優しさとして映るだけ
暑さのピークも過ぎたとはいえ、八月最後の一週間も、依然としてアスファルトを照らす日差しは容赦を知らなかった。
恵那は、ハンカチで汗を拭い、家庭科室の引き戸をガラリと引いた。
「お、おつかれ」
「お疲れ様ー、藤代だけ?」
室内を見渡すと、藤代の他に人がいなそうであった。
「いや、フード班は今高瀬ん家に食材の打ち合わせに行ってて、悠斗と喜一はそろそろ戻ってくると思うんだけど......」
「そっか。藤代偉いよね。夏休みも毎日学校来てさ」
「俺は、推薦だから予備校行ってないし、学校で勉強したい派だったからそんなに苦じゃないよ」
藤代はそう答えてすぐに、恵那の発言の意味を理解した。
「あー、まあ噂が広まるのは怖いけど、あれはあくまでも噂だし。それに、俺は最後の一年楽しみたいしな」
藤代の横顔を、太陽が照らす。陰になった部分が見えないほどに、照らされた部分の方が眩しかった。きっと彼も何かを抱えているけれど、それを跳ね返すほど強い、自分を持っている。
「篠原は予備校?」
「夜ね。これ終わったらそのまま行こうと思って」
恵那は教材の入ったカバンを机に置いた。数ヶ月前は何も入っていなかったカバンは、確かに重くなっていた。
「最近の篠原、なんかかっこいいよ」
藤代は作業の手を止めずに笑みだけ浮かべた。
香坂と話してから数ヶ月、恵那は自分の道を歩き出した。両親に大学進学すると言った時は、初めは驚かれもしたけど、それからすぐに全力応援モードに変わった。予備校だ、参考書だと両親の方が盛り上がっていたくらいだ。
「戻ったよー!」
同じドリンク班の神田喜一の元気な声とともに、ガラリと戸が開く。それに続いて、もう一人のドリンク班である沢村悠斗も入ってきた。
「それじゃ、俺は一旦香坂先生と段取りのことで打ち合わせてくるね」
入れ替わりで藤代が出ていき、室内は三人になった。
「篠原さん、ドリンクのカップのデザイン出来上がった?」
「うん、こんなんでどう?」
恵那はスケッチブックを取り出し、数ページを神田と沢村に開いて見せた。
「うわあ、これ最高じゃない? ねぇ、悠斗?」
「うん。良いと思う」
神田は恵那の書いたデザイン案を行ったり来たり見返しながら、目を輝かせている。神田はそういうわかりやすい人柄だった。対して、あまり感情を表に出さない沢村も、優しく口角を上げていた。
「......そしたら、あれ、全然予定より早く進んでるね」
「そうだな。デザインにもう少し時間かかる想定だったから」
「じゃあ、休憩にしよっか」
三人は神田がこっそり持ってきたお菓子を囲んで、少し休憩をとることにした。
「でも、篠原さんってデザインのセンスあるよね、まじで」
神田は一口サイズのバウムクーヘンを頬張りながら言った。恵那も照れくさそうにして、同じバウムクーヘンを齧る。
「大学とかはそういう系を目指してんの?」
「いや、特には......」
沢村は二人の会話に首を突っ込まずにただ聞いていた。
「えー、せっかくだから極めればいいのにー」
すると静かに聞いていただけの沢村は、神田に「そうやってまた」と頭を軽くはたいた。
「でも、スケジュールが円滑になってるのは確かだよね。これやりたくて、ドリンク班にしたの?」
静観する沢村と違って、神田は思ったことをすぐに口にする。
「いや、なんっていうか......」
「でも、俺は絶対に木島さんとか三田さんと同じにすると思ってたなぁ」
神田が驚くのも無理もない。恵那自身も、自分の衝動的な選択には驚いたから。すると、黙っていた沢村がボソッと言った。
「いつもくっついてばっかりだもんな」
その瞬間、恵那は芯を掴まれたような感覚になった。そうだ、それがいけないことなど分かっている。ふつふつと湧き上がる感情を喉の奥で押し殺しているのも、沢村の指摘が図星であり、言われて当然のことだからだろう。
「って、悠斗。言い方があるだろ。篠原さんごめんねー、こいつ口が不器用なもんで」
神田がすぐにその場の空気をなだめたので、波風は立たなかったが、恵那はしばらく、ざらざらした心の整理に時間を要した。
「まあ、ほら。篠原さんって何となく優しいイメージあるし。木島さんとか三田さんをフォローしてるっていうか」
神田はその後も恵那のフォローに徹したが、その尽力も空しいほどに、再び沢村が追い打ちをかけた。
「それってほんとに優しいって言うのか?」
恵那はその言葉を聞いてはっとした。また棘のある言葉。でもそれは、恵那の怒りを湧かせるのではなく、何も言い返せないほどに、恵那の心に答えをもたらした。親に言われる「優しい」も、先日、蓮君に言われた「優しい」も今の神田の「優しい」も、恵那には馴染んだ言葉。でも、私には合わない。だって......。
――私の弱さが、優しさとして映っているだけだから。
私が己を持てない「弱さ」と、私がいつも言われる「優しさ」が、ぴたりと重なった。
「おーい、神田先輩! ステージリハの前に打ち合わせあるから集まれですってー!」
その時ちょうど、神田の所属する演劇部の後輩が家庭科室に呼びに来た。神田も「助かったぁ」といった表情で、彼のことを見た。
「ごめん、ちょっと席外すから、なんか自由にしてて! すぐ戻るから。ほら、悠斗、行くよ!」
そう言って神田と沢村は急ぎ足で家庭科室を後にした。とうとう室内は恵那一人。遠くガラス窓の向こうから、部活の声や準備に勤しむ雑踏が聞こえてくる。だから余計に、家庭科室の静けさが目立った。恵那は心に宿した大きな問いを、ひとりポツリと零した。
――優しさって何だろう。




