秘密のノート
「数日の間ですが、部屋の端でもいいので置いて貰えませんでしょうか?」
メイは本当に困った顔を作り、手を前で揃えて頭を深々と下げる。
そんな相手に対して、人の良い者達は邪険に扱う事はできない。
ほんの少しでも何とかしてあげたいと思えばこっちのものだ。
しかもこの頭を下げる行為は、ただの前振りにしか過ぎないのだから。
「そんな、急に言われても……」
もちろんそういう対応になるだろう。
それを見越していたメイはお辞儀の体勢から少しだけ体勢を戻し、顔を上げる。
ウルウルとした真直ぐな目を向けて、まるで捨て犬の様な哀れさを演出するのだ。
そしてそれだけで終わるメイではない。
現在、両手は前で交差しており、二の腕がその豊満な乳房を挟み込み、より強調している状態になっている。
しかも前かがみだ!
露出度の少ないメイド服とはいえ、その下の身体を安易に想像できるだろう。
父親の目線は、一瞬ではあるがそれを把握した様子だ。
男性は気づかれていないと思って居るが、見られている女性はそれに気づいているという真実は、こうやって客観視している矯太郎にも理解することが出来た。
いかにも自然な流れでそこに辿り着いた事で、年頃の女の子であるライフには嫌味に映らなかったようで、父のその体たらくに対してだけ気持ちが動いたらしい。
先ほどの様に上着の裾を強めに引っ張り、父親の緩んだ顔を引き締めに掛かった。
それが功をそうしたのだろう、少し上ずりかけた声を正しつつ口を開く。
「い、いやしかし、男手ひとつで切り盛りしている治療院だから、裏はかなり荒れていて、とてもお客人を通せるような場所では……」
そこでメイは一旦顔を引いた。
もちろん体勢も背筋の通った直立に戻ってしまうが。
父親は残念と言うよりも、つい目が行ってしまう男の性から解放された事にホッとしたような様子が見える。
しかし、矯太郎はその時メイがしめしめという顔をしたのを見逃さない
「わたくしはメイドでございます。掃除洗濯でしたらお手のもの。……また、仕える主人はこの四目博士ではありますれど、この屋敷の主人はあなた様……宿賃代わりに仕事でも何でもお引き受けいたします」
それは淀みなく、自信ありげにハキハキと語られ、彼女が生粋の仕事人である事を物語っていた。
そしてその自信は同時に、最後の一押しへと向けた畳みかけをもって完成する。
改めて自分を紹介する際に今度はスカートの両端を摘まんで持ち上げる、カーテシーという挨拶をした。
わざと少し前の方を摘まんだのだろう、正面から見るとその長くて美しい脚がちらっと見える格好だ。
それは一瞬の出来事ではあったが、男の性というものはどうしようもないものである。
その一瞬を永久にするかのように脳裏に反復させ、記憶させようとさえする。
先ほどの前かがみと合わせて、彼がメイに対して持つ感情は推して図るべきものがあった。
だからこそどうでもいい罠に引っかかるのだ。
「……何でも……とは」
親父がごくりと生唾を飲み込む。
親父はその言葉に意識が行っているため「家賃代わり」という台詞を聞き逃しているに違いない。
逆に言うとメイはこれで「タダで泊まる」と宣言したわけだ。
「ま、まぁ困っているという事だし、自分の寝床だけ掃除して貰えれば構いませんよ」
言質取ったりだ。
「ありがとうございます、では早速清掃作業に入らせていただきますので──お父様、お部屋の案内をお願いします」
そう言ってづかづかと上がり込んでいくメイ。
既に家人の様な振る舞いである。
その手口、そして言葉の誘導。完璧すぎた。
あれよあれよと、居候を承諾させてしまう創造物に矯太郎も若干引き気味だ
となりで呆気に取られているライフと目が合っても、苦笑を返すほかなかった。
親切で助けた相手が、夕方には我が物顔で家を闊歩しているなんて同情するしかない。
せめてこの子にも何かしてあげれたら良いのだが……と思う矯太郎ではあったが、とりあえず彼女の事を知らないと、何をしてあげると喜ぶかも分からないのだ。
その罪悪感を隠すように、努めて笑顔で話しかけてみることにした。
「ライフ殿、年齢はいくつかな?」
「えっと、私は16歳ですよ」
そういう彼女は日本の16歳とは違ってしっかりしている印象だ。
先ほども外に用事で出掛けていたらしい所を見ると、この治療院の下働きとしてしっかり家業に貢献しているのだろう。
改めて彼女を見ると、初対面で印象的だった細く長い緑髪から、とがった耳が見えている。
顔立ちは整っているがどこかおっとりとした印象なのは、少し下膨れの頬に赤みがさしているからだろうか。
きっと色が白いために、驚いたり嬉しかったりするとすぐに赤くなるのだろう。
「そういえば俺が屋根から落ちたときに、傷を治してくれたのは魔法かい?」
「はい、簡単なものしか使えないですけど……治癒士を目指していますから」
全身の打撲に、擦過傷、自分の歯で傷つけた口内まで一瞬で治療できてしまうのか。
矯太郎には治癒師というものはすごい力を持っているなと思う反面、一つの疑問が浮かぶ。
「目指している──ってことは、あんな魔法が使えるのに、まだ治癒師にはなってないのか?」
矯太郎が居た世界からすれば、もの凄い力を持っているにも関わらず、自信無さげなライフは眉を下げて小さく笑ってから語りだす。
「治癒師は国家資格ですから……簡単な傷の回復だけではなく、もっと激しい部位欠損まで完治させる魔法や、毒や麻痺を治すもの、傷ではないけど歳を取ると痛み出す関節などに効く魔法など様々な項目を勉強しないといけないんです」
まるで病院を一人で抱えるような内容だ。
それがこの世界の医者のような立ち位置だとすれば、簡単な傷だけを治していても商売にはならないだろう。
「だったら学校等があるのではないか?」
「はい、学校はあるのですが、何かとお金のかかる場所でして……貴族や王族といったお金持ちくらいしか学ぶことはできないんです」
無一文の矯太郎にはどうともし難い案件ではあった。
とは言えそれだけが道ではないだろうと、頭を回転させ続ける。
「だが、ライフ殿は学校に行かずに勉強をしているのだろう? 親父殿にでも教わっているのか?」
しかし彼の何気ない質問に、一瞬だがライフは明らかに暗い目をして顔を伏せた。
そこに何かしらの地雷が埋まっていたことに矯太郎が気づくも後の祭りか……
だがライフが次に顔を上げた時には、努めて気にしていないという風に口を開く。
「治癒師だったのは2年前に死んだ母なんです。父は薬剤師で……今は簡単な治療と内服薬だけを提供しています」
やはり地雷だったかと、矯太郎反省した。
他人と話す際の距離感を間違える癖があるのは彼自身思うところがあったのだ。
口ごもった矯太郎を気遣ってか、話題を広げる為か、ライフは立ち上がりトテトテと歩き、受付の裏から一冊のノートを取り出してきた。
「私の教科書は母が残したノートなんです」
その手には紙の束を糸で閉じた、和本の様な粗末な作りのノートがあった。
折皺の部分がすれて白くなっており、端は少しけば立っている。
あちこち補修された跡があり、大事にされている事が一目できる。
それを見た矯太郎は、心臓がドクンと跳ねるのが分かるほどに高鳴るのを感じた。
この中には彼の常識を覆す魔法という名の知識が詰め込まれている。
概念はあっても、元の世界には無かったものだ。
科学者としてその知識を得たいと思うのは当然だろう。
一度生唾を飲み込んでから、口が勝手に動く。
「……少し、中身を見せてくれないか?」
そのノートが彼女にとって母親の形見であり、夢や希望の欠片だということは十分に分かっている。
それでも欲望に抗う事は出来ず、気付けば声を掛けてしまっていた。
ライフは逡巡したが、それでも彼を信用してくれたのか、こちらに向きを変えてからゆっくりと差し出してくれた。
矯太郎も卒業証書を受け取るように大切にそれを手に取ると、大事に扱う事を伝える為に目を見て一つ頷いた。
気持ちが通じたのだろう、ライフはその手を放して一歩下がる。
そこからは、目の前にいたライフの事など忘れて、一ページ目を開くに至った。




