第39章 賈詡、曹操軍に勝利する
曹操は、喜んで張繡軍の降伏を受け入れた。
まずは、貴重な兵力を損耗せずに後顧の憂いをなくすことが出来たのが一番であるが、何といっても、張繡、特に賈詡を手に入れたことが曹操にとって、非常に喜ばしいことであった。
張繡は騎兵を操る将軍として名が高く、そして、賈詡は既にその名を天下に知られる大軍師である。
人材を集めることへの執着心が強い曹操にとって、この二人を得たことの喜びは、相当大きなものであった。
もし、曹操がこれで満足をしていれば、この後の歴史は変わった可能性がある。
曹操ほどの人物である。例え偽降の計で膝を屈した二人とはいえ、曹操の人物の大きさに触れ、本当に降伏して、曹操の為にすぐにでも働いたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
曹操は、もう「一人の人物」を手に入れたからである。
それは、武将でも、軍師でも、政治家でもない。
「女性」である。
その「女性」とは誰か。
それは、張繡の叔父である張済の妻、つまり、「未亡人」であった。
その未亡人は美しいと評判であったが、曹操はまさに心を奪われてしまったのだ。
「英雄色を好む」とはまさにその通りで、曹操も例外ではなく、数日で、この未亡人に骨抜きにされてしまった。
これに怒ったのが、張繡である。張繡が言う。
「先生、俺はもう我慢ならん!」
賈詡は頷いた。
実のところ、賈詡は曹操が必ず張済の未亡人に溺れるであろうことを、既によんでいたのである。それ故、「十日もかからぬ可能性あり」と告げていたのだ。
実際、ものの数日であった。無論、その事を張繡に告げることなく、賈詡は言う。
「機は熟しました。まずは、曹操に盗賊退治の為に兵を動かしたい、という許可を張繡様自らお取りください。」
賈詡は続ける。
「曹操は今、おそらく叔母様の部屋に居る模様、すぐに許可が出るでしょう。曹操の兵のほとんどは城外にいます。うまくいけば、この宛城で曹操の首を取る事も可能かと。」
「わかった。すぐに曹操のところに行こう。」
こうして張繡は曹操に会いに行ったが、曹操は面倒がって直接会おうとはせず、兵を動かす許可を張繡に与えた。
もし、この時、いつもの曹操であれば張繡に直接会い、その雰囲気から殺気のようなものを感じ取り、別の決断、行動をしたかもしれない。しかし、女に溺れるとは怖いものだ。曹操のそういった冷静さや堅実さを、全て忘れさせてしまったのである。ある意味、この未亡人が一番手柄、と言えるであろう。
張繡は早々に軍を動かし、まずは城内にいる曹操軍の殲滅を図った。
虚をつかれた曹操軍は次々に倒されていく。
そして、張繡は曹操を急襲すべく、部下で一番の武勇自慢である「胡車児」を未亡人の邸宅に向かわせた。
曹操は念のため、未亡人の邸宅の周りに自分の親衛隊を侍らせ、こちらも曹操配下で一番の武勇自慢である「典韋」に指揮を採らせていた。
曹操が外の変化に気付かず、未亡人と楽しい時間を過ごしていると、緊急の伝令が入ってきた。曹操は何事かと一喝したが、兵は何ら恐縮もせずにすぐに伝える。
「曹操様、お逃げください。張繡軍が裏切りました。この邸宅も囲まれつつあります。早く、お逃げを!」
曹操は驚き、着の身着のまま、脱出を図る。その姿を見届けた典韋は、敵を通さじと一歩も引かぬ奮戦をする。
「我が名は典韋。命が惜しい者は我を避けよ!さもなくば、皆殺しに致す!」
多くの兵が典韋に倒され、前に進むことが出来ない。
らちが明かぬと、胡車児が典韋に向かって言う。
「我が名は胡車児。張繡軍一の剛の者と言われている。典韋、俺が相手だ!」
胡車児は長刀で力任せに切りかかるが、典韋は槍で簡単にはねのけ、力強い槍の一閃で、猛将胡車児は典韋にあっけなく、刺し殺されたのである。
とてもかなわぬと思った胡車児の兵は、一旦後ろに引き距離を置いた。そして、弓矢で典韋を狙う。
降りかかる矢を典韋は槍で薙ぎ払い、なお、戦い続ける。
気づけば、配下である親衛隊は既に打ち倒され、残るは典韋一人となっていた。典韋は叫ぶ。
「お前たち如き雑兵にやられる典韋様ではないわ!」
次々に兵たちを刺し殺す。しかし、増える一方の弓矢の攻撃に、典韋の動きが止まった。とうとう絶命したのである。
しかし、槍で自らの体を支え、倒れることなく力尽きた典韋はまさに豪傑そのものであった。
典韋の奮戦により時間を稼ぐことが出来た曹操は、何とか城外に出ることができたが、張繡軍の執拗な追撃は続く。そこに、長男の曹昂がやってきて言う。
「父上、この馬にお乗りください!」
曹昂は下馬して、自分の馬を渡した。曹操は叫ぶ。
「他の馬はどうした!」
「ご安心を。すぐに乗り換え、後を追います。さあ、こちらの馬にお乗りください。」
「わかった。必ず、戻るのだぞ!」
曹昂は頷いた。これが親子最後の会話となった。
父親の曹昂を逃がすべく、自らの命を犠牲にしたのである。
馬に乗り、曹操はようやく、いつもの曹操に戻った。
乱れた軍を統制して、自ら殿を務めたのである。
張繡の下に、曹操が城外に脱出したという情報が入った。
張繡は、すぐさま追撃の命令を出した。しかし、賈詡は言う。
「お待ちください。追撃は危険です。」
「先生、この好機を逃すわけにはいかぬ。恨みを果たすには、曹操の首が不可欠。先生の言葉でも、辞めるわけにはいきませぬ。」
賈詡はそれ以上、何も言わなかった。
しかし、やはり、追撃軍は手痛い打撃を受けて帰ってきた。
何と、曹操自ら殿を指揮していたという。張繡は後悔して言った。
「先生の言うことを聞かなかったばかりに・・・。」
「それはやむを得ませぬ。さあ、今度こそ好機、張繡様自ら、騎兵隊を率いての追撃を。」
張繡は呆気にとられた。
部下たちが、打ちのめされて戻ってきたところ、今度は張繡に追撃せよ、と提言してきたのだ。張繡は聞く。
「我が軍は、たったいま負けて帰ってきたのですぞ?」
「はい、だからです。曹操はもうだいぶ先、殿部隊にはもうおりますまい。張繡様が自ら行けば、一網打尽に出来ましょう。」
張繡はなるほどと思い、自ら騎兵隊を率いて、曹操軍に急襲をしかけ、大いに打ち破った。
曹操はこの戦で、長男の曹昂と親衛隊長の豪傑、典韋を失うだけではなく、一万人以上の死傷者を出した。
一方張繡軍は、一旦殿軍に敗れたものの、その被害は想定の範囲に収まるものであった。
こうして、賈詡の献策により、張繡軍は曹操軍に圧勝するという、奇跡を起こしたのである。




