世界背景2 枢軸国と共産国との衝突
イギリスとの戦争が一段落したドイツ第三帝国は、ベルリンにてヨーロッパ全土の国粋主義・ファシズム系政治組織を集め、「ヨーロッパファシズム会議」を開催した。
参加した国家・組織は、ドイツを中心に、イタリア、ヴィシー・フランス、ブルガリア、ハンガリー、ベネルクス弁務官区、ノルウェー騎士団、ルーマニア鉄衛団、クロアチア軍団、セルビア救済派、マケドニア社会同盟、スペイン諸派、アラビアの風運動派など多岐にわたり、今後のヨーロッパのあり方について協議した。
ヨーロッパの戦争が落ち着いたと思われた数か月後、ユーゴスラビア王国のペタール2世がマケドニア社会同盟によって拉致されたことで、南ヨーロッパの緊張が高まっていった。
ユーゴスラビアは、国内にファシスト系組織を抱えて混乱していたギリシャや、ソビエトの支援を受けて軍備を強化していたルーマニアなどに呼びかけ、反ファシスト同盟を締結すると、ドイツを含むファシスト勢力への対決を宣言した。
後に「第三バルカン戦争」と呼ばれる戦いが勃発した。
当初は、国内に存在する準軍事組織との戦いだったこともあり、反ファシスト側が優勢に戦況を進めていた。しかし、ドイツのエーリッヒ・フォン・マンシュタインが指揮するドイツ国防軍が参戦すると、戦況は瞬く間に反ファシスト側にとって不利なものとなっていった。
ドイツ側はこれを機に、思想的に近かったトルコ政府に接近し、旧領であるギリシャへの侵攻を持ちかけた。これを承認したトルコは、ギリシャへの進軍を開始した。
南北から挟撃された南ヨーロッパの反ファシスト勢力は、瞬く間に駆逐されることとなった。
その後、1942年にはアテネにて、分割統治のあり方を協議する「アテネ会議」が開催された。会議の結果、ユーゴスラビアとルーマニアには地元のファシスト勢力が政権を樹立し、ギリシャはトルコが統治することとなった。
南ヨーロッパで起こった一連の騒動に危機感を抱いたのは、隣国となっていたソビエト連邦であった。
軍事支援を行っていたルーマニアが敗北したことで、自国兵器の脆弱性が露呈し、今後の軍事作戦に懸念が生じた。そのため、ソビエト政府内では不安視する声が上がり始めていた。
折しも、数年前から続いていた大粛清によって、ベテランの軍関係者が相次いで失われ、軍の指揮能力が低下していた。
さらに、1940年に行われたフィンランドとの「冬戦争」では、国力がソビエトの10分の1以下とされるフィンランドに敗北した。
その結果、ソビエトは自国の軍事的な弱さを世界に露呈させてしまった。
ソビエトは、反ファシスト勢力の防波堤としての役割を果たすため、イギリスやアメリカなどに接近し、軍事支援の獲得や政治工作を推進するとともに、自国軍の再編を開始した。
しかし、先の戦争で敗北したばかりのイギリスは、大規模な支援を行うことができず、アメリカも中立宣言を理由に介入を見送っていた。
また、軍事面でも、共産党政府と軍関係者との軋轢は解消されず、そのまま軍の再編が進められた結果、指揮系統は歪なものとなっていった。
一方、ドイツ側もソビエトへの警戒を強めていた。北欧のスウェーデンやフィンランドとの協議を進めるとともに、ポーランドとドイツ本土の間に要塞線「ベルリンの壁」を建設し始めた。
そんな中、両国の緊張を緩和すべきだと進言したヨアヒム・フォン・リッベントロップは、両国の代表による会談を実現させようと奔走した。
その結果、1943年、ワルシャワにてドイツ側のアドルフ・ヒトラーとソビエト側のヨシフ・スターリンによる、奇跡ともいえる会談が実現した。
両者は、互いに戦争計画を胸の内に秘めながらも、世界平和を掲げ、笑顔で会談を行うことで、両国の融和ムードを演出することに成功した。
これにより、両国間の緊張が和らぐかと思われた。しかし、世界の流れはそれを許さなかった。
1943年、ヒトラーが国防軍や親衛隊などに指示して進めていたソビエトへの侵攻計画が、ワルシャワにいる工作員によってソビエト側に漏洩したのである。
事態を知ったソビエトは危機感を募らせ、直ちに国境地帯へ部隊を展開した。
もともと緊張状態にあった両国の関係は、この一件をきっかけに一気に悪化した。そして翌月、防衛線が建設途中だったポーランドへの電撃的な侵攻が開始された。
後に「地獄のユーラシア」とも呼ばれる、ドイツ・ソビエト戦争(欧亜大戰)の開戦であった。




