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流浪の軍師ー三国志・賈詡文和伝ー  作者: 涼風隼人


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第43章 賈詡、官渡の戦いに参戦する

 賈詡は、曹操に感謝された。

 孫子の兵法の事もそうだが、今回の張繡の降伏の裏には賈詡の説得があったことが容易に想像をできたからだ。

 このおかげで、貴重な戦力を損耗せずに対袁紹戦に集中できるからである。袁紹はいつでも軽く十万、二十万を超す兵力を動員するだけの国力を有している。

 一方、曹操の方も兵力は整いつつあるも、いつでも、五万、十万の兵を整えられるわけではない。実際、張繡と賈詡との戦いに多くの兵を動員したが、あれは復讐戦を兼ねており、限界までの徴兵を行い、少なからず国力には影響を与えるものであった。

 

 今のところ、袁紹の優勢は揺るがないものの、日に日に両雄の激突する時は近付きつつあった。そして、機は熟した。

 西暦二百年(建安五年)二月、袁紹が動員したのは少なくとも十万以上の精鋭部隊であった。一方、この頃曹操が動員できたのは、わずか三万程度の兵力であった。

 袁紹の方は「とりあえず」の十万であり、曹操の方は「限界」の三万という兵力であった。

 

 曹操は「屯田制」などでも国力の充実を図っていたが、やはり所有する領土の範囲が全く違うことから、国力の差は簡単には埋まらなかったのである。

 しかし、初戦とも言える「白馬の戦い」においては、荀攸の献策が見事に的中して、白馬城に攻め込んできた袁紹軍きっての勇将、顔良を切って捨てて勝利を収めたのである。

 

 だが、まだまだ戦力格差は当然には埋まらない。

 続けざまに袁紹軍は次の一手を打ってきた。

 

 顔良同様、袁紹軍で勇将の名をほしいままにしている文醜が顔良の敵討ちを提言してきたのである。

 袁紹はこの心意気に応じて兵を与え、文醜は曹操陣営に向かって兵を繰り出したのだが、曹操陣営の奇策にかかり、何と、命を落としてしまった。

 

 たった二回の戦いで自軍の誇る勇将二人を失った袁紹軍には動揺が走り、曹操軍の士気は高揚した。とはいえ、依然、兵力格差はほとんど変わってはいないのだ。

 

 この後しばらく膠着状態が続き、両軍ともに大きな動きを見せなかった。

 最初に動いたのは袁紹である。十万の大軍を前面に押し出しての大攻勢に出たのである。

 以前の二戦は、戦の「質」という部分で曹操に軍配が上がった。質の戦いに勝てないのなら、「量」で押し切るまで、と袁紹も腹を括ったのだ。

 

 実際、今回は袁紹がその兵力で曹操軍を圧倒して押し込んでいった。曹操軍は官渡城に引きこもらざるを得なくなった。

 袁紹軍の猛攻は続き、籠城する曹操軍の兵糧も底をつきかけた。流石の曹操も弱気となり、一時退却して許都に戻ろうとしたが、許都を守る荀彧からここまで耐えたのだから勝機は必ず見えてくると励まされ、撤退することをやめた。

 

 その時である。思わぬ好機が曹操に訪れる。

 袁紹軍の参謀であり、曹操と旧知の間柄でもある許攸が重大な情報を手土産に投降してきたのである。

 許攸が言うには、袁紹軍の輜重隊は後方の「烏巣」に集中しておいてあるが、その防備は非常に手薄であるので、奇襲攻撃を仕掛ければまず成功し、袁紹軍の兵糧は数日持つか、持たないかだというのだ。

 この情報の真偽が、軍議で検討された。

 賈詡も参加した。

 

 曹操が言う。

 「私は、この情報を信じ、奇襲をかけたいと思うがどうか。」

 軍師の郭嘉が言う。

 「賛成です。これで、一気に形成が逆転するでしょう。」

 程昱も続く。

 「私も賛成。前線に兵力を集めたい袁紹ならば、輜重隊の警備が薄い、という情報も信憑性があります。」

 軍師二人が賛成したが、曹操の側近の一人が言う。

 「しかし、全軍の輜重を一か所に集め、且つ、警備が薄いなどということが本当にあるのでしょうか?私の様な凡人でも警備を手厚くする、保管を分散するなどすると思うのですが・・・。」

 曹操が言う。

 「なるほど、そなたの言葉にも一理あるな。荀攸、お前の意見は?」

 「郭嘉殿、程昱殿に賛成致します。ここまで耐え抜いた我々にようやくめぐってきた千載一遇の機会であります。」

 「ふむ。そして賈詡よ。お前の意見も聞かせてくれ。」


 その場の全員が賈詡に注目した。

 賈詡が重要な諮問に公の場で答えるのは、今回が初めてだからである。

 賈詡は少し間をおいて言う。

 「袁紹は曹操様を捕らえて、自らの軍門に降らせたくてしょうがありません。故に、前方に多くの兵を割き、後方の警備はないがしろにしております。烏巣はかなり後方故、こちらからの奇襲は不可能であると高をくくっているものと思います。ここは、軽騎隊を編成して夜襲を掛け、一夜にして勝負を決するべきかと思います。」

 曹操は大きくうなずいた。

 

 「よし、ならば烏巣へ夜襲を掛ける。軽騎隊を率いるのは・・・。」

 皆が次の言葉を待つ。

 「私自らが行く。」

 

 軍師たちは反対しようとしたが、曹操が自ら行くといえば、必ずそうするので反対する者はいなかった。今夜決行、と決まったのである。

 

 曹操は今一度、許攸に烏巣の状況を聞いた。守将は「淳于瓊」である。武の腕は中々だが、酒好きでだらしないところがあるという。


―夜がやってきたー

 案の定、淳于瓊は酒を飲んでいい気分に何っていた。

 部下の兵も一部は酒を飲み、酔っぱらっている始末であった。


 間道より、軽騎兵で静かに進んできた曹操軍は、この体たらくをみて、淳于瓊軍に一気に襲い掛かり、輜重に火を放った。輜重は、みるみる燃え上がり、焼失していく。

 淳于瓊は曹操自ら、しかも少数で攻めてきたということを知り、反攻して曹操を捕らえようとしたが、逆に叩きのめされる結果となった。

 

 烏巣壊滅の情報はすぐに袁紹に入り、その動揺は計り知れないものとなった。

 実際、烏巣の壊滅を知り、曹操軍の中でも名を知られている名将、「張郃」と「高覧」は曹操軍に投降してしまった。特に張郃は、今後も数々の武功を挙げ、曹操軍になくてはならい重鎮になるほどの活躍を見せ、栄転を重ねるのである。

 

 これで官渡城を攻めていた袁紹軍は壊滅的な打撃を受け、撤退を余儀なくされた。撤退する袁紹軍への追撃は当然の様に行われ、その多くが打ち取られることになった。

 

 この戦いの勝利において、曹操の勢いは日の出の勢いとなり、袁紹一族は凋落の一途を辿る。

 まず、西暦二百二年(建安七年)、袁紹は心労がたたり、病死してしまう。しかし、その後袁紹の子供たちは、後継者争いを繰り広げ、一枚岩になることは出来なかった。


 とはいえ、各自それなりの兵力を要していたので、侮れる存在ではなかった。異民族の「烏桓」も絡んでくるなど、状況は刻一刻と変わっていく。

 

 しかし、曹操は参謀陣の提案してきた「各個撃破」の方針を採用し、河北を着実に自領に取り込んでいく。

 

 結局、袁紹の次男である「袁煕」が逃亡先の遼東太守「公孫康」に殺害され、その首が曹操に献上され袁家との戦いは幕を閉じることになる。

 

 如何に袁紹の勢力が大きかったかは、河北の戦いから袁煕の死まで実に約八年間を要したことが物語っている。

 いずれにしても、これで北方を自領とした曹操の目は、南に向かっていくのである。

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