彼の愛するもの
スチール棚の上にはアルコールランプと、それに熱されている緑色の謎の液体が、コポコポと音を立てながら湯気をあげている。
若干の異臭漂うその場所だというのに、慣れなのか、鈍感であるのか、その部屋の主はそんな事など気にも留めない様子で、腕を組み仁王立ちしていた。
中分けにした前髪に、ちらりと白髪が目立つようになる年齢の男性。
ただし年相応の落ち着きぶりを窺える表情ではなく、愉悦に歪んだような笑みを溢しているのがなんとも不気味である。
「ぬはははははっ!! ようやく完成したぞ……最高の……最高の眼鏡がッ!」
感無量といった様子で、天井に向かって雄叫びを上げる男。
その狂気にも似た歓喜は、正常な人間の感覚から逸脱していることを物語るようだ。
このところ不眠不休で研究に没頭していたためだろうが、目の充血すらもその雰囲気を後押ししている。
「博士……気でも触れたのですか?」
モノローグがオブラートに包んで明言しなかった事を、日々の会話の延長線上といった雰囲気で発言したのは、机を挟んで立っている一人の美女。
どうやらハウスメイドのようで、いわゆるメイド服なるものを着込んでいる。
目の前で喚き散らしている奇人が居るという状況でも動じていないのは、こういったやり取りが日常茶飯事であるという証拠だろう。
「ええい! メイドが主人に口答えするか!」
このご時世にあるまじき、高慢を形にしたような発言ですまし顔の女性に暴言を吐くが。
美女はごく当たり前にそれをいなす。
「メイドにメイと名付けるような、ネーミングセンスが皆無なご主人様など尊敬に値しません」
そう言いながらも、表情のない視線を主人に向けるメイド。
青く透き通る瞳が作り出す、じっとりとした目線は、好きな人には堪らないのではないかと思えるほど冷え切っている。
「まぁいい。俺様の今度の発明品を見れば、その考えも変わるだろう」
そう言って科学者風の白衣の懐から取り出したのは、見た目はなんの変哲もない黒縁眼鏡だった。
「いつも持ち歩いている眼鏡と何が違うんですか?」
美女はちらりとその発明品とやらを一瞥してそう言うが、別段強い興味が有るわけでもなさそうに無表情のままだ。
そんな事などお構いなしに、この科学者然とした男は説明を口にしたくてたまらない様子を見せている。
「ふふふ、聞いて驚くなよ? この眼鏡はかけるだけで頭が良くなる眼鏡なのだ!」
眼鏡のつるを両手で持ちながら、女性によく見えるようにと突き出すが。
「はぁ、そうなんですね」
と、聞いたうえでなお興味がそそられないといった態度を崩す事は無い。
「もっと驚け!」
「聞いて驚くなと言われていましたし」
「それは慣用句だ!」
しかしもってこの女性……これだけ大声で叫んでいる男に対して、忌避感や恐怖を覚え、眉の一つくらい動いてもいいはずなのだが、それがないのにはひとつ理由がある。
実のところ彼女は、この物語の主人公である四目矯太郎が作り出したメイド型ロボットなのだ。
とはいえ無表情なのはロボット故ではない。
製造段階ではちゃんと表情プログラムも組んでいるし、ご近所付き合い等の際には会釈一つ取っても笑顔を作っているのだから。
単純にメイはこの主人にうんざりしているのだろう。
「それが眼鏡の形状でなければならない理由が分かりません。受信端末と脳を繋いでデータを読み込むのではだめなのですか?」
「実にロボットらしい答えだがな……そこには浪漫が無いだろう!!」
「はぁ……浪漫ですか……」
無表情のまま小首を傾げるメイの仕草は、表情が伴えば可憐で可愛い女性に見えるだろう。
しかし、矯太郎はそういうものにドキドキしない。
何故なら──。
「浪漫だよ、浪漫! 俺は眼鏡っ娘にしか浪漫を感じないのだぁっ!」
矯太郎がこぶしを握り高らかに宣言するも、メイはその目を少し細めただけで、しばしの静寂だけがその場を支配する。
これが天才である矯太郎を、唯一変人にしてしまっている嗜好なのである。
とは言え、それがあるからこそ人一倍努力し、他人とは違う観点で物事を考えるという、天才的な発想をもたらしている面もある為、一概に駄目だとは言い切れない。
そんなわけで、長年の眼鏡好きを拗らせたままにしたことで、今まさに此処に奇人が生まれているのだ。
「まぁ良い──お前など相手にしている暇など無い」
矯太郎もこれ以上熱く語ったところで、メイが自分の興奮を理解してくれるとは思えなかったのか、プイと顔を逸らし背中を向けて去ろうとしたが、メイはその背中に嫌味を投げつける。
「私以外、誰かに相手にされてましたっけ?」
辛辣である。
矯太郎も少し泣きそうになったのか、それをごまかす為にまた語気を荒げて吐き捨てるのだった。
「ええい黙れ。俺はこの眼鏡を欲しがる美女を探しに街に出る!」
白衣の裾をふわりとなびかせながら、鉄の重い扉へ向かい、取っ手に手を掛けた。
「行ってらっしゃいませ博士、お迎えは警察署でよろしいですね?」
メイはそれを止める様子もなく、ただその真っすぐに伸びていた背中を倒し、綺麗にお辞儀をした。
「やかましいわ! ……行ってきます」
矯太郎は突っ込みつつも、それに振り返る事は無かったが、最後に小さく挨拶を残して部屋を出ていくのであった。