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鏡を壊して

 遠くで電車が鉄橋を渡る音がする。でもそれはすぐに、スピーカーから流れるJPOPでかき消された。


「って感じでさ、まじ危なかったわ」


「すまんすまん、まさかそんなタイミングだとは思わなかったわ」


「あ、これいくらだった? 全部で」


 蓮は着ていた上着のポケットを探ったが、貰ったはずのレシートが見当たらなかった。


「あれ、どっかで落としたかな……えっとね、確か600円とかそんくらいだったと思う」


「おっけー、そしたら後で割り勘なー」


 そう言って立ち上がった陽輝は、冷蔵庫から缶を二本、取り出した。


「お前、飲みすぎじゃね? 親にバレんだろ」


「大丈夫、今週二人とも出張で留守だから。さっきメッセージも来てたし」


 陽輝はプシュッと缶を子気味よく開け、喉に流し込んだ。


「お前、ちょっと顔赤すぎじゃね? 酔い醒ましに夜風当たれば?」


「お、俺もちょうど外出ようと思ってたとこ。陽輝一緒に行こうぜ」


 佑の提案にすんなりと乗った陽輝は、若干足をふらつかせながら、蓮とベランダに出た。ベランダにはちょっとしたベンチと灰皿がある。陽輝の両親も喫煙するのだろう。


 蓮は良い気になっている陽輝をとりあえずベンチに座らせ、ベランダから夜景を眺めた。


「ここが地元なのは、俺じゃなくて陽輝なんだけどね……」


 都心部から少し離れたこの住宅街は、穏やかな時が流れている。煌びやかな世界を見据えながら、自分の余生を楽しんでいるような、そんな余裕すらこの街には感じられた。蓮はその風景を、ぼーっと眺めて白い紙筒を咥えた。


「蓮、お前タバコ持ってんの」


「あー、兄ちゃんの部屋からパクってきた」


「お前、俺たちの中で一番童顔で可愛い感じなのに、一番ヤバイよな。ハハハ」


 陽輝はそこで力尽き、うとうとと瞼をゆっくり閉じた。その時ちょうど、恵那ちゃんからメッセージが来た。「よろしくね」と一言添えて、うさぎがお辞儀をしているスタンプが送られてきた。


「チョロいな……」


 口角を上げ、先ほど買ったライターに火を灯す。間もなくして、白い煙がゆらゆらと立ち上った。








 四限が終わり、恵那は職員室に向かっていた。というのも、つい先ほどの数学の授業の終わりに、香坂に呼び出されたからである。


「あ、来た来た。んーと、そうだな。場所変えよっか」


 せっかく職員室に来たというのに、香坂は数学準備室へ移動しようと提案した。先生に促されるがまま、恵那は準備室へ入る。


「よし、座っていいよ。私もお弁当持ってきたから、一緒に食べよう」


 昼休みということもあり、香坂は恵那に弁当も併せて持ってくるように伝えていた。ふたりは対面で座り、それぞれの弁当を机に広げた。


「篠原さん、それで足りる? 私なんて弁当に、昨日の残りのコロッケもあるよ」


「樹里ちゃん食べ過ぎでしょ」


「私現役の時、もっと食べてたからね」


 先生に呼び出されたので何事かと思っていたが、気づいたら何気ない会話で笑いが生まれていた。


「それで、なんで私呼び出されたんですか?」


 話を切り出したのは恵那の方から。すると、香坂は本題を思い出したのか、箸を止めて口を空にしてから喋り出した。


「そうそう、篠原さんだけ面談の予定がまだ出てなくてさ。親御さんの都合、まだわからなそう?」


 香坂に指摘されてすぐに、恵那は冷や汗をかいた。ママには既に都合を記入してもらって、その紙はカバンの中に入っている。しかし、まだ提出できないでいたのだった。


「あ、いや……目処の方は立ってるんですけど……」


 すると、香坂は何か察したようで、「なるほどね」と一人頷いた。先生の勘は非常に冴えている気がする。恵那は白旗を挙げて、正直に話した。


「まだ、進路が決められなくて......でも、美咲や弥生はもう決まってるみたいで」


 香坂は恵那が事情を打ち明けるのを頷きながら聞いた。


「二人とも専門行くって言ってて、私もって思ったんだけど、私特にやりたいこと決まってないし、それに......」


――いつまでも、誰かと同じ道を歩くわけにはいかないから。


 恵那はその言葉を言えずに、口が止まってしまった。すると恵那に代わって、静かに聞いていた香坂が、口を開いた。


「なるほどね......。そしたらさ、大学に進学してみたら?」


 香坂の提案に、恵那は一瞬ぽかんとしてしまった。


「え、私が進学? ......だって予備校とか行ってないし、私には......」


「もしかして、遅いとか思ってる?」


 恵那は頷く。大学に進学する人は、この時期は既に受験モード。名の知れていないような大学であれば、中間層の成績を取っていたために今からでも間に合うだろうが、それは自分の出さなければいけない答えではない気がしていた。


「篠原さん、一個聞きたいんだけどさ」


 恵那は思考をいったん止め、顔をあげた。


「私には似合わないって、そのレールは誰が決めたの?」


 ちょうどその時、予鈴が鳴りだした。恵那は芯を突かれたような心地で、地に足着かぬようなまま弁当を片付けた。


 私が出さなければいけない答えは、私、そして私が決めたレール。藤代に憧れを抱いたのも、美咲や弥生に焦りを感じたのも、全部彼らがそれを持っていたからだ。進学が身近ではなかったのも、勝手に周りのレールと見比べて、似合わないと判断していた。でもそれは、私のレールではない。誰かが決めたレールに映る、鏡の中の私。私に必要なのは、それじゃない。私の今を受け入れ、自分の道を進む覚悟。分かっていたけど、それでも......。


 すると、恵那がそそくさと準備室から出ようとした時、香坂は一言添えた。


「文化祭の挑戦、かっこよかったよ」


 恵那はドアにかけた手を止め、振り返った。


「わかってるんでしょう? 篠原さんに必要なのは、答えじゃない。覚悟を持つための、勇気」


 香坂はふわっと笑う。細く空いていた窓から吹く風が、香坂の髪を小さくなびかせた。


「私は、応援するよ。篠原さんの覚悟」


 その時、確かに何かが、恵那の背中を押した。そうして一歩踏み出した先には、私のレールが伸びていた。

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