Where is
地下鉄の入線アナウンスがホームに響き、恵那は顔を上げる。
「あっ、イヤホン忘れて来ちゃった......」
恵那はよくイヤホンを忘れる。鞄を漁ったところで、出てこないのは分かっていたので、潔く諦めて、トンネルに響く走行音が段々と近づいてくるのを聞いていた。
「......そういえば、さっき通知来てたっけ」
恵那は再びスマートフォンを見て、メールをチェックした。10分前に来ていた通知に目を通すと、後輩が体調不良で欠勤する旨が記されていた。
「優子ちゃんに任せた明日の打ち合わせの資料......私がやるしかないよなあ」
目の前のホームドアが開いて車内に入る。今年から始発駅のマンションに引っ越したので、朝の通勤ストレスはかなり楽になった。恵那は座席について、スケジュールを確認する。後輩のカバーも含めると、今日も帰りが遅くなりそうであった。
ふと開いたSNSのアプリに新たな投稿が上がっていることに気づいた。沖縄の自然溢れる絶景の数々に「平日旅行サイコー!」と一言添えられていた。
「えっ......これって......」
先ほど欠勤連絡のあった後輩の投稿。どう考えても、今まさに旅行に行っているに違いない。体調不良と連絡あったのは、仮病ということだ。それでも不思議と恵那は、腑に落ちてしまった。彼女のこのような勤務態度は今に始まったことではない。有休をとって休んでいるわけだから、会社の制度としても問題ない。要するに、容量がいいのだ。こういう人を「生き上手」とでも言うのだろうか。
「せめてバレないようにやりなよ......」
恵那がそうぼやく頃には、あっという間に席が埋まり、車内は通勤ラッシュの構図が完成していた。
恵那が務めるのは都内のベンチャー企業。入社6年目の彼女は、あらゆるプロジェクトに携わり、それが評価されて今では、新規プロジェクトのリーダーに抜擢されていた。
「日下部君、この資料作りって終わってる?」
「先輩、すみません......まだです」
恵那が日下部のデスクを一瞥すると、色んな付箋があるのを目にした。彼は今、仕事を抱えてしまっている。そのうえ、最近ちゃんと寝れてもいないのだろう、コーヒーの消費量が多いようにも見える。
「おっけー、そしたらこのタスク私やっちゃうね」
「いや、そんな......」
「大丈夫。日下部君、最近休んでる? 今日は早く帰っていいよ」
恵那は日下部のデスクにあったタスクの資料を回収して、自分のデスクへと踵を返した。その時日下部が、どんな顔をしていたのかも知らずに。
「篠原、ちょっといいか」
日下部のタスクも終えたちょうどその時、恵那は上司に呼ばれて談話ルームに向かった。部屋に入るなり、上司はパソコンを打ちながら、恵那を座るように促した。上司の表情を読み取った恵那は、この話が決して朗報ではないことを察した。
「早速話すが......篠原に限って、こんなことないって信じたいけどさ」
上司は渋そうな顔をしながら、パソコンの画面を恵那に向ける。そこに記されていたのは、社内で導入されている職場環境向上サービスの中の「ハラスメント相談」のページだった。
「なにこれ......」
恵那が「優しさ」だと思ってやってきたこと。それが全て裏返しになって表れている。篠原先輩が全部やってしまって、頼りにされていないように感じる。篠原先輩の「優しさ」が怖いです。これが......ハラスメント?
「ほら今どき、ホワイトハラスメントとかって言葉もあるじゃん? 俺は篠原の仕事ぶりに助かってるし、それを評価してリーダー任せてるんだけどさ。まあ、上手くコミュニケーションとってみて」
上司はそれだけ言い残して、パソコンの画面を閉じ、部屋を去っていった。
私の何がいけなかったのだろう。若手のリーダーとして期待され、それに応えようと必死に頑張ってきた。それだけじゃない。チームとして成功しなければ意味がない。チームのメンバーのことを気にかけて、仕事が滞っていれば手伝って、そして......。
その時、恵那はハッとした。昼間の日下部とのやりとりを思い出す。恵那はいつもの優しさの範囲で手を差し伸べた。しかし、その先の彼の様子はどうだっただろう。彼はどんな顔をしていて、どんな気持ちだったんだろう。
「私......」
――彼のこと全く見てなかったんだ。
優しいつもりになってただけだった。でも本当の「優しさ」は......。
ふとデスクの資料が目に入り、優子の残したタスクがまだ終わっていなかったことに気づく。靄のかかった心をどうにか今は向き合わないようにと、そのタスクに取り掛かった。
恵那はパソコンを開く。しかし、恵那はそれ以上手が動かなかった。気づけば頬に涙が伝っている。外はすっかり暗くなり、都会の夜景ともいえるライトが遠く下の方で光っていた。私はここで何をしているんだろう。光り輝く世界を常に傍に置いてきた。そうして常に上を見てきたのに、いつの間にか光は遠く下にある。
「......私は......どこにいるの?」
その時、デスクの方でスマートフォンのバイブレーションが低くなっているのが聞こえた。恵那が画面を見ると、懐かしい名前からの着信だった。
「もしもし?」
電話越しに聞こえてきたのは、10年前、私の居場所だった世界だった。




