感情のきっかけ
そろそろ桜も咲く頃だろうか。最近の昼間は少しずつ暖かくなってきた。とはいっても、夜はまだ肌寒さが残る。汗が夜風で乾いていくのを感じながら、隼人はナイターのライトに照らされた校庭をぼーっと眺めていた。
「お待たせ! 待った?」
「いや、全然。んじゃ帰ろうか」
隣を歩くのは、彼女の朱莉。朱莉は女子バレー部に所属していて、俺と一緒に学級委員を一年間務めていた。二年連続で同じクラスだったが、来年は俺が文系に進学し、彼女が理系を選択したために同じクラスにはなれない。修了式の今日この日が、同じクラスでいられる最後の日だ。
「来年はどんなクラスかなぁ。隼人とは同じにならないのは確定してるけど」
「理系と文系だと教室の階も違うかもね」
朱莉とこうしてたわいもない会話をしながら、一緒に帰るのが定番だった。部活の話、クラスの話、トレンドの話......。何度か服が擦れたが、今日も手を繋がずに歩いていた。一通りの話が終わると、いつになく今日の二人の間には少し気まずい雰囲気が流れた。
「......朱莉、えーっとそうだ」
「ねぇ、隼人」
話を何か繋げようと言葉を探していた途中で、朱莉がそれを遮った。明らかにいつもとは違う雰囲気で、隼人は次に並べられる言葉を恐れた。
「別れよう」
何となく察していた。いつかはこの言葉を聞く時が来る。隼人は朱莉の目を見ると、そこにはいっぱいに涙が浮かんでいた。朱莉の唇は震えている。俺も......。しかし、隼人の心にすっと落ちてきたのは、きっと朱莉とは違う感情だった。
――そっか。終わりなんだな。
腑に落ちてしまった。落ちてきたものはずっと冷えていて、いや、何の温度もない、プラスチックのようなものだった。
その夜、朱莉からは長文のメッセージが送られてきた。そこに刻まれていた言葉は、本来なら、傷となって自分を省みる契機になるのであろう。世の中の普通の彼氏なら。
今は読む気になれないと思い、朱莉とのトーク画面を閉じて、スマホをベッドに軽く投げた。すると、間もないうちにバイブレーションの重低音が聞こえ、隼人は再びスマホを手にした。
「ん、昴か。もしもし?」
「なぁ、春休みの課題の一覧表失くしちゃってさぁ。教えてくんね?」
昴は二年間同じクラスであり、同じ剣道部の友達である。隼人は仕方なく、リュックの中から今日の最後のホームルームで配られた書類の束を出した。
「今日も秦さんと帰ったんでしょ? いいよなぁ、あんなハイスぺ彼女」
そうか。昴が別れたことを知らないのは当然だった。この言葉にもきっと、反応すべきであった。でも隼人は何の感情も動かずに、淡々と話を流した。
「秦さんとお前、陽川高校のトップ・オブ・カップル。そんな奴の影に隠れる俺はなんて惨めなんだ......」
「はいはい、わかったって。ほら、今写真送ったから」
「おお、サンキュー」
「用はそれだけ? わざわざ電話じゃなくても良かったんじゃないの?」
「んー、何となく喋りたかったから」
隼人は驚いた。昴にではなく、言葉に詰まった自分に。胸が何となくざわつく。隼人は、この気持ちが分からなかった。でも知ってる。このざわつきは、以前にも感じたことがある。しかし、おかしい。昴に胸をざわめかせるのはおかしい。知りたくないことが喉のあたりまで込み上げてきて、怖くなった。
「それで......今日も一緒に帰ってたよな。手繋いだか?」
今は、昴のくだらない陽気さに救われた。昴は何も知らない。俺のことを普通の男の友達だと思っている。そう、他人から思ってもらっていると感じることで、俺は普通の男子でいられる気がした。
「繋いでないよ。ってか、最近あんまり繋いでないっていうか」
昴には本当のことを話そうとも思ったが、タイミングが計れず、なかなか切り出せなかった。それどころか、昴の興味はエスカレートしていく。
「えっ、じゃあキスも......」
「してないよ」
「えぇ! 俺てっきりもう卒業してるのかと思った......」
「馬鹿なこと言ってんなよ。それじゃあ切るよ」
「お、おう! また部活でな」
スマホを耳元から離して、終了ボタンを押した。静けさが再びやって来て、少し乱れた鼓動を落ち着けた。昴にも話した通り、朱莉とは一年くらい付き合ってたのに、キスもその先もしていない。せいぜい、付き合いたての頃、手を繋いで帰ってたくらいだ。高校生にもなって、今までの恋愛とは違うことは、頭では分かっていた。誰かと付き合ったりすると必然として求められるレベルが、大人に近づく。単に傍にいるだけじゃいけないんだ。朱莉にフラれた理由も何となく察しがついた。
ベッドに寝ころび、先ほど後回しにした朱莉のメッセージに目を通した。
「一方的に別れてしまってごめんなさい。隼人のことは、入学して同じクラスになって、学級委員に一緒になった時から、かっこいいなと思ってた。みんなをまとめたり、真面目だけど明るくて真っ直ぐなところが好きで、付き合えて、嬉しかった。本当は、しばらく片思いかなって思ってたけど、思い切って告白してみたら、隼人にOKもらえて、私と同じ気持ちでいてくれてたの知って、それがものすごくうれしかったの。でも、付き合って一年間、誘うのはいつも私からだった。本当に私のこと好きなのかな? って心配になって、隼人は優しいから、断れなくて私に付き合ってくれたんじゃないかなって思って。キスもなにもしたことないし、最近は手も繋いでないでしょう。今日の帰りも、無言の時間が辛かった。そう思うようになってから、段々、隼人への気持ちが冷めちゃって......」
そこからは同じような言葉が並べられ、最後はそれっぽい言葉で後味悪くなく締められていた。朱莉の言う通りだ。もう、高校生。他に彼女がいる奴から、初体験の話を聞くこともある。その度に、隼人にも矢が飛んで来て、うやむやにして流していた。姉から、女子の間でもそういう話はあると聞いた。きっと、朱莉も同じような状況になったことがあっただろう。朱莉の言い分は正しいし、何も主体的にアクションを起こさなかった自分に責任はある。朱莉は俺と別れて正解だ。そうと知った今もなお、自分に後悔の波が押し寄せず、朱莉に「もっとこうできてた」みたいなビジョンが見えなかった。俺では朱莉のことを幸せにできない。
「一年間という大切な時間、奪ってしまって申し訳ない」
抗って欲しかったのだろうか、悔しんで欲しかったのだろうか。朱莉の気持ちは分からない。でも、もう自分の気持ちに嘘をついてまで、繕って、人の人生を奪う真似はしたくなかった。淡々とした一言を朱莉に送って、隼人はスマホの電源を切った。
リモコンで常夜灯に変え、隼人は仰向けになってライトを見つめた。遠くで電車が鉄橋を渡る音が聞こえる。それ以外は静寂に包まれ、自分の鼓動が一番うるさく感じた。隼人は、ここ最近ずっと思っていた感情と再び向き合った。
――俺の好きって、なんなんだろう。
俺の感情が動くきっかけがわからない。朱莉への告白された時の胸の高鳴りも嘘じゃない。そして、さっきの電話の胸のざわめきも、嘘じゃなかった。自分はいったい、何者なんだ。そして、ぽつりと呟いた。
「俺は、普通の男子高校生じゃないのかな」
フラれた時は出てこなかった涙が、一筋、目尻から零れて伝った。隼人は、考えるのが嫌になって、布団をかぶって瞼を閉じた。




