、やっぱり、俺たちの初監督・脚本作品だもんね、絶対上手くいく」


 香坂に背中を押され、悠斗は再び青春と向き合うことにした。傷ついても、もう構わない。喜一の痛みを知るべく、もう一度あのステージの光を求めた。九組の文化祭実行委員の零士に無理を言って、演劇部にひとコマだけステージを使えるように頼んだ。事情を聞いた零士は快諾して、どうにか調整してくれた。それを喜一に伝えると、今と同じ満面の笑みでそれを喜んだ。


「そうだ、俺アルバム持ってきたんだ」


「え、マジ? あんなに重いのよく持ってきたな」


「だって悠斗とファミレスとか、高校に戻った感じじゃん」


 喜一が開くアルバムからは、陽川高校の三年間がひとページごとに溢れんばかり詰まっていた。当時は眩しくて避けていた日々も、全て美しい。


 そして数ページ進んだ先に、文化祭のページがあった。その中の一枚の写真。ステージには演劇部の渾身の演技が生きている。舞台袖には喜一と悠斗の姿もあった。主演は、脚本とキャスティングを変えて、改訂版でやりきった。本来の形ではなくとも、演じきった、ステージを完成させたそのことに、意味があった。


「今度は、完全版で。あの時の続きをやろう」


 罪を背負ったと思っていた。でも、その贖罪は、自分を責めることではない。自分を追い出すことでもない。その世界に、痛みを分かち合いながら、信じていることだ。


 悠斗は喜一と目を合わせてしっかりと頷いた。カランと、溶けた氷がコップの中で音を立てた。


 それから、二人でたわいもない時間を過ごした。高校の時によく食べていた、懐かしいファミレスのメニューを食卓に並べて、その上を飛び交う言葉は、今も青春に生きていた。


「ってかさ、さっき見つけたんだけどさ」


 喜一は一度どかしたアルバムの最後の方のページを開いて悠斗に見せた。


「この約束、覚えてた?」


 そこには学級委員の藤代隼人の字があった。


――10年後、水平線の見える丘で!


「うわ、なんかあったかもな。こんな約束」


「高三の三月だから......一年後だね」


「一年後かぁ」


 一年後、どんな姿になっているのだろうか。脚本を書いているのか、別の仕事をしているのか、全く分からない。でも、不思議と不安はなかった。


「企画が通れば、ちょうどその頃に放送だよ」


「マジか、燃えてきたな」


 自分には、痛みを知った自分がいる。それだけで、この先の道も歩いて行ける気がしたから。






 こたつの上に、みかんとパソコン。それから新たな企画書が散らかっている。


「ちょっと、散らかしたままだと書類失くすよ?」


 キッチンから酒とつまみを持ってきた喜一は、こたつの上を見るなり、たしなめる。


「わかったわかった。片付けるから」


 悠斗はパソコンを閉じて、テレビをつけた。チャンネルを喜一の放送局に合わせ、二人でみかんを食べながら待機した。


≪『ペネロペの罪』最終回、このあとすぐ≫


 CMが流れるのを見ながら、二人はあーだこーだと新たな企画について話した。


「お、始まるんじゃね」


 静かな芝生の上に、主人公が佇む。彼女はただぼーっと遠くを見ながら、思いに更けている。挿入されたピアノの劇伴が、ノスタルジーな雰囲気を醸し出していた。それから物語は最後に向けて、盛り上がりを見せていく。


 ペネロペはなぜ、夫を信じ続けられたのだろうか。それはきっと、夫を愛してしまった罪。信じてしまった罪。つまりは、線を越えて、他人とテリトリーを分かち合った罪。その眩しいほどの贖罪が、彼女を変えなかったのだろう。


≪大人になるということは......≫


 大人になるということは、主に二種類ある。ひとつは体が成長し、生殖機能が発達して子孫を残せるようになること。もう一つは、精神的なこと。大人になると、考えることが増えて、自分の限界を知る。だから本気になれない。そう思っていた。でも違った。きっと傷つくのを恐れて、線を越えられなくなるだけ。


――それが、青春だよ。


 自分はもう少し、大人にならないでいよう。人として成長し、当たり前のことを当たり前にして、その中で大事な部分が、変わらないように。そうすればきっと、会いたい人に会える。なりたい自分になれると信じて。


≪......小田君!≫


 エンドロールの最後、脚本と監督の欄に「沢村悠斗」「神田喜一」の名をそれぞれ刻んだ。





 前日、喜一と夜通し語り合ったせいで、寝不足だ。地元へは電車で一時間ほどなので、午前中は寝ていられたが、体内時計が狂ったせいで、頭はぼーっとしていた。


「若干二日酔いかもね」


「まだ醒めないのかよ」


 そうこう言っているうちに、あっという間に10年前の景色が蘇るように眼前に現れた。


「うわ、懐かしい―!」


 古くなった校舎も街並みも、色々なものに思い出が息づいている。


「こっちだっけ」


 喜一について行くようにして、悠斗も林の中を進んだ。しばらくすると、少し賑やかな声が聞こえる。


「おーい! 隼人―! みんなー!」


 喜一がその方に向かって叫んで、大きく手を振った。夕焼けに映える、水平線の見える丘に、当時の九組の人が何人かいた。


「ほら、悠斗も急いで!」


 草木を踏み分け、無邪気に歩調を早める喜一を追った。


「喜一! 悠斗も! 久しぶりー!」


「元気してた?」


 昴や隼人が寄ってきて、喜一や悠斗と再会の喜びを分かち合った。悠斗は恵那に少し気まずさもあったが、「そんなこともあったね」と笑って流した。


 夕日の一部が地平線に沈み始め、東の空は色を茜色から紫紺へと変えていた。その時、頼もしい声が後ろから聞こえた。


「おーい!」


 一同が振り返ると、女性が何人かやって来て、そのうち声をあげた人はスポーツカジュアルの格好をしていた。


「お、女バスも来たんだ!」


「うわー! 久しぶり! 茜ちゃん!」


 恵那たちが駆け寄った先には、三年九組三十六番、水野茜がいた。

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