第35章 賈詡、段煨と袂を分かつ
賈詡二十六歳、洛陽で黄門郎に登用されたとき、共に働き、共に学んだのが段煨仲華である。年齢は賈詡と同じであり、今年でちょうど五十歳となる。
孔子の論語には、
「五十にして天命を知る」
という有名な言葉があるが、今の自分はまだまだ道定まらず、と賈詡は自分について思った。
そうこうするうちに、弘農にたどり着いた。
段煨は今、弘農の太守として天下の趨勢を見守っているところだ。
特に、大きな勢力に属しておらず、独立を保っているようだ。
賈詡は段煨を訪ねた。
段煨は賈詡の来訪を知ると、飛び出してきて自ら迎えた。
そして言う。
「文和、本当にあの文和なのか。久しいのう。」
「仲華。いや、太守殿、お久しぶりです。」
「何を固いことを言っている、さあ、入れ。」
すぐに邸内に案内され、もてなしの酒食の用意が為された。
段煨が言う。
「文和、一説によると、皇帝陛下の長安脱出を画策したのもお前だという噂だが、実際のところどうなのだ。」
「・・・。ある、身分の高い方々に諮問を受けて、多少の受け答えをしたのは事実だ。」
「おまえらしい、言い方だ。文和よ。実は、あの頃、俺は俺で皇帝陛下をここに迎えようと策を練っていたのだ。」
「そうなのか。ならば、仲華を頼ればよかったかな。距離的にも、かなり近いからな。」
「ああ、そうなのだ。近すぎて、すぐに攻め込まれると思い、打つ手がなかった、というのが正直なところだ。」
「なるほど。」
「ところで文和よ。今回ここに来てくれた理由は?」
「ひとまず、許都に行ってみようと。旅の途中に寄らせてもらった。」
「許都・・・。皇帝様とその後ろ盾となっている曹操のところか。仕官の当てでもあるのか?」
「いや、特には無い。ただ、先ほど話した方々の所には一旦顔を出そうとは思っている。」
「そうか。それなら具体的に決まっている話は無いのだな?」
「ああ。具体的な話は無い。歓迎されるかどうかも微妙だろうな。」
「なるほど・・・。文和よ。いや、賈詡先生と呼ぶべきか。」
「仲華よ、どうした、急に改まって。」
「そうだな、やはり堅苦しいのはやめよう。文和、どうだろうか。ここに残る気は無いか?これからの激動の時代、お前が軍師としてここにいてくれたらどれだけ心強いか・・・。」
「今、軍師と呼べるものは仕えていないのか?」
「ああ・・・。だから頼む。力を貸してくれ。」
賈詡は少し考えた。
まずは当初の予定通り、許都に行くべきかどうか。
もし、許都に行って楊彪や董承が歓迎してくれれば、献帝の側に仕えることが出来るかもしれない。また、何かの機会があり曹操と顔を合わす機会があれば、優秀な人材を集めることに熱心であると聞こえているので、自分の才があれば登用される自信はある。
しかし、楊彪や董承が、今に至るまでの計画を自分たちの手柄にしていた場合、歓迎はされない。
そればかりか、曹操に会う手筈も持ち合わせていないので、空手で終わる可能性もある。
どちらが現実的か。恐らく、後者の可能性が高いであろう。
そうであれば、しばらく旧知の間柄である段煨に仕えるのも悪くは無い、という思いに至った。
結局、賈詡は、旧友のこの頼みを受け入れることにした。
賈詡は軍師として手始めに軍制の整備を助言した。
今の時代は、いつ何が起こるかはわからない。
そのため、費用は掛かるが、なるべく多くの軍馬を集めて騎兵隊を組織する。
戦いにおいては速さが重要であるということを、賈詡は身をもって知っている。
そして装備品の刷新。武器庫の点検をしたときにあまりに使い古されたり、機能しないのではないかという武器、防具が多く、その全てを新しい物に入れ替えることも提言した。
段煨はひとまず、賈詡の言うとおりに軍馬を買い集め、装備品の刷新を図ったが、とにかく金がかかった。
そこに段煨が不満に感じているのを賈詡は察し、何事も最初は投資が必要であることを説き、最終的には納得をしてもらった。
これに伴い、軍の編成も騎馬隊を中心としたものに改められていった。
日々進む軍制の変革に、兵士たちは驚いた。
段煨が、金を惜しむところは兵士たちにも知られており、その段煨が多くの投資を行った裏に、軍師である賈詡の助言があることが兵士たちの間に広まっていった。
もともと賈詡の名を知っている者も多く、賈詡の人気は日に日に増して言った。
段煨は、想像以上の賈詡の人気ぶりに少し焦りと嫉妬を覚えはじめた。
「金を出したのは俺だというのに・・・。このままでは、文和に弘農を乗っ取られる。」
こんなことまで考える有様であった。
この段煨の心情の変化に気づかぬ賈詡ではない。
賈詡は、段煨の「器」の測りを見誤ったことを自分で認めるしかなかった。
洛陽で共に働き、学んでいた時から今に至る上で、段煨の器は「小さく」なってしまったらしい。
どうやら、段煨の器はこの「弘農の太守」で埋まってしまう者だったようだ。
「はて、どうしたものか・・・。」
賈詡が考えているところに、ひとりの男が訪ねてきた。その男は、宛城の太守の「張繡」の使いだという。
張繡は董卓勢力の有力武将であった「張済」の甥である。
張済の死後、その勢力を引き継ぎ、今は宛城で独立勢力として割拠していた。その軍の指揮ぶりは、叔父の張済さながら、名将の器であると見られていた。
しかし、張繡軍にも軍師と呼べる者がおらず、賈詡に目をつけて誘うための使者であった。
使者が言う。
「段煨と賈詡様は旧知の仲と聞いておりますが、それ故、段煨は賈詡様を使いこなすことは出来ますまい。」
「何故、そう思われる?」
「宛城にもすでに聞こえてきていますよ。段煨が、賈詡様の名声を妬んでいると・・・。」
「そんな情報が宛城まで伝わっているとは・・・。」
「我が張繡の下に軍師はおりませんが、張繡は叔父であった張済様を見習い、情報収集は怠りません。宛城近辺の城市には間者を放っております。」
「ほう、それはお見事。しかし、私にそこまで話してしまってよろしいのか?」
「はい。ご一緒頂けると信じておりますので。」
「・・・。わかりました。ただし、条件が一つ。」
「何なりと。」
「この弘農にだけは手を出さぬ、と約束してください。」
「わかりました。我が主、張繡も、その賈詡様のお気持ちは無下に致しますまい。必ずや、約束させます。」
賈詡は段煨に書を残した。
短い間であったが世話になったこと、請われて宛城の張繡の下に行くが、弘農には一切手を出さない、ということを確約する、という内容であった。
賈詡が自ら去っていたことを皆に告げ、自分の不徳とするところであると涙を流し、謝罪をした。
しかし、段煨は内心、ほっとした。
結局、若かりし頃、閻忠による人物鑑定では「儒将を目指せ」と言われていたが、そこまでの器ではなかったことが、ここでも改めてわかるというものである。
こうして、賈詡は宛城に割拠する張繡の下で軍師を務めることになったのである。




