第28章 賈詡、黄巾の乱に乗じず
西暦百八十四年(光和七年)三月。
ここより歴史は一気に動き出す。
「黄巾の乱」勃発である。
「蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉」
(蒼天已に死し、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り、天下大いに吉なり。)
この言葉を旗頭とし、「大平道」を興した張角によって起こされた大規模な反乱である。
冀州、幽州、青州、荊州、揚州、豫洲、徐州、司隷の農民や貧民、流民たちが、大平道の教義に影響を受け、広範囲で蜂起した。特に張角の本拠地である冀州、張角の弟である張宝・張梁がそれぞれ青州、荊州を根城とし、活発に行動をした。
この大規模反乱に肝を冷やした中央は、各地の軍閥に討伐要請を出した。
当然、涼州も例外ではない。
この討伐要請が、群雄割拠時代の幕を開けたと言ってもいいであろう。
この頃、賈詡はどうしていたか。
父であり、涼州総督である賈龔が亡くなった時、賈詡は軍師の職を辞していた。
どこの軍にも属さず、ひたすら学問の研鑽に励んでいたのである。
賈詡の名は涼州では名軍師として認知されているのはもちろん、中央でも名を知られはじめていた。
黄巾の乱が勃発したことにより、人材登用が活発化、賈詡のもとにも多くの誘いがあったが、賈詡は全て断った。
「言葉で羽ばたくのは、まだこの時ではない。」
明確な理由は無いが、賈詡自身がそう感じたからである。
「もし、董卓殿の誘いがあれば・・・。」
賈詡は考えていたが、官を辞した後、董卓の情報は全く入ってこなくなった。
涼州において、黄巾の乱は直接的な影響は少ないものの、中央が大混乱を陥っているのを契機として、異民族はもちろん、軍閥の独立、動きが活発化してきた。
馬騰や韓遂という涼州の「英雄」たちも、この頃から名を馳せるようになった。
そして、残念ながら段熲、賈龔と続いてきた涼州総督の軍も、李道、郭遠では抑えが利かず、その存在感は全くなくなり、涼州も中央同様、大混乱の時を迎えたのである。しかし、賈詡が動き出すのは今しばらく先のこととなる。




