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線を越えて

 息をするのが苦しいほどに、曇天の下の部室はひどく重い空気が流れる。中には、涙を浮かべる者もいた。


「すみません......ほんとに」


「いや、謝ることはないよ。事故は仕方ない」


 先ほどの六限の時間に来た通知には、容赦のない神の悪戯だった。彼曰く、スピードを出していた自転車が前方不注意でぶつかってきたという。医師の診断によると、足の骨折で全治数ヶ月かかるという。命に至らなかったのは不幸中の幸いだが、主演を務める予定であっただけに、舞台としての代償は大きい。もちろん、今度のコンクールにも間に合わない。


「脚本をどうにかするってのは……」


「いや、主演のところを変えるってなると、全体を変えなきゃいけないし、それはさすがに間に合わないと思う……」


「そうっすよね……」


 かなりギリギリのところで成り立っていただけあって、解決策が浮かばない。悠斗はこの状況を打破したかったが、全く良い案も思い浮かばず、ただひたすらに重苦しい痛みを感じた。


 その時、曇天から一本の光をさすように、喜一が声を上げた。


「まぁ一旦、キャストのことは俺と悠斗で考える。みんなはとりあえず、今の担当で進めよう。美術班もいいペースだからこの調子で」


 その声を聞いて、流れていた重い空気が幾分か軽くなった気がした。たった一声で、こんなにも変えられる。それは、彼にしかできないことで、悠斗にはできない。それだけ彼は「青春」に身を捧げている。


 後輩たちが各々の作業や稽古へと向かい、部室は悠斗と喜一の二人になった。みんなの前ではあのように言ったものの、思いつくアイデアも枯れて、二人とも携帯を見た。


「ジェレミー・ルイス来日決定だって。あ、今度のジャパンプレミアか」


「へぇ」


 何気ない喜一の一言に、悠斗はふと思い当たる節があった。


――ジェレミー・ルイス好きなの?


 あの時感じた、彼の輝く瞳。絶対に譲るはずのなかった自分のテリトリーの境界を壊すようになったのは、彼に魅力を感じたから。彼には演者としての素質がある。


「なぁ。喜一」


 喜一は携帯から顔を上げ、悠斗と目を合わせた。その瞳を見て確信した。『ペネロペの罪』この物語を書くときに思い浮かべていたのは、彼の姿だった。頭の中で、彼が主役を演じている姿が、見る見るうちに流れ込んでくる。


「......喜一が主演をやるのはどうだ......?」


 一瞬、彼の顔がピクリと動いた。思い返せば、彼にとって演者は、なにか触れてはいけないテリトリーに置かれているものだった。しかし、今、それしか考えられない。今までなら絶対に越えなかった線を越えてでも、彼に演じてもらいたい。


「俺は、喜一にやってもらいたい。そう思って、書いたから......」


 時間の流れがゆっくりとなるようだ。彼の返事が来るまでの時間がとても長く感じられた。


「......そうだよね、俺が演劇部作りたいって、劇をやりたいって......言ったんだもんな」


 悠斗はその時、どんな顔をしていたのだろう。悠斗はそれを見なかった。自分の思い切った一歩をすぐに肯定したくて、人のテリトリーに踏み込んだ自分をすぐに守りたくて。


「うん。俺がやるよ」


 その言葉を聞いた瞬間、悠斗は安堵とともに、奇妙な感情を抱いた。それは、何かに勝った時の安心感のような、奇妙な安堵だった。


「よし。じゃあ喜一が演じるとすると......」


 彼の決断を確かなものにしたくて、悠斗は先を急いだ。二人は部室を後にして後輩たちのいる体育館のステージへ向かった。喜一は中学の時の写真を背景にした携帯のロック画面を見る。今日は六月二十日、本番まで一ヶ月を切っていた。

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