人の痛み、自分の痛み
シューズのグリップ音が、扉の向こうから聞こえる。悠斗は通知に気づいて、ポケットから携帯を取り出した。
『コンクール 結果一覧』
ゆっくりとそのリンクに触れて、ページに飛ぶ。心の色はあせたまま、画面をスクロールして、ページの下部にあった陽川高校の名を見た。
扉が開いて、香坂と水野が入ってきた。女バスはどうやら、県大会を勝ち進んでいるらしい。
「あれ、沢村、また進路面談?」
水野が相変わらずの調子で声をかけてきても、悠斗は答える気力も湧かなかった。
「あー、違う違う。私が呼んだの。じゃあそのままメニュー続けてて」
「はい」
水野が教官室を後にし、部屋は香坂と悠斗の二人になった。
「あれから、神田君はどう?」
「......調子は大丈夫らしいです。そろそろ普通の生活に戻れるらしいですし」
悠斗は無心に答えた。感情などを乗せる余裕もなく、どこかに心を置いてきたようだ。
「そっか、それは良かった。それで、沢村君の調子は?」
唐突にベクトルがこっちに向いて来たので、悠斗は少々拍子抜けしたが、「ぼちぼちです」とそれっぽく答えた。
「......私、神田君もそうだけど、沢村君のことが結構心配でさ、今日呼んだのもそれが理由」
香坂はそれから残り少なかったペットボトルのスポーツ飲料を飲み干した。
「俺なんか、心配される意味ないです。俺が壊した、喜一が作ってきた全部、それに喜一自身も」
人前で泣くなんて情けなくて仕方がなかったが、香坂にはあの日、随分と情けない姿を見られた。今更恥もなく、悠斗は込み上げてきた感情を一筋流した。
※※※
時は否応なく過ぎて朝がやってくる。気持ちに反して眩しいほどの日差しがベッドにさす。ぼんやりとその光に起こされて、悠斗は瞼を上げた。体を起こして、勉強机を見る。大学の赤本の上には台本が置いてあった。
頭が起きてきて、現実を思い出す。昨日起こったこと、あれは現実だったんだろうか、夢ならば、どれほど良かっただろうか。喜一がステージの上で倒れ込んでから、何もかもが崩れる音がした。
その時、携帯のバイブレーションが聞こえた。表示された着信相手は喜一だった。
「も、もしもし」
悠斗は慌てて出たので、少々呼吸が荒くなっている。
「あ、悠斗? おはよう」
ひとまずいつもの声が聞こえて安心した。しかしその一方で、その声がどこか、味気ない気もした。
「喜一、体調は」
「あー、一応今は落ち着いてる。心配かけてごめんね」
「あのさ、もしかして、喜一って」
昨日の彼の姿は、どこかで聞いたことがある症状に似ていた。実際に目の当たりにしたのは初めてだったが、よくニュースでアイドルや芸能人が活動休止や引退の理由に挙げられている、あれだった。
「悠斗、悠斗には正直に話そうと思う」
喜一は悠斗に言わせる前に、自ら切り出した。
「俺、パニック障害があるんだ」
その瞬間、全ての辻褄があった。代理主演を提案した時のあの表情、本番前のふとした時の様子。あれだけ演技が好きで、劇も好きで、リハーサルの演技は生き生きしていた、それなのに、
――役者は俺には向いてないかな。
あの時の固めた表情が浮かんで頭から離れなかった。知っていた、喜一が役者を自分のテリトリーから避けていることに。それなのに、自分は無理矢理にそのテリトリーに踏み込んで、避けていたものを押し込んだ。
「俺は、昔から映画とかが好きで、幼稚園の学芸会が一番好きだった。ジェレミー・ルイスが好きになったのも、それからだね。それで、中学の時に、文化祭の出し物で演劇をやることになって。うちの学校、毎年、有志募って演劇するんだけど、俺がその代の副執行部長で」
喜一から真実が告げられる度に、悠斗は涙が込み上げてきて止められなかった。無情にも、その涙が朝日に輝いていた。
「幼馴染の氷川ってやつが、執行部長だったんだけど、二人で死ぬ気になって準備して、当日。舞台はクライマックスで、俺がセリフを言うシーンで、観客席観たら、視界が突然歪んで、動機が止まらないし、震えが止まらなくて。絶対間違えられないって緊張感の中、観客が全部敵に見えたというか、後からパニック障害ってことに気づいて」
その後、舞台は途中で台無しになってしまった。氷川からは心配と励ましの言葉があったが、喜一がふと柱の影を見ると、悔しさからか、氷川が泣いているのが目に入った。責任を痛感した喜一はそれから、自身が舞台に立つことはできなくなったという。
「俺が分かってたのに、簡単に引き受けたのが悪かったんだ。また、舞台を台無しにしちゃった」
喜一の悲痛な叫びが、悠斗の心を締め付ける。涙は止まらない。
「ごめん......全部......っ、俺のせいだ......」
「え、悠......」
悠斗は思わず電話を切った。こうなるから、踏み越えなかった。やはり、線を越えるべきではなかったんだ。悠斗はもう一度、布団をかぶり、枕に顔を押し当てて、いつぶりかの号哭をあげた。
※※※
「俺は、傲慢だった。青春を分かった気になってた。でもやっぱり......「大人」のままでよかった......こんな思いをするくらいなら」
涙は止まることなく、目からあふれ出てくる。当然、香坂と目を合わせることはできなかった。
「ねえ、沢村君」
そんな悠斗に、香坂は木漏れ日のように問い掛ける。
「神田君はさ、なんで、主演を引き受けてくれたと思う? 自分でパニック障害だって知ってたのに」
そんなことわからない。ずっと避けてきて、数ヶ月前にその眩しさに憑りつかれた。そんな浅い人間が、ずっとその世界に身を置いてきた人のことなどわからない。
「......わからないです。俺が押し付けたからとかじゃないですか。断りづらくて」
悠斗は鼻をすすりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「たぶん、違うと思うな」
じゃあ何だっていうんだ。俺には分からない、分からないんだ......でも......。
「先生、俺......」
知りたい。喜一の痛みを、自分も知りたい。自分のこととして思いたい。悠斗は席を立ちあがって、香坂に一礼し、教官室を走って去っていった。
「それが、青春だよ」
涙でぐちゃぐちゃにした顔を恥じずに、無駄なことに時間をかけて、人の痛みを自分の痛みと感じる。この時期だけは、大事に思うべきことが道の先ではなく、後ろにあるから。
香坂は悠斗の後ろ姿に、そっと思いを添えた。その涙こそが、「青春」だと。




