希望の光
四目矯太郎は研究者だ。
知らないことを知る為に生きている。
彼は目の前に広がる知識の海が、いまだ一歩も踏み入れていない大海原だとしても臆することはなかった。
理解という行為でもって、この大海原さえ越えて行けると信じていた。
今までに蓄えた知識が、風が帆を押すように彼を後押ししてくれる。
そして探求心と知識欲を原動力に前に進むのだ。
その先に答えはない。
知識は次の知識への鍵のようなもの。
宝箱の中には、次の宝のありかを書いた地図が入っているのだから。
────ノートを読み初めてから何時間が経ったのか覚えてはいなかったが。
矯太郎は自分の肩に毛布が掛けられて、ふと現実に引き戻された。
「お邪魔しましたか?」
「あ、いや……有難うライフ殿」
ライフは沐浴でもしてきたのだろうか、深緑色の細い髪を雫がツゥーっと滴り落ちるのをランタンが照らしている。
矯太郎はその光景に、初めて外が暗くなっていることに気づき、本を読むために明かりを灯されていることにも気づいた。
「いかんな、ついつい……」
矯太郎は一旦眼鏡を額の方にずらすと、目頭を指で揉んだ。
気持ちよさに少しだけ涙がにじむ。
「集中されていましたね」
そんな彼を優しい声で気遣うライフは、矯太郎が同年代ではないから安心しているのか、一緒にノートを覗くため、隣に腰を下ろした。
彼女が居ない歴が年齢と同じ48歳の矯太郎は、それを当たり前に受け入れる事は出来ず、かなり意識してしまうが。
そうでない様に振舞うために、ごく自然に聞こえるよう口を開く。
「集中しすぎるのは癖みたいなものでね──気を遣わせたかい?」
「いえ……ちょっと嬉しくて、真剣に読んでるのをずっと眺めちゃってました」
見られている事すら全く気づいてはいなかった矯太郎。
真剣になりすぎて口が半開きだったりしていなかっただろうか?
分からない部分を読む際にイライラしたり、それが分かった時に嬉しくなっていたような気持ちが顔に現れていなかっただろうか?
そう考えたとしても、もはやそれらを無かったことにも出来ない。
そのお返しという訳ではないが、隣にいるライフへと矯太郎は目を向けた。
流石16歳の若々しい肌だ、そこにはシミもなく、張りがあり、瑞々しい果実の様にすら思える。
彼女はいまだ濡れそぼった髪を束ねて頭の上にのせると、水を吸う布と一緒に巻き込んでいる。
うなじが露になり、隠すもののなくなったエルフ耳もはっきり観察することができた。
そしてその若さからは想像できない程に、その仕草には艶っぽさを感じてしまう。
眼鏡を掛けていないにも関わらず、矯太郎の心が動くのが分かる。
なんだか恥ずかしくなってきたのか、顔が火照りそうになってしまう。
矯太郎は年甲斐もなく焦ってしまい、話の続きを促すことにした。
「嬉しい……とは?」
先ほどの言葉に少し引っかかる部分があったのを思い出し、話題に上げる。
自分の母の手記を、よく知らない人間が必死こいて読むのがそんなに嬉しいものなのかというのが、矯太郎には分からなかったからだ。
しかし、それは彼女の胸中を知る由が無かったからであり、その理由を聞けば彼女からあふれるように語られるのだ。
「はい。母の意思をついで治癒師を目指していると言いましたが──本当は私にはそのノートに何が書いてあるのかさっぱりだったんです」
そう言って矯太郎に苦笑を向ける。
あれだけ大事そうにしていたもの。
最近補修された箇所を見る限り、彼女も何度もこのノートを開いた筈だ。
その内容が理解できていないという事に驚きを覚える矯太郎。
しかしそれ以上に、彼女の見せる苦笑の奥にある、歯がゆさや、一種の諦めの様な感情に胸を締め付けられてもいた。
表情や、その言葉が多くを語ってくれているからか、それ以上ライフは口を開かず、ノートに視線を落とした。
連られるように矯太郎も同じものを見る。
彼にとっては、魔法のくだりはちんぷんかんぷんではあったが、現代医療に近い内容に関しては、専門的な知識や、解剖等の実際の知見が必要なイメージだった。
いうなれば医学の専門書なわけだ。
ライフにとっては、きっとその部分が「読めても理解できない」部分なのだろう。
矯太郎はロボットを作る際に、人間の機構を出来るだけ機械で再現しようとした時期がある。
そのために、解剖学や医学に関してもしっかりとした知識を身に着けることが出来ていた。
だからこそ自信を持って言えることがある。
「この本は人間の構造や、病気の正体についてしっかり書かれている。お母さんはかなりの勉強家だったようだね」
この言葉が、何の慰めになるかは分からない。
気休めかもしれないが、この若干16歳の少女が、悲しい顔をして沈むのを見ていられないという気持ちは伝わったかもしれない。
「そっか、やっぱり……お母さんは凄かったんだ……」
ライフの頬が上気してゆく。
湯上りということもあり、それは瑞々しいリンゴの様に赤みを増す。
母を褒められた嬉しさもあるだろうが。
この手帳が彼女の目指す未来へと、明確に続いていると自信を持てたからかもしれない。
「ヨツメさんがそれを熱心に読んでるってことは、私も勉強をすればいつか──いつか絶対にこのノートが読めるようになるって事ですよね? だったらお母さんと同じ治癒師に……なれる……はず──」
唇が震え、言葉の続きを紡ぎ出せなくなったライフの頬を、一筋の涙が伝った。
きっとこの2年間、母親の死を直面できず、没頭するように必死でノートを読み解いてきたのだろう。
だが、彼女にとって理解できない内容は多く、歯がゆい思いをし続けた。
自分の努力が報われず、夢に押しつぶされそうになっていた。
最後には、このノートを読み解いても、目指す夢にはたどり着けないのではないかという不安すら抱いていたかもしれない。
だからこそ「理解できる」という希望の光が見えた彼女は、また夢に向かって歩き出せるのだ。
彼女の涙がそう語っていた。
そのひた向きな姿勢と、いじらしい感情を目の当たりにした矯太郎は、自分の欲望を抑えることが出来なくなっていた。
そのふわりとあどけなさの残る顎へと流れていく雫を、指でそっとなぞる。
そしてそのまま、くぃっと顔を自分の方に向かせる。
「あのっ……ヨツメさ……」
これから何が行われるのだろう。
ライフ・グリンベルは16歳の人生経験で今までにない事が起きそうな予感だけはしていた。
そんなか細い声を出したライフを見つめながら。
──矯太郎は眼鏡を掛けさせた──
突然の謎の行動に目を白黒させるライフ。
「えっこれはどういう意味──ぎゃぁぁぁああああ!!!」
そして次の瞬間、叫び声をあげるのだった。
それは混乱や不安などではない。
明確な痛み!
「俺のメガネは特別製だ! かけるとまず柄の部分から針が飛び出し、脳の側頭葉まで一気に達する! そこを経由して、必要な知識を流し込む素晴らしい発明なのだ! ……まぁこめかみの後ろあたりにちょこっとだけ致命的な穴が開くのが欠点だが。それを差し引いても凄いだろう!」
一瞬の激痛に、呼吸が荒くなり涙を流して茫然自失なライフに向かって、堰を切ったように一気に捲し立てる矯太郎。
さながら地獄絵図のようにすら感じるが、矯太郎は満足げにほほ笑むのだった。
何せ【美少女に合法的に眼鏡を掛けさせる】ことが出来たのだから!
「どこが合法的ですかぁ!!」
目の前にフリフリのついたスカートが現れると同時に顔に蹴りが入り、矯太郎は吹っ飛んだ。
「ライフ様! お気を確かに! 変態博士は今私が殺しましたから!」
ライフの肩を掴んでガクガクと揺さぶるメイ、一足遅れてライフの父親も到着する。
「ライフ!」
「ライフ様!」
二人の声かけに、ようやく目の焦点が合ったライフだったが。
「ああ、光が見えました」
などと意味深な事を言うのだった。