異世界からのブランク
日曜日の午前中、三人で近所のスーパーへ買い出しに行くことになった。
「うわぁ……これ、全部“食材”なの? 本当に?」
アリサが野菜コーナーの前で目を輝かせながら、キャベツを抱えていた。
その様子はまるで、初めて人間界に降りた妖精のようだ。
「すげー……このキャベツ、異世界なら銀貨三枚はいくな」
俺も思わず口に出していた。
「銀貨って何円?」
「えーと……多分、今のレートなら900円くらい」
「異世界にレートがあるって発想がもうおかしいから」
広がツッコミを入れつつも、カゴにどんどん食材を放り込んでいく。
「アリサ、こっちの世界では“自炊”って言って、こうやって材料から作るのが普通なの」
「すごい! 魔法なしでご飯ができるなんて、文明って進んでるのね!」
「いや、魔法よりは地道だけどな……」
思わず、脳裏に浮かぶ。
魔法の炎で煮込まれたスープ、アイテムボックスから取り出した野生のキノコ、ダンジョンで仲間と分け合った硬い干し肉——。
それでも、今こうしてアリサが楽しそうにキャベツと格闘している姿は、異世界での日々とはまるで違う平和で、あたたかいものだった。
それが少しだけ、くすぐったくて、少しだけ……寂しい。
※
帰宅後、キッチンに立つのはアリサと広。
「よし、今日は異世界風シチュー、現代アレンジ版を作ります!」
「任せたわ。私は野菜切るから」
「じゃあユキヒロは、火加減見てて」
「はいはい……」
火加減、ね。魔法でやった方が早いけど——
いや、使っちゃダメだ。ここは異世界じゃない
そう思いつつも、つい指先に力が入る。
するとコンロの火がふわりと安定し、ちょうどいい中火になった。
「……今、魔法使った?」
「ちょっとだけ。温度調整のスキルをな」
「便利すぎるわよ、それ……」
「でも、現代で使いすぎると目立つし、疲れるからな。省エネ省エネ」
そんな話をしていると、アリサがふいに口を開いた。
「ねぇ……ユキヒロ」
「ん?」
「またあの世界に戻れるとしたら、戻りたい?」
シチューをかき混ぜる手が止まる。
「……さぁな。でも、今は……こうして一緒にいられる方が、大事かな」
その答えに、アリサはふっと微笑む。
「そっか……それなら、私もこっちで頑張る」
※
昼食を終えたあと、リビングでくつろいでいると、アリサがスマホで猫の動画を見ながら歓声を上げていた。
「ねえユキヒロ、これ見て! “ネコパンチ集”ってやつ。この猫、すごいの!」
「へえ、すごいな。……ってか、画質すごくね?」
俺もアリサのスマホを覗き込んで驚いた。
たしかに昔から動画アプリはあったけど、こんなに鮮明でヌルヌル動く映像なんて……。
「ユキヒロ、スマホ慣れてない?」
隣に座っていた広が、サラダをつまみながら尋ねてくる。
「いや、使ったことはあるんだよ。高校の頃に。LINEとかTwitterとかも一応……でも、なんか全部違っててさ。操作もUIも進化してて、完全に置いてかれてる」
「なるほどね……8年のブランクって、結構大きいのよ」
広はため息をひとつつき、ソファの隣に腰を下ろすと、自分のスマホを取り出して見せてきた。
「いい? まずはロック解除。顔認証。……これは、あんたの顔が登録されてれば勝手に解除されるから」
「マジか……もうパスコードいらないの?」
「一応あるけど、普段はこっちの方が早いの。次、これがホーム画面。アイコン長押しでアプリの並び変え。これがウィジェットで、天気とか一目で見られるやつ」
「……まるで未来だな」
「未来じゃなくて現在よ。あんたが“過去”なだけ」
広の冷静なツッコミに、ぐうの音も出ない。
「で、このアプリがSNS。Twitterは“X”になったけど、基本の使い方は同じ。あと“インスタ”は写真特化、“TikTok”は動画、そしてこれは“Threads”っていう……って、聞いてる?」
「うん。すまん、最初の“ウィジェット”あたりからもう脳がフリーズしてる」
「ほんとに異世界から帰ってきた人って感じね……」
苦笑しながらも、広は俺の手を取って丁寧に一つずつ操作を教えてくれた。
アリサが横で猫の動画を見てニコニコしている中、俺は広のスマホ講座を受け続ける。
それはまるで、8年前と同じような——
でも、どこか“変わってしまった”時間を取り戻すような、不思議な午後だった。
ソファの横で、アリサが「猫動画」を見てにやにやしている。
「ねぇこれ、ほんとに猫? こんな小さいのに、こんな動き……っ。あああ癒されるぅぅ」
すっかりこの世界の“文明”に染まり始めたアリサを見ながら、俺はふと、異世界の空を思い出した。
赤い月、満天の星、焚き火の匂い。
あのときの“当たり前”は、今となっては手の届かない遠い記憶。
けれど。
「……悪くないな、こういうのも」
目の前で笑う二人を見ながら、自然とそんな言葉が漏れた。
——魔王もいない。
——ダンジョンもない。
——でも、仲間はいる。
だから今は、ここで生きる。
静かで、ささやかで、でもきっと大切な時間の中で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




