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流浪の軍師ー三国志・賈詡文和伝ー  作者: 涼風隼人


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第44章 賈詡、赤壁の戦いに反対する

 西暦二百八年(建安十三年)。

 

 この年、曹操は「丞相」に任命されている。

 丞相は行政の最高責任者である。


 袁紹一族との戦いが終わり、曹操が次に目を向けるのは当然に南方、荊州である。

 曹操と袁紹が河北で雌雄を決しているときも、劉表は全く動かず、どちらの味方にも与しなかった。

 そのことにより、戦に嫌気がさした者や、高名な学者なども戦の無い荊州に移住をしてきていた。

 

 中国を表す言葉に「南船北馬」というものがある。

 文字通りの意味で、南は船を得意とし、北は馬を得意とする。

 曹操がこれから天下を伺うには南方で、「水軍」を持つ必要がある。荊州攻略の目的も、劉表の有する水軍をすっかりもらい受けることにあるのだ。


 また、荊州には「あの男」が転がり込んでいる。

 曹操の宿敵と言ってもいいであろう、「劉備」である。

 劉備は、襄陽の出城とも言うべき、新野城を任されていた。


 最近、劉表は病の身で、その先は短いと見られていたが、結局すぐに亡くなってしまった。

 享年六十七歳であった。

 

 劉表には、長男劉琦、次男劉琮がいた。

 後継争いでは、圧倒的に次男の劉琮が先を行っており、劉琦は居場所が無いような状態であった。

 どちらも人物として優秀か、君主の器であったかと問えば、そうではなかった。曹操が一番恐れたのは、荊州全土が劉備のものになりかねない、ということであった。


 荊州は非常に豊かな土地であり、交通の要所でもある。もし、劉備の根拠地となれば、今まで以上に手ごわい相手となるのは間違いない。

 今は、襄陽の出城である新野城を治めているに過ぎない。 

 今が叩くべき時であった。そして、劉備は劉琮からの「裏切り」にあう。


 なんと、劉琮は劉備に一報も入れず、曹操に降伏したのである。

 結局劉備は、荊州を自分のものとしなかったことから、窮地に追いやられる。

 唯一の救いといえば、あの大軍師との出会いがあったことであろう。

 「諸葛亮孔明」である。

 

 諸葛亮は劉備が荊州を取る気が無いことを知るや、今度は孫権軍との同盟を図ることにした。

 今の劉備はよるところもなく、独力では何もできないのだ。

 

 孫権も荊州の次は自分たち、とわかっている。

 重臣たちからの意見は、勝ち目がないから降伏すべき、というものが大勢を占めたが、諸葛亮が孫権を焚き付け、重臣たちを論破したことから、孫堅と劉備の同盟は締結された。

 

 同盟といっても、当時の劉備軍はいくら勇将関羽、張飛、趙雲を抱えていると雖も、ものの役にも立たなかったはずであり、劉備は諸葛亮の舌先三寸で何とか居場所を確保した、という感じであった。


 曹操陣営では、荊州が降伏したことにより、当初の目論見通りその水軍を丸ごと無傷で吸収することが出来た。その勢いを駆っての、孫権軍攻略が軍議で上がっていた。

 

 曹操は、速戦を主張。一部の将軍、于禁や張郃も賛意を示していた。しかし、この時、賈詡は反対意見を述べている。

 

 「丞相。孫権の水軍は少数と雖も、精強であると聞いています。まずは、今回手に入れた荊州の経営に集中し、水軍の訓練も十分に行ってからでも、遅くは無いのではないでしょうか。こちらが時間をかけても、孫権勢力の国力が飛躍的に上昇する余地はないと思います。」

 

 「賈詡よ。官渡の戦いのときは、烏巣急襲に賛成していたお主にしては、いささか消極的ではないか。」

 

 「丞相、状況が違います。あの時の袁紹は兵力格差から慢心し、怠ってはならぬところを怠っておりました。しかし、今回は逆です。我らは兵力二十万、孫権は三万程度。兵力的には我らが圧倒していますが、水軍となると全くの別物。北方からきた兵士はものの役にも立ちませぬ。また、あまりにも気候風土が違うので疫病感染の恐れもあります。兵をまず、この南方の環境に慣らさなければ、大きな火傷を負う可能性は捨てきれません。」

 

 「・・・。なるほど、賈詡らしい冷静な判断だ。しかし、私は袁紹の様に慢心などしておらぬ。実際、北地でも玄武池を作り、水軍の調練をしていたことはお前も知っているであろう。」


 「もちろん存じております。しかし、戦いの場となる長江では池と違い、船の揺れや吹き付ける強風、その他にも水戦に慣れていない我々にとっては、思いのよらない外的要因も少なくありません。今一度、時期を遅らせ、少なくとも北方の兵がこちらの気候に慣れ、荊州水軍と同等の力を発揮できるところまで待つのが妥当だと考えます。」

 

 賈詡は熱弁したが、結局曹操は「速戦」することを選んだ。

 

 これが「赤壁の戦い」である。

 

 結果は、曹操軍の惨敗であった。

 

 賈詡の言う通り、気候風土が北方と違うことから疫病が蔓延し、船の揺れなど、曹操軍の知らない「水戦の厳しさ」に兵たちはさらされ、いつもの強さを発揮できなかった。

 そして、命からがら北方への退却を余儀なくされたのである。

 

 そして、その隙をついて漁夫の利を得たのは劉備であった。


 劉備は荊州南方の四郡を次々と攻略し、挙兵依頼初めて、自らの力で地盤となる領土を手に入れたのである。

 

 赤壁の戦い当時、若き軍師郭嘉は既に亡くなっていた。

 曹操は、「もし、郭嘉がいればこの戦を止め、敗戦することは無かったかもしれない。」といった主旨の発言をしたと言われるが、もし、賈詡の進言に従って、準備万端整えていれば、また別の結果になったのではないだろうか。郭嘉亡きとはいえ、賈詡という大軍師が曹操の側にはいたのだから。

 

 賈詡は、行くべき時は行く、待つべき時は待つ、という的確な助言、提言のできる軍師である。

今回は採用されなかったとはいえ、この赤壁での敗戦以降、曹操は改めて賈詡の実力を認識し、ますます重要な役割を任されていくことになるのである。

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