もうひとつの伏線回収
悠斗が帰宅すると、食卓にはラップのかかった夕飯が置いてあった。リビングの隣の部屋を見ると、弟の添い寝をしていたであろう母親が目を閉じて横になっていた。悠斗は何も言わずにそっとブランケットを母の体にかけ、扉を閉じた。
夕食中、悠斗は喜一のチャットを気にした。昼間に送ったデータのリンクは、既読がつかない。きっと彼も受験勉強やそのほかのことで忙しいのだろう。自分の書いたあの物語など、それらと天秤にかけたらあっけなく、上に上がるだろう。そんなものだった。
夕飯を済ませ、風呂に入り、いつでも寝られる支度をする。それから一時間、机に向かった。今日は予備校で四時間半、そして今一時間、スキマ時間も入れて六時間。一日の四分の一を受験勉強に費やした。少し前はその時間を映画鑑賞や執筆活動に充てていた。しかし、時の流れは無情にも、自分の世界を変えていく。
「ふわあ......っと」
さすがに睡魔がやってくる。この問題が解けたら寝よう。悠斗はペンを走らせ、数式を解いた。そして解説を見る。目にしたのは、今日の授業で出てきた公式だった。
「なるほど......この公式の方が早く解けるな」
勉強は効率が求められる。まるで、表の世界の自分のように。赤ペンで新たな解き方を写していると、ふと今日の授業を思い浮かべた。喜一が指名され、惜しいところまでいった。それをあの新人の香坂が補足した。香坂の授業は、わかりやすかったが、それよりも熱を感じる。
「よし、ここまでっと」
デスクの明かりを消して、ベッドに入る。その前にもう一度、喜一のチャットを見た。
「あっ......」
先ほどまでなかった既読の文字が送信時間の上についていた。無性に鼓動が早くなる。今、読んでいるのだろうか、ただチャットを開いただけかもしれない、どんな感想が来るだろうか、期待に応えられるか、それとも裏切ってしまうか。
その夜、悠斗が瞼を閉じるまで、返信を知らせる通知は来なかった。
翌朝、悠斗がいつものように教室に行くと、喜一がなぜか悠斗の席に座っていた。
「おはよう!」
悠斗はイヤホンを外して、挨拶を返した。
「ねえ、昨日読んだよ。早速」
やっぱり読んだんだ。悠斗は次にくる言葉が何なのか分からずに、心臓を締め付けた。しかしその心配をよそに、喜一の反応は朝の陽ざしのようだった。
「めっちゃ良かった、なんだろ。良かったって言葉じゃ申し訳ないくらいに。設定もしっかりしてるし、ファンタジーなのに、オルフェウスの要素はきちんと史実に則ってたし、あとはルイス監督のような魅力も......」
そこで、始業のチャイムが鳴った。そろそろ先生もやってくる。
「......っと、まだまだ言いたいことはあるから、昼休みの時言うわ」
悠斗は遅く学校に着いたことを少し後悔した。褒められると分かってからでは都合のいい話だが、喜一の言葉をまだ聞きたかった。悠斗は席に着き、少し浮ついた心を朝の自習で沈めた。
四限があと数分で終わる。時計の針がひとつずつ動くのがもどかしく感じられた。
「はい、じゃあこれ解けた人から今日の授業は終わりにします」
香坂の指示を聞いて、悠斗はいつにまして急いで解いた。そして解を出し、合っていたのを確認して、ノートを閉じた。すると間もなくしてチャイムが鳴り、喜一も弁当を持ってやって来た。
「さっきの問題てこずったな」
「え、香坂が言ってた公式使った?」
「え、言ってたの? 俺聞いてなかったかも」
喜一はそう言っておどけてみせた。悠斗はやれやれといった様子で、弁当を開いた。今日もいつもののり弁。
「それでさ、悠斗。もう一個、伏線回収したいんだけど」
もう一個? 悠斗はすぐに記憶を巻き戻して二年前を思い出す。何か、伏線を張るような出来事、あっただろうか。その時、窓側の席の奴が、思いっきり窓を開けたせいで、春風が一気に教室に吹き込む。喜一はそれに構わずに、悠斗の目を見て離さなかった。
「悠斗、演劇部に来てくれない?」




