いざ異世界へ
────数時間後。
「取り調べが短く済んで良かったですね」
「まさか、頭を良くしてあげようと声を掛けただけで警察に捕まるとは」
「日本の警官は優秀ですね」
警察署から帰宅した矯太郎はむすっとした表情を隠すことなく、研究所兼自宅のソファーに腰かけていた。
いつもはきっちりと中分されている黒髪が乱れ、交差する白髪が目立って見える。
研究に没頭している時よりも、数段疲れた顔がそこにはあった。
「何故駄目なのかが俺にはわからん。頭を良くするだけで捕まるのか?」
「いえ、声を掛けただけで捕まります」
「なんと言う世知辛い世界なんだ! イケメンのナンパなら問題ないくせに!」
矯太郎は身長、容姿共に特筆して良い点が見当たらない。
特徴を上げるとすれば、つり目であり、黒目が人より少しだけ小さいという事だろうか。
その少しの差というものが、人生に大きな差を生むことだってままある。
だからこそ生まれつき恵まれている容姿の人間を矯太郎は嫌うのだろう。
そんな憎悪や苦悩をぶつけられても、メイは無表情のまま言い放つ。
「イケメンではないどころか、博士はもうすぐ50歳。そして声を掛けた相手は10代。捕まらない方がおかしいです」
その言葉は鉄製の矢じりの様に鋭く矯太郎の心を貫く。
かに思えたが、この矯太郎。心臓に毛が生えているのを通り越し、結晶化でもしているのではないかと思うほど刺さらない。
だが、そう言われてふと気づいた。
矯太郎はもう50歳を迎える年であるという事。
そりゃぁ白髪も目立ち始めるというものだ。
「なんって事だ……研究に没頭しすぎて、青春を棒に振り。研究に没頭しすぎて、婚期を逃し。研究に没頭しすぎて、眼鏡っ娘しか愛せなくなり……」
「最後のは元からの性癖ですよね」
「──研究に没頭しすぎて、今だ童貞のまま!」
「博士の遺伝子が世に残らなかった事だけが救いです」
メイのいつもの暴言でも、矯太郎の結晶化心臓は全く動じることは無かったが。
恋愛の「れ」の字も無いまま50歳を向かえるという事実に対しては、思いのほかダメージが大きかったようだ。
「なんという事だ……まさかこのような事態になっているとは!」
矯太郎はわざわざソファーから腰を下ろして、床に膝と両手をつくと、絶望のポーズを取った。
劇掛かっている。
こういう所が女性が寄り付かない理由である事など、本人は知らない。
「むしろこの瞬間までその事実に気付かなかったことに驚きですが……」
しかしその大袈裟な仕草さえ完全にスルーしてくるメイである。
流石に少しくらい慰めても良いと思うのだが、そういった機能は備えていないのだろうか。
矯太郎はカーペットについた腕からも力を無くし、そのままうつ伏せに床に転がると。
「もう、この世界やだ……」
などと小さくつぶやくのだった。
「声をかけるだけで変質者扱いだと? 声だけじゃなくて、本当は眼鏡をかけたいのに」
「流石にみっともないですよ博士」
無感情に思えるメイでさえも、これ以上はと思ったのか、屈んで体を引っ張り起こそうとするのだが。その手をすり抜けて床に再度転がると、手足をジタバタさせ始める。
「こんな世界やだぁ!」
イヤイヤ期の子供の様に駄々をこねる50歳というのは、想像を絶するつらい光景だ。
「はいはい、署から帰ってくるといつもこう」
「略す程お世話になってない!」
「普通の生活している方は8回もお世話になりませんよ」
一応全て任意同行であり、逮捕ではないことを明言しておく。
「──もういい。この世界なんかやめてやる」
そう口にすると手足の動きを止め、ガバリと起き上がった矯太郎。
「どういう意味でしょう?」
またも人差し指を口の横に付けて小首を傾げるポーズを取りながらメイは考える。
人間でいうクセの様なものだが、高性能コンピューターが答えをはじき出せない場合にプログラムされている仕草が起動していた。
「俺は異世界へ行く!」
「これはまた、とんちんかんな事を」
矯太郎の宣言にため息混じりに返答するメイではあったが。
彼はそんなメイにニヤリと笑みを浮かべる。
自信満々なその笑顔に、何かを感じてくれ……るわけはない。
矯太郎が聡明に作ったはずのメイの頭脳に期待することなく……同時にその青色の瞳に期待される事もなく、世紀の大発明その2を発表する為に矯太郎は立ち上がる。
「頭が良くなる眼鏡を開発している段階で、偶然出来てしまったこの異世界ワームホールに入れば簡単なことだ」
指さした先には、空間に分かり易く丸い穴が開いていた。
「そんな、次元の歪みが何故この部屋に?」
「俺も何故、超音波眼鏡洗浄機の上にこれが出来たのかは謎だ」
「いまいち理屈は分かりませんが……」
「だがこれはさらりと流していい情報ではないぞ?」
「ついでで出来ていい代物でもなさそうですが」
結論として、ナゼとかドウシテとかを話し合ったところで、答えが出るような内容では無さそうだと、二人はほぼ同時に理解したようだ。
お互いの顔を見ていた二人は、そのまま空間に空いた歪みに視線を送る。
「まぁ物は試しだ、ちょっと覗いて見るが良い」
矯太郎はさも自分の発明の様に自信満々にメイをいざなう。
「どうやらこの裂け目は異世界へと通じているようなんだ」
「まぁ、まるでファンタジーの町並み……猫耳にエルフ、ドワーフも居ますね!」
奇天烈な状況ではあるのだが、実際にそれを覗いている立場からすれば、まごう事無き現実の一部でしかない。
そこに否定の余地などは無かった。
矯太郎も初めてそれを覗いた時には、年甲斐もなく心が躍ったものだった。
あの鉄仮面を貫いていたメイでさえ、その表情はまるで人間のようにキラキラと輝いていた。
頬が上気し、ほんのり赤く染まって、好奇心旺盛にその街並みを眺め続けている。
どうやら表情プログラムに問題はなさそうだ。
「凄いだろう!──しかしホールに触れるなよ、向こうに飛ばされて帰ってこれないぞ」
「えっ!……そういうことは先に言ってください!」
咄嗟に距離を取りながらも、先ほどの名残なのか、主人のほうを向いて頬を膨らますメイ。
それを観察し表情筋の動作確認を終えた矯太郎は、普段虐げられている意趣返しよろしくニヤニヤと笑って見せた。
そんな彼を冷たい目で一瞥してから、メイはまた異世界の風景に目を移す。
裂け目はその世界の地上より少し高い所に開いているのか、街並みを屋根の上から観察しているような気分にさせてくれる。
眼下では人や、人とは少し違う者たちが、荷車を引いたり、商店に並んだりと、思い思いに生活している様子が見て取れる。
見える範囲に高層ビルなどは無く、軒並み2~3階程度の住宅が並んでいるようだ。
そういった風景を、小さな窓越しに覗くように、メイはずっとそれを見ていた。
思いのほか気に入ったのかもしれないなと矯太郎は、ふっと笑みをこぼす。
邪魔をするのも悪いと思ったのだろうか、いつもはメイに命令して入れてもらう日本茶を自分で入れる為に電気ケトルへと手を伸ばしていた。
メイもその気遣いに気付いたのだろう、普段は自分の事ばかり考えている矯太郎とちょっとしたコミュニケーションを取ろうと考えたのかもしれない。
または、穴が片道通行である事を黙っていて、驚かされた腹いせだったのか。
多分後者のような気もするが。
「あっ、異世界にも眼鏡っ娘が」
と驚いた演技を見せた。
「えっ、嘘っ!」
矯太郎が振り返った時には既に体が反応していた、見逃すまい、一瞬でも早くそれを視界に収めたい。
そういった感情が、爆発的な原動力になった。
日々を研究や実験に費やした結果、衰えてしまった筋肉では、到底出せないような速さを彼に与えた。
狼狽え、必死になる姿に、いつもの主人の姿を見つつ。
驚きには驚きでという、意趣返しを終えたメイはすぐにネタばらしを行う。
「はい、嘘です。異世界に眼鏡っ娘なんて……あれっ、博士?」
部屋を見渡すも、矯太郎の姿を見つける事は出来ない。
「まさか……」
こうして我らが四目矯太郎は異世界へと旅立ったのであった。