『ペネロペの罪』
季節が梅雨から夏に変わり、日差しは容赦なく地を熱するようになった。季節の移り変わりとともに、悠斗の世界を見る目も少しずつ変わってきた。この数ヶ月、しばらく前までは、何も変わらずにただ受験勉強をするだけの毎日だと思っていた。灰色の空がどこまでも続いているような、空が低い毎日。しかし今は......。悠斗が空を見上げると、太陽は天高く、雲は夏の形をして遠い向こうに高くそびえ立っていた。
「あれは......一雨来るな」
「沢村君! お待たせ」
呼ばれた声に従って、悠斗は体育館の教官室に入って行った。
「ごめん、こんな時間になっちゃって」
「いや、自分こそ、提出期限過ぎちゃったのが悪いですし」
香坂は悠斗を椅子に座らせ、ファイルホルダーから悠斗の進路希望調査シートを取り出した。六月末から始まった進路面談だが、悠斗が希望日の回答を提出するのを忘れてしまい、期末テスト後のこの時期にまでずれ込んでいた。
「失礼します! 女子バスケ部の水野です。香坂先生、アップまで終わりました。ってあれ、沢村?」
同じクラスの女バスのキャプテン、水野茜は悠斗を見るなり、なんでここにといった表情を浮かべた。
今日は午前授業だったので、午後は放課後になる。大会が控えていたり練習時間が多くとれたりする夏休みを前に、部活動の賑わいは大きくなっていた。体育館で練習を始めていた女バスもその一つ。
「ああ、進路面談」
「あーなるほどね、沢村最近忙しそうだったからね。頑張れ」
明るい彼女の一言も、今では変に大人ぶることなく、素直に受け取れるようになった。
「そしたら、この前茜が考えたメニューで一回やってみようか」
「はい、了解です!」
水野は颯爽と去っていった。悠斗は女バスの活躍をその背中に静かに願った。
「それにしても、沢村君が期限遅れるなんて珍しいよね。結構、そういうの淡々とやるイメージだったけど」
香坂のそのイメージはあながち間違いじゃない。今までは無駄な遠回りなどしない。最も効率的な方法でやるべきことだけをやっていた。当然、提出物を疎かにするなど言語道断だった。
「あ、演劇部の公演、今度だっけ?」
「ああ。今度の日曜日の午後、文化会館であります」
「え、もう一週間きってるじゃん」
香坂はデスクのカレンダーを見て、目を丸くした。
「女バスの大会と被ってますよね」
「そっかー、あ! でも初日だから見に行けるかも」
「え、マジですか」
「うちはシードだから初日は開会式だけなんだよね。それで午前は学校で練習して、その後なら見に行けるよ」
香坂は鈴木が休職に入ってから九組の代理の担任になり、生徒との関係性もより深くなっている気がする。何よりも、悠斗が最初に抵抗感のあった彼女の等身大の姿が、生徒に好意的に映っているようだった。
「じゃあ......」
悠斗はカバンから、コンクールのビラを出して、香坂に渡した。
「これ、コンクールのチラシっす」
香坂はそれを受け取って嬉しそうに眺めた。
「なるほど、四日間かけてやるんだね、学校数も結構多いな......陽川高校......あ、あった。プログラム八番『ペネロペの罪』かぁ、え、ペネロペってあのギリシャ神話の?」
「まあ、はい......そうです。それをモチーフにしたオリジナルなんですけど......」
「えー、面白そうじゃん。わかった、楽しみにしてるね」
眩しく映る香坂の顔、あの始業式の日は、それが眩しくて目を逸らしたのかもしれない。大人っぽいラベルを貼った自分は、影の道を歩いてきた。でも、今はそれに負けないくらいのスポットライトが溢れるステージにいる。ふと横目に、ステージで稽古する部員の姿、そして主演の喜一が目に映る。
「はい、見に来てください」
自分でもびっくりするほどに、真っ直ぐな言葉が出てきた。それを聞いて、香坂も清々しい顔をしている。
蝉の声がいつからか大合唱をはじめ、より一層夏の景色を際立たせている。
「あっちぃー! 汗止まらないんだけど」
この暑さでも、喜一の元気の良さは変わらない。今到着したバスでやって来たのか、バス停の方から大きく手を振っていた。
「午後だから余計だよね、早く会場入っちゃお」
喜一と合流した悠斗は、会場の文化会館に入って行った。会館の前に貼りだされる日にちを知らせる看板は、本番当日の日曜日を知らせていた。
「先輩! こっちでーす」
奥の方で聞き覚えのある声がしたので向かうと、後輩たちが陣を取って待っていた。
「お疲れ様です! 俺たちは準備万端です」
「お、それは頼もしい」
「喜一先輩は調子どうですか?」
喜一は顔色を変えずに、淡々と答える。
「俺は順調だよ」
「おー、さすが主演っすね」
その時、崩さなかった喜一の顔のうち、目だけが震えたように一瞬見えた。しかし、悠斗は気のせいにして流した。
時は経ち、次第に出番は近づいてくる。
「あ、樹里ちゃん!」
喜一の声に、一同が振り向くと、エントランスからジャージ姿の香坂が見えた。それから、演劇部の顧問に軽く挨拶して、喜一と悠斗のもとにやって来た。
「先生、間に合ったんですね」
「こんな格好で申し訳ないわ。神田君、主演頑張ってね」
喜一は頷いて、香坂とグータッチをする。
「プログラム八番、陽川高校の皆さん、ご準備お願いします」
「先輩、円陣しましょ!」
後輩の一人の提案で、一同は丸くなり肩を組んだ。
「それじゃあ、最高のステージにするよ」
「おう!」
そうして一同は舞台裏へとスタンバイに向かい、香坂たちは鑑賞席へ向かった。数十分後、ついにアナウンスが流れる。
「お待たせいたしました。プログラムナンバー八番。陽川高校演劇部」
会場が静まり返り、舞台の雰囲気は整った。
「題目、『ペネロペの罪』」
そして幕が上がる。
幕が上がり、光を浴びたステージは観客の目に表れる。
「俺は、常に考えてきた。『大人』とは何か」
その役に生きた声が、その舞台の光を浴びて、思いに形を与える。
「それは――」
舞台袖から見ても、この物語は美しかった。初めて「青春」に向き合って、無駄だと思ってきたことに足を踏み入れた。だからこそ、見られる景色があった。なぜ自分は、もっと早く気づかなかったんだろう。この青春の、呪いのような眩しさに。
「それは......それ......は......」
異変に気付き、悠斗がステージを見る。眩しさに酔いしれていた心がその光景を目にした瞬間に凍り付いた。冷や汗がひとつ、顔を伝う。
「喜一!」
スポットライトを浴びた彼は、その輝く舞台の上で崩れ落ちた。




