最強の力、伏魔の鐘
「ザルヴァトールとか言ったな、お前」
ユキヒロの声には、戦場に似つかわしくない冷めた響きがあった。
「そうだ、我は魔界大帝に仕える最高最強――」
「あぁ分かったわかった。自己紹介はその辺にしてくれ」
ザルヴァトールの巨躯が、わずかに震えた。怒りだ。三メートルを超える漆黒の体から、紫電が迸る。十二枚の翼が夜気を切り裂き、周囲のアスファルトが波打つように歪んだ。
「貴様! 人間風情が我にそのような態度――万死に値する」
だが、ユキヒロはそれをまるで聞き流すように、腰に差したエルドリスの柄に手をかけた。ゆっくりと、まるで儀式のように。その仕草には一切の迷いがない。
ザルヴァトールの口元が、不敵に歪む。
「先程まで必死に怯えていた貴様がどうしてそこまで冷静なのか、我には不思議でたまらんな」
「――演技に決まってるだろ、アレ」
短い沈黙。
「――は?」
「お前、一つ聞いておくが」
ユキヒロの瞳が、月光を反射して鋭く光った。
「どうして俺が勇者と言われるか、わかるか?」
その瞬間――空気が変わった。
ザルヴァトールの背筋を、得体の知れない悪寒が駆け上る。本能が警鐘を鳴らしていた。目の前の人間は、さっきまでとは別の存在になっている。
ユキヒロの足元から、淡い紅色の光が立ち上り始めた。それは炎でも魔法陣でもない――純粋な魔力そのもの。光の粒子が螺旋を描きながら彼の体を包み込み、周囲の大気を震わせる。街灯が明滅し、近くの窓ガラスが悲鳴を上げるようにひび割れた。
「伏魔・天命」
低く、静かな詠唱。
だが、その言葉が放たれた瞬間――世界が変わった。
ザルヴァトールは咄嗟に両手を前にかざす。漆黒の掌から、禍々しい光を放つ魔力の球体が生成される。直径五メートルはあろうかという巨大な質量。その表面では稲妻が走り、触れるものすべてを分解する破壊のエネルギーが渦巻いていた。
「消え失せろ――【崩壊の理】!」
魔力玉が解き放たれる。空気を押しのけ、轟音とともに直進する漆黒の球体。その軌道上にあった街灯が跡形もなく蒸発し、ビルの壁面が触れただけで崩壊していく。大地が抉れ、アスファルトが溶解し、すべてを飲み込みながら――ユキヒロへと迫る。
だが。
ユキヒロは動かなかった。ただ、右手をそっと前に差し出す。
魔力玉が、彼の掌の数センチ手前で――止まった。
いや、違う。止まったのではない。
球体の表面が波紋のように揺らぎ、内部の魔力が螺旋状に吸い込まれていく。まるでブラックホールに吸い込まれるように、その膨大なエネルギーがユキヒロの掌へと収束していく。わずか三秒。球体は完全に消失した。
「――バカな!?」
ザルヴァトールの声が裏返る。
あれは魔界でも上位に位置する破壊魔法。それを――手で触れただけで無効化した。
ユキヒロの体を包む紅い光が、さらに激しさを増す。周囲の魔力が、まるで生き物のように彼の元へと集まっていく。街中に散らばっていた残留魔力、地脈に眠る大地の魔力、空気中の微細な魔素――あらゆる力が一点に収束する。
彼の足元のアスファルトが、圧力で粉砕される。
エルドリスの刀身が、虹色の輝きを放ち始めた。
「さぁ来いよ」
ユキヒロがゆっくりと剣を構える。その動きは流麗で、無駄がない。
「少しは手に汗握る戦いをしてくれるだろうな? 言っとくが――お前が下だ」
挑発ではない。事実の宣告だった。
確かに、ザルヴァトールの実力は以前倒した魔王を上回る。生半可な力では傷一つつけられない強靭な肉体。魔界でも恐れられる破壊魔法の数々。そして何より、戦闘経験の差――人間など、遊びの対象でしかないはずだった。
だが。
ユキヒロには、それを覆す「何か」があった。八年間、異世界で磨き上げてきた戦闘技術。数え切れない死線をくぐり抜けた経験。そして――進化し続ける、底の見えない魔力制御能力。
二人が、同時に地面を蹴った。
轟音。
亜音速の衝突。エルドリスとザルヴァトールの腕が激突し、衝撃波が球状に広がる。周囲のビルの窓という窓が一斉に砕け散り、ガラスの雨が降り注いだ。
「スピードは互角のようだな! 人間!」
ザルヴァトールの拳が、ユキヒロの頭部を狙う。
だが、ユキヒロの体は既にそこにない。残像だ。
「それはどうかな?」
声が――背後から聞こえた。
「――何ッ!?」
「言っとくが」
エルドリスを逆手に持ち替える動作。流れるような、美しいまでに洗練された軌道。
「俺のスキルの影響で、俺に集まる魔力の量によって俺は無限に身体強化される」
閃光。
一閃、二閃、三閃――数えることすら不可能な速度で、ユキヒロの刃がザルヴァトールの巨体を切り裂いていく。漆黒の肌が裂け、紫色の血液が噴き出す。十二枚の翼のうち、四枚が根元から切断され、夜空に舞った。
「ぐぁぁぁぁっ!」
ザルヴァトールの絶叫。
だが、ユキヒロの攻撃は止まらない。最後の一撃――回し蹴りが、ザルヴァトールの腹部に炸裂した。
ドガァァン!
巨体が吹き飛ぶ。一つ、二つ、三つ――ビルの壁を突き破りながら、ザルヴァトールの体は数百メートル先まで飛ばされ、遠くのビル群に激突した。建物が崩壊し、瓦礫の山が生まれる。
ユキヒロは、ゆっくりとその方向へ歩き始めた。
靴音だけが、静かに夜の街に響く。
「勇者の肩書も、俺にはどうでもいいんだよ」
瓦礫の山が爆発し、ザルヴァトールが飛び出してくる。全身傷だらけ、だが――その目には、まだ闘志が宿っていた。
「今はただこの境地を楽しむ――それが今の俺だ」
「貴様ぁぁぁっ!」
ザルヴァトールの体から、さらに強大な魔力が溢れ出す。残った翼が膨張し、角が伸びる。完全な戦闘形態への移行。
「魔界大帝、だっけ? そんな大層な主を持つ部下にしては――」
ユキヒロの口元が、僅かに歪む。
「弱すぎるぞ、お前」
その言葉が、ザルヴァトールの理性を完全に奪った。
咆哮。大地を砕く勢いで、ザルヴァトールが突進してくる。その速度は先程の倍。空気が悲鳴を上げ、音速の壁を突破する轟音が響く。
だが――。
「そうだな、もうこの際」
ユキヒロの体を包む紅い光が、突如として白銀に変わった。
周囲の魔力が、さらに激しく彼の元へと収束する。街中の魔力だけでは足りず、遠く離れた場所からも、地脈の奥深くからも、あらゆる魔力が引き寄せられてくる。
「あのスキルも解放するか」
ザルヴァトールの突進が、ユキヒロの目前まで迫る――その瞬間。
「伏魔・天鐘」
――ゴォォォォォン。
天地を揺るがす、鐘の音。
それは音ではなく、現象だった。空間そのものが振動し、時間の流れすら歪む。見えない巨大な鐘が、戦場全体を包み込む。
ザルヴァトールの動きが――止まった。
「10分間だ」
ユキヒロの声が、静かに響く。
「俺は10分間、あの異世界が許容できる範囲のことは全て実現できる――つまり」
彼はザルヴァトールに向けて、ゆっくりと手を伸ばす。そして――掴むように、拳を握った。
次の瞬間。
ザルヴァトールの巨体が、見えない力に締め上げられた。全身の骨が軋み、内臓が圧迫される。抵抗しようとするが、体が動かない。まるで神の手に握られているかのように、絶対的な力で拘束されている。
「ぐ……ぐぁぁぁっ!」
ユキヒロが手を上げると、ザルヴァトールの体が宙に浮き上がった。そして――天高く、投げ飛ばされる。
信じられない速度で上昇する巨体。雲を突き破り、成層圏を超え――その先へ。
そして、頂点に達した瞬間。
ユキヒロが、拳を振り下ろした。
ザルヴァトールの体が、流星のように落下する。
「――ガハッ!?」
激突。大地が砕け、直径百メートルのクレーターが生まれた。
だが――これは、序章に過ぎなかった。
「さぁ、受けてもらおうか」
ユキヒロの周囲に、無数の魔法陣が展開される。炎、氷、雷、風、光、闇――あらゆる属性の最上級魔法が、同時に発動する。
「異世界に実在する、全ての力を」
天が焼け、地が凍り、雷鳴が轟き、暴風が吹き荒れ、聖なる光が降り注ぎ、闇が全てを飲み込む。
その光景は、まさに終末。
数十秒後――。
そこにあったのは、更地だけだった。ビルも、道路も、何もかもが消失している。巨大なクレーターの中心に、ザルヴァトールの亡骸が横たわっていた。
ユキヒロは、静かにその光景を見下ろす。
「もう俺は勇者でも何でもない」
白銀の光が、ゆっくりと消えていく。
「ただの化け物なのかもしれない」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく――夜の闇に溶けていった。
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