異世界人がスマホを使えるの?
リビングに立ち込める香ばしい匂いが、寝ぼけた頭をやんわりと目覚めさせる。
俺が眠い目をこすりながらダイニングに行くと、テーブルにはトーストとスクランブルエッグ、そしてサラダがきれいに並べられていた。
「おはよう、ユキヒロ」
キッチンでエプロン姿のアリサが、振り返って微笑む。
「えっと……おはよう。ていうか、いつの間に……?」
「広さんに教えてもらったの。せっかく一緒に住むなら、私も役に立たなきゃって思って」
そう言って、彼女は少し誇らしげに胸を張る。
いや、そのエプロン越しの胸の主張はちょっと目のやり場に困るんだけど——。
「おはよう。ユキヒロ、顔、ちゃんと洗った?」
広が寝癖一つない姿でリビングに現れる。冷静な口調のわりに、どこか警戒心がこもっているように見えたのは……気のせいか?
「あら広さん、おはようございます。今日もその服、素敵ですね。都会のセンスってやっぱり違うなぁ」
「……ありがと。でも、その服、私のやつだから」
「あっ……えへへ。つい着心地が良くて……」
広の口元がかすかに引きつる。
そして、リビングに静かな気まずさが流れた。
……うん、これは早急に空気を変えたほうがいいな。
「な、なぁ、アリサ。今日は休みだし、街を案内してやろうか?」
「えっ、いいの!? 私、こっちの世界のこともっと知りたいと思ってたの!」
ぱぁっと笑顔を咲かせるアリサ。
一方、広の目がわずかに細くなる。
「……二人きりで?」
「え、いや、もし広も時間があるなら一緒に——」
「いいわ。仕事入ってるから」
と、言いつつ、さりげなくケータイ画面を伏せてカバンにしまったのを、俺は見逃さなかった。
……これ、絶対仕事じゃない。
「それじゃ、洗い物お願いしてもいいかしら? 私、そろそろ出るから」
「はいっ! 任せてください!」
アリサが快活に返事をし、広はヒールの音を響かせて部屋を出ていった。
静寂が訪れる。
その後ろ姿を見つめながら、アリサがぽつりと呟いた。
「……なんだか、広さんに嫌われちゃったかも」
「いや……そんなことはない、と思うぞ」
口ではそう言いながらも、自信はなかった。
広の態度が、どこかぎこちない。昨日の一件が尾を引いているのは明らかだった。
「でも、仕方ないよね。私……急に押しかけたみたいなもんだし」
そう言って、アリサは寂しげに笑った。
俺はその横顔を見て、言葉を失う。
あんなに強くて、誰よりも勇敢だったアリサが、今はただの一人の女の子として、不安と向き合っている。
「大丈夫だよ。少なくとも、俺はお前の味方だから」
その言葉に、アリサは一瞬目を丸くし、それから頬を染めて、そっと目を逸らした。
「……うん。ありがとう、ユキヒロ」
その声は、異世界をともに駆け抜けた、かつての仲間としての絆の証みたいに、あたたかくて、少し切なかった。
こうして、俺たちの三人暮らしは、静かに始まりを告げたのだった——。
※
次の日の土曜日の昼時、広は俺とアリサを呼び出すなり、急にスマホの箱を手渡す。
「スマホ?」
俺は気になり中身を確認する。
「——ッ!? こ、これって!? どういうことだ広……なんで、新品のスマホがここに!?」
俺がそう言うと、広は深いため息をして。呆れたような顔をする。
「貴方たちスマホ持ってないでしょ? だから2人分買って契約してきたのよ。あ、でも私が払ったお金は払ってもらうから」
「広、アンタは神か?」
「す、スマホってなんですか?」
「……つまり、これがスマートフォン。略してスマホ。現代人の必需品ってやつよ」
広が手慣れた様子で、アリサの前に新品のスマホを置く。
その輝きに、アリサは目を輝かせた。
「すごい……これがこの世界の魔道具なの?」
「魔道具ではなくて、電化製品」
さすがの広も、その反応には少しだけ笑みを浮かべていた。
「通話、メール、ネット、写真、地図、あとゲームもできるわ。全部この小さい板一つでね」
「そ、それって……ほとんど、上位精霊の力じゃない……?」
「そのうち慣れるわ。まずは操作方法から教える」
そうして始まった、アリサの“スマホ修行”。
最初はぎこちなかったものの、アリサの学習速度は想像以上だった。
「すごい、指で画面をなぞるだけで文字が出てくる……これが”かな”ってやつ?」
「ひらがな、カタカナ、漢字。全部覚えるのは大変だけど、これが現代のルールよ」
「任せて! 私、魔法の詠唱を覚えるの早いから、これぐらい大丈夫!」
……数時間後。
「だ、だめぇっ! この“ねこあつめ”ってゲーム……癒されすぎて、心が溶けそうっ!」
「お前、完全にハマってるな……」
その様子を見て、俺と広は苦笑いを交わす。
ほんの数日前まで異世界にいたとは思えないほど、アリサは現代社会に馴染もうとしていた。
その姿勢は健気で、どこか胸を打たれるものがある。
——だけど。
ふとした瞬間に見せる広の沈んだ視線が、俺の心に引っかかっていた。
夕方、アリサがひとりで“スマホの使い方動画”を見ている隙に、俺はキッチンに立つ広に話しかけた。
「広。……その、ありがとうな。スマホまで用意してくれて」
「……別に。住まわせてる以上、最低限の道具は必要だと思っただけよ」
「それでも、助かったよ。アリサ、すごく嬉しそうだった」
「……そうね」
そこで、広は包丁を止めて、静かに俺の方を見た。
「ねぇ、ユキヒロ。ちょっと聞いてもいい?」
「ん?」
「……あの子を、この世界に呼び寄せたのは、あなたの意思じゃないよね?」
「……ああ。俺が帰還したとき、偶然光に巻き込まれたらしい」
「ならさ……あの子の帰る場所、ちゃんと探すつもりある?」
「もちろん。……でも、それまでの間は、俺の責任でもあるし」
広はそれを聞いて、わずかに目を伏せた。
「そっか……偉いね。ちゃんと考えてるんだ」
それからほんの少しだけ、声のトーンが変わる。
「でも……私の居場所が、なくならなきゃいいけど」
「……え?」
「なんでもない。ほら、早く戻らないと、アリサちゃんが“推し猫”に夢中になりすぎて寝なくなるわよ」
「そ、そうだな」
俺は何も言えずに、リビングに戻る。
夕焼けが差し込む中、ソファでスマホ片手に笑っているアリサの姿。
その背後で、静かに背を向ける広の気配。
俺はまだ、この三人暮らしのバランスがどう動いていくのか、まるで掴めないでいた。
——それでも、何かが始まりつつあることだけは、確かだった。
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