Ⅱ
それが故の僥倖なのだろうか。
机の上に無造作に置かれているのは、つくしがあんなに隠したがっていたあの青いノート。
細く明かりの差し込む教室の真ん中で、世界はつくしの机の方へと向き直る。これは、つくしの忘れ物だろうか。まだ何も悪いことなんてしていないのに、世界は右、左と辺りに誰もいないかを窺ってしまう。
誰も残っていない放課後に、探していたものが手の届く場所にあるだなんて。あまりにもお誂え向きなその状況は、都合が良すぎていっそ不安すら感じてしまうほど。
彼女は恐る恐るノートに手を伸ばす。そもそもそこで躊躇うような性格だからこそ、自分の隠したい秘密に彼女は気付いているのだろうかと、つくしのノートに書かれた内容が気になってしまうのだけど。
不思議なことに、そんな小心者ほど妙なところで楽観的なものだったりする。いや、悲観することをこの上なく忌避した結果だろうか。
きっとつくしは戻ってこないはずだと、縋るような気持ちで世界はそう自分に言い聞かせる。他人の忘れ物を盗み見るだなんてインモラルな姿をどうか誰にも見られないよう祈りながら物述世界は、息を飲む。
それは、やはり人体図か。つくしの羽根ペンで紙面に描き出された皮膚のない内臓と骨格とは、まるでオブラートを剥がした中にある赤裸々な本心のよう。無駄のないフォルムに纏まったその輪郭は、肉付けを行えばきっと少女ほどの形になるだろう。
事実その通りだ。ページをひとつ遡ればその肉塊はすべらかな皮膚に被われて、そこで初めてヒトとしての体裁と見目とを整える。更にもうひとつページをめくれば同じように、今度はこの学校のブレザーを。
たとえるならば一個の肉塊が一匹のヒトになって、一人の少女へと変わっていくかのよう。あるいはページの流れで言うならば逆で、いっそ解体と言ってしまった方が正しいのかもしれない。
そこから更にもうひとつページを戻した場所に描いてある、その少女の姿に至っては。耐えきれなくなった世界は歯をぎりりと、苦々しく目線を逸らした。ともあれ、ノートの中身は単に悪趣味な着せ替えの絵本のようにも見えてしまいそうだけれど。
またひとつページを遡る。
そこには寝ぼけ眼で鏡に映ったひどい顔だったり、退屈な授業中の油断したあくびだったり、堪えきれなかった笑いを隠そうとする姿、どうしても理解できない話題に巻き込まれたときの愛想笑い。そういったものが隙間もないくらいにびっしりと描かれたりしていて、であればむしろスケッチブックかあるいは自由帳だろうか。
またひとつページを遡る。
きっと誰にも見せることのないこのノートの、隅々までを埋め尽くす数え切れないほどの少女たちの輪郭。数多の彼女たちは目を伏せて、押し黙って、視線を逸らして、笑顔をひきつらせて、言葉を詰まらせている。そのどれを抜き出しても、砂を食むような心地のする瞬間ばかり。
そこに描かれている誰もが同じ顔と形をしていて、つまりは、その全てがたったひとりの少女を表しているということ。たとえば骨格も筋肉も五臓六腑も、表情振る舞いあるいは誰に見せることの出来ない秘めたる胸の内だって、その少女自身が知っているよりも確かな、彼女の全部がここに記してある。
世界は思った。このノートはまるで、その少女が隠そうとしてきたものばっかりが詰め込まれた、苦い想い出のアルバムのようだと。それともあるいは、ただひとりだけをもれなく解き明かした解体書だろうか。
果たしてそのノートは、世界で満ちていた。そこに描かれた数多の物述世界たちは目を伏せて、押し黙って、視線を逸らして、笑顔をひきつらせて、言葉を詰まらせている。そのどれを抜き出しても、頭上と背中とに見慣れたハリボテの天使の羽根と輪っかとが手作りの演劇よろしくついていて、今すぐにでも目を瞑って耳を塞ぎたくなってしまう。
だけど、ふと気になってしまう。彼女が一番最初に描いた世界の姿は、果たしてどんな形なのだろうかと。そうして躊躇いがちに開いた1ページ目の彼女は、むしろ困っているようにしか見えないような下手な作り笑いを浮かべている。
これがなんの瞬間を捉えて、何故このノートに描き残そうと思ち立ったのか、世界にはわからない。わからないけど、なんとなく嫌な感じだけが胸につっかえているような、そんな気がしている。もしかしたら、わかってしまいたくないって、それだけなのかもしれない。
ただ最初から、この不細工な天使のハリボテを彼女が背負っていたことだけは、この解剖書が憶えている。
世界が他の誰にも違和感を悟られないよう怯えながらの笑顔を作っていたことも、誰にも見えていないと思っていたそれに酷い劣等感を煽られていたことも。きっと天羽つくしは隠し事ばかりのその少女の、物述世界の胸の内を全て見ていたのだ。
ぱたん、と。微かに震えた指先でノートを閉じる。たとえ誰もいなかったとしても、ここが教室でよかった。そうでなければ、収集のつかない気持ちは今にも声になっていただろうから。そうしてひと呼吸、それからノートをつくしの机上、元あった場所に戻そうと手を伸ばして。
物述世界は、息を飲む。
それは微かな、風が吹けば簡単に掻き消されていただろうくらいの、本当に微かな声が聴こえた気がしたからだ。だから世界は喉をからからに、ぎこちない動作で教室の入り口へと振り向いた。
果たして、そこにいたのは天羽つくしその人だった。
大方、忘れ物に気付いたとかそう言う事情で。彼女は開いたドアに手を掛けたまま固まっていて、その目は大きく見開かれている。ノートを見られてしまったことは彼女にとって、それだけよろしくなかったのだろう。
互いに見詰めあったまま静止するふたりは、まるで鏡写し。その静けさでは、呼吸すらもが止まって聞こえる。
やがて我に返ったのは、つくしの方。彼女は「あっ」とか「わっ」とか、意味を持たない声を断続的に上げながら、慌ててノートを取り返そうと世界の方へと手を伸ばす。
けれど、足下に気を付けていなかったのは可哀想な不運だった。彼女は誰のものとも知れない机に足を引っ掛けて、ばたんと大きな音を立て倒れ込んだ。
そして静まり返った教室の中、彼女はいそいそとひとり立ち上がる。呆気にとられたままの世界の元までつかつかとぎこちない早足に、彼女からノートを取り上げた。
痛々しい。その様はなんとも滑稽で、仮にそれをしたのがつくしではなく世界であったならば、ノートの新たな1ページになっていただろうくらいには。
そんなふたり分の沈黙が痛い。たとえば吐息のひとつですら気まずく躊躇われるほどに。こんな時にどうすれば良いのかを知らない彼女は、だからどうすることだって出来ない、けど。
「あの」
世界のその難しい気持ちを写した声音の呼び掛けに、慌てて視線を上げたつくしに見えたのは、紙の上に記されたのと同じ顔。それは、きっと今のつくし自身も同じような表情をしているんだろうと思うような、ひどくぎこちないもの。
「……それ、私だよね」
どうして、と続くだろう問い掛け。彼女はノートとつくしの顔とを交互に見比べてはまだ何も理解出来ないでいるらしい。腹の辺りで組まれた指は落ち着かない様子で、これが綾糸ならぐちゃぐちゃに、きっと絡まっていただろう。
世界がおずおずとノートを差し出したから、そうしてつくしは我に返る。だって見られたのだ、世界に。彼女は今どんな気持ちなんだろう。最初のページからずっと、自分の惨めな姿とか醜い中身ばかりがありったけ詰め込まれていた気分は。
震える指から震える指へ。つくしは受け取ったそれを、葬り去ってしまいたい秘密をどこか遠い場所に沈めるように、鞄の中へと仕舞った。チャックの口を閉じる仕草は、まるで傷口を縫い合わせるかのように。
どうせもう手遅れなんだからいっそ開き直ってしまえばいいものを。居心地の悪さに背中を丸めて縮こまる姿を端から見れば、惨めとしか言いようがない。
「……もしかして、ずっと見えてたの?」
そう世界が言い終わると、つくしはいかにも気まずそうに目を伏せて、罰の悪い顔をした。どうにもならないことをもう、諦めるしかないときのような。
苦々しく顔をしかめたのは世界も同じ。ふたりきりの教室の中、机ひとつを挟んだ沈黙が続く。肯定なんてもっての他だけど、嘘をつけるほど器用でもなかったから。無言には真実味が乗っかってしまって、その分だけ空気は余計に重たくなった。
世界は微かに唇を噛み締めて、出来の悪い作り物の、自らの羽と輪っかとを恨めしげに睨み付ける。その表情はなんとなく、お前さえいなければと言っているようにも見えた。
そして、彼女は。世界は表情を弱気なそれから切り替えて、今の空気感に沿った適切な苦笑を作って、そのまま小首を傾げてつくしに言った。
「ごめん、変なこと訊いちゃったよね」
声音だけは朗らかそうで、だけど無理にそう取り繕っていだけだというのがあからさま見てとれる。痛々しくすら見える彼女のその姿は、まさにつくしが描いていたようなそれで。
世界は困ったような笑みを浮かべて、つくしへと背中と頭上のそれを向けて言う。
「これ、みんなには内緒にしておいてね」
安っぽい作り物の輪っかと、背中の羽根が弾んだ。それはあからさまに不自然で、悪し様に言えばみすぼらしくて、似合っていない。
きっとそれは、物述世界にとって羞恥そのものだった。
次回更新は18日18時です。




