サイレン
あの日から、心の休む暇もない。恵那は今までにないほどに、精神を疲弊させていた。こんなに色々と考え詰めるなんて私らしくない。でも、その「私」こそ、今こうしてつけが回ってきている原因だ。
「はぁ......」
私は今、私の道を歩き出した。予備校からの帰り道、今まで見なかった景色を見て、家路につく。一歩前に出すたびに少しずつ自信は宿ってきたが、心の揺らぎは抱えたまま、不安は未だに募っている。
「恵那ちゃーん」
突然名を呼ばれ、恵那は振り返った。すると、道の対岸に、知っている顔が見えた。
「蓮君!」
蓮君は大きく手を振って、相変わらずの笑顔でこっちへやって来た。
「予備校帰り?」
「え、なんでわかったの?」
「だって、ちょうど塾から出てきたとこ見えたからさ」
見られていたと思うと、恵那は少し恥ずかしくなった。
「そっか、蓮君も?」
「いや。俺はちょっと別件で通りかかっただけー」
蓮君を改めて見てみると、彼はかなり軽装だった。そうして恵那が蓮君のことを見ていると、蓮君は向き直って一つ提案してきた。
「そうだ、この後用事ある?」
この後? 恵那はカレンダーを思い返した。
「この後は、特に予定はないかな」
すると、蓮君は満面の笑みで畳みかけた。近づいた拍子に、蓮君の香水の香りがふわりと漂う。
「じゃあ、ご飯行かない?」
蓮君の圧が強い......。断る理由もないし、それに、恵那には一つ蓮君に聞いてみたいことがあった。
「いいよ」
最近は予備校通いであまり外食などもしていなかった。美咲や弥生と出かけたりもしていない。夜の街を歩くのは、久しぶりな気がした。
蓮君について行くがまま、恵那はこの前のイタリアンレストランに入った。
「ここ、蓮君の行きつけなの?」
「いや、陽輝が教えてくれたんだけど、俺ここのマルゲリータにハマっちゃってさ」
蓮君は別紙のおすすめメニューに載っていたマルゲリータを指さした。
「恵那ちゃんは何にする?」
恵那は少し迷ったが、優柔不断になるわけにもいかないので、同じおすすめメニューに載っていたボロネーゼを選んだ。
「ってか、なんで誘ってくれたの? 突然」
恵那は水を飲んで、聞いてみた。
「え、だって......」
蓮君は躊躇なく大きな目を合わせて真っ直ぐに伝える。
「二人で来たかったから」
恵那は不意に鼓動を早くする。蓮君の言葉に何の気なしについてきたが、よく考えればこのシチュエーションは、そういうことだった。
「そ、そう......なんだ......」
蓮君はそう言ってもなお、いつもの様子を崩さない。言い慣れているんだろうか、いつものけろっとした感じの蓮君が、恵那の目の前にいた。現実を意識すれば意識するほど、恵那は手汗がじんわりと滲んできて、手拭きタオルを開いて織ってを繰り返して、ごまかした。
「そういえばさ、蓮君この前さ......」
恵那はとりあえずこの状況から逃避したく、話題を変えた。
「......この前、私に優しいって言ってくれたじゃん。美咲と弥生と三人でいるのが好きそうって」
「うん、言ったね」
「でも私はその時、優しいだけで何もないって思った。それで私、ひとりの道も歩いてみたの。予備校とか文化祭とか。そしたらこの前」
恵那は沢村に言われた言葉を思い出した。
――それってほんとに優しいって言うのか?
「......いや、ううん。なんでもない」
恵那はそこで口を止めた。何を改まって蓮君に相談しているのだろう。話題を変えようがあまり、今の心を牛耳る問題を口に出してしまった。
すると突然だった。
「恵那ちゃんは優しいよ」
蓮君はいつもの笑みを消して、ただ真っ直ぐに言い放った。
「優しいよ、恵那ちゃんは」
優しいという言葉に囚われた気がして、その言葉を言われるのが怖かった。それなのに、蓮君の優しいは、やはり、心の奥に飛び込んでくる。
「俺は、恵那ちゃんの優しいとこが好きだよ」
時が止まった気がして、恵那は口を少し開いたまま固まった。蓮君はどうしてそんなに恥じらいもなく言葉を走らせることができるんだろう。
「ねぇ、恵那ちゃん」
恵那は蓮君から視線を逸らせなかった。彼の告白を真剣に受け入れたかったのか、それとも、恵那の心が彼に盗まれたのか。恵那は、コクリと頷いた。
「わー! やったー!」
そうしたら蓮君はいつもの調子で目を和らげ、笑みを浮かべた。彼は本当に人の懐に入り込むのが上手い。表情の使い分けや視線に恵那はまんまと捕らわれていた。
ちょうどマルゲリータとボロネーゼがそれぞれ運ばれてきて、食事がやっと始まった。恵那はそれからの会話をあまり記憶に留められなかったが、ただ、楽しかったことは身の底に残った。笑って、喋って、食べて。色々なしがらみを忘れて、灯し始めた自信に追い風を吹かせるような、そんな時間だった。
「いやー、食べた食べた」
「おいしかったね」
蓮君はおなかをさすって、腹いっぱいの仕草をする。
「じゃあ私はこっちの電車に......ってあれ、電車止まってる」
「え、マジ?」
「あ、そっか。蓮君も同じ方向だもんね」
駅の電光掲示板には赤字で運転見合わせの表示が出ている。その時、蓮君が妙な提案をしてきた。
「じゃあ、俺ん家来る?」
「え?」
あれ、蓮君の家って、私と同じ最寄りじゃなかったっけ。
「あ、今俺の両親別居しててさ。あの日は母親の家だったんだけど、今は父親の方にいて」
蓮君は手を頭の後ろに回して気まずそうに話した。彼の様子からして本当の話であろう。恵那は深く詮索せずに信じることにした。
「......いやでも、お邪魔になっちゃうんじゃ」
「そんなことないよ、外暑いし、すぐそこだから再開するまででも涼んでいきなよ」
「えー、そんな」
「遠慮しなくてもいいって、だって彼女に優しくするのは変じゃないでしょ?」
そうか、私、蓮君の彼女か。もっと、頼っていいのか。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そうして恵那は蓮君について行った。遠くでサイレンの音がする。夜といえど季節は夏。湿度が高く籠った空気は、肌にまとわりつく。
「ついたよー! さあさあ入ってー」
駅近のタワーマンションの中層階の一部屋に着いて、蓮君は戸を開けた。中は明かりがついておらず、人の気配もなかった。
「お父さんまだ帰ってないの?」
「あ、いや、先週から海外出張で帰ってこないよ」
ガチャリと鍵が閉まる音が響く。蓮君は明かりをつけて、リビングに恵那を案内した。
「ちょっと汚いかも。ごめんねー、適当にくつろいでて」
蓮君はそう言って奥の部屋へと入って行った。
恵那はソファに向かうと、テーブルの上にタバコが置いてあった。
「あ、それ。父さんが喫煙者でさ。出しっぱなしになってたかー」
汗が垂れる。エアコンの効きが悪いのか、いや、そうではない。この汗は暑さゆえではない。
「そ、そうなんだ」
タバコは開いていた。お父さんは先週から出張のはず。テーブルの上はそれ以外に散らかっているわけでもない。
恵那は無性に鼓動が早くなってきた。テレビも何もついていないので、外のサイレンがやけにうるさい。その時、脳裏に嫌な記憶が過る。
「レシート......」
蓮君が落としたレシート、そこに記されていたのは......。恵那は視線をソファの隅にやると、ライターが転がっていた。まさか......。頭の中で点と点が繋がり始め、鼓動は早くなるばかりだ。
「恵那ちゃん?」
ふと顔を上げると、蓮君が目の前に立っている。いつもの笑顔なのに、無性に怖い。
「わ、わたし......」
蓮君は着ていたTシャツを脱いで、ランニング姿になった。
「ほら、行こ?」
「行く?」
蓮君が奥の部屋へ招く。細く開いた戸の隙間から、ベッドがちらりと見えた。視線を再び蓮君へ向ける。その瞬間、恵那は鳥肌が立った。目の奥が笑っていなかった。
「ごめん、帰る......!」
「え、ちょっと」
恵那は一心に走った。急いで鍵を開けて飛び出す。エレベーターは待てない。階段を駆け下りて、ひたすらに、駅に向かって。
「嘘だ......うそでしょ......」
彼の本当の姿は、あれだ。いや、彼だけじゃない。彼らの本当の素顔、美咲や弥生は知らないかもしれない。
駅の電光掲示板は変わっておわず、電車は動いていない。涙も出てこないほどに、心は恐怖で占めている。恵那は柱に身を委ねて、荒くなった呼吸を整えようとした。その時、
「恵那?」
聞き覚えのある声がして恵那が顔を向けると、滲む視界に美咲と弥生がいた。




