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心移植/heart_to_heart  作者: 遠藤ほうり
物述世界
1/6

 天使が、世界を(ひら)いていた。

 細く明かりの差し込む、誰もいない教室の真ん中、列べた机にクロスを敷いたその上に、穏やかに眠る少女を整然と横たえて。楽しそうに、鼻歌なんか歌いながら。

 ふわりと握られた清潔なメスは、はだけた制服からこぼれる綺麗な肌のその上へと、たとえばふわふわのパンケーキを切り分けるように細くまっすぐな線を描いていく。

 だけれどそれはテーブルナイフか、あるいはメスかの違いでしかない。ただ、解剖に鼻唄は似合わないだろうけれど。

 天使は微笑みかけるように首を傾けて世界の中を覗き見る。それこそティータイムを分かち合うような、それともふたりの間を分かつ国境のような細い細い赤線を捲り上げて。

 一筋の光芒が差し込む教室の真ん中、列べた机をクロスで飾り立てた解剖台に、呼吸もなく眠る少女を整然と横たえて。楽しそうに、鼻歌なんか歌いながら。

 天使は横たえられたその少女の、物述世界(もののべせかい)の胸の内を覗き見ていた。



 それは、物述世界にとって羞恥そのものだった。

 休み時間の教室の、その大きな窓ガラスには世界自身の姿が映っている。触れれば琴の音が聴こえてきそうな長くて真っ直ぐな髪と、それに誰よりも笑顔が似合うだろう愛くるしい顔立ち。どこにでもある筈の学生服だって、まるで特別に仕立てたみたいに似合ってしまう。

 きっと彼女を知った誰も彼もが、物述世界を素敵な人だと思うだろう。だけど誰にもわからないだろう程度にだけ、彼女はなんだか疲れた表情をしていた。くりくりと大きな瞳は窓ガラスの自分を見詰めるばかり。それは制服でも綺麗な髪でもなくて、むしろその後ろにあるーー。

 何が切欠か、突然に物述世界は我に返る。目覚まし時計に叩き起こされた朝みたいに、心臓が痛むのを抑えながら目をぱちくりさせた。

 彼女が座っていたのはもちろん自分の席で、数人のクラスメイトがその周りに集まっている。授業の合間の僅かな時間に行われるそれは、十中八九他愛ない談笑で間違いはないのだろうけど。

「世界、どしたの?」

 そう問い掛けられたのを切欠にして、みんなが不思議そうな顔をして自分を見ていることに、少し遅れて世界は気付いた。だから彼女はにこりとありきたりな表情を作ってクラスメイトたちに両手を合わせてみせた。

「ごめんごめん、ちょっとボーッとしちゃってた」

 その愛想笑いの影で、世界はちらりと薄目を開ける。彼女を覗き込むクラスメイトたちの顔を、だけれど世界には見分けることが出来ない。

 物述世界には、クラスメイトたちが"クラスメイトたち"にしか見えないでいる。たとえばそれはもやが掛かったように、あるいは全てが同じにしか見えなかったり。きっと夜空に散らばる数多の星々を、正しく線で結べないのと同じこと。

「で、何の話だっけ?」

 世界はわざとらしくおどけて、とぼける。深刻そうに振る舞えばそれは深刻な問題となるけれど、軽く明るい態度であればむしろ、それは愛嬌になるから。

 クラスメイトたちは笑いながら答える。

「だから、ーーーーの話だってば」

 どうせ聞き取ることなんて出来ないと、世界は最初からわかっていたけれど。それでもあるいはと聞いてみたところで、結局はこうして落胆を積み重ねるだけ。知っていた通りに彼女は、重たい溜め息を胸の内に仕舞い込んだ。

 とりあえず愛想笑い。たとえ話がわからなくても、クラスメイトたちの顔がわからなくても、ただそれらしく振る舞っているしかない。

 他愛のない話に適切だろう笑い声で相槌を返しながら、だけれど世界はふと窓を見た。窓ガラスに映るのは、目前に広がるのと同じ賑やかな休み時間の教室の様子で。

 ただ、ひとつだけ。

 たとえばの話、不様で不恰好な偽物を抱えたまま、それでも何を憚るでもなく過ごすことなんて出来るだろうか。

 厚紙をセロハンテープで貼り合わせて、絵の具でベタベタと不器用に色を着けたような。手作りの演劇、それともお遊戯会の小道具みたいな背中の羽根。そして天使の輪っかのようなそれは、そのまま蛍光灯を浮かべているようで。

 あまりに不細工なそれさえ、世界の姿に映ってさえいなければ。彼女は苦しそうに顔を歪める。

 それは、物述世界にとって羞恥そのものだった。



 果たしていつからそれを背負うことになったのか、彼女は覚えていない。

 あからさま目立つだろうに、誰もそちらに視線を向けることがない辺り、もしかするとクラスメイトたちには見えていないのだろう。ただ他の誰も持ち得ないそれが自分にだけ存在するという事実は確かな重荷だった。

 そして誰かがそれに気付いているかもしれないなら、尚更。

 物述世界の真後ろの席に座る、俯きがちな少女。天羽(あまはね)つくしがそうだった。

 彼女はいつも机の上に青い装丁のノートを広げて羽根ペンを握り締めて、一体何をそんなに書くことがあるのか。ふと気になってそちらの方へと振り返れば、どうしてか目が合ってしまう。

 正しくは、見ているのは彼女の瞳ではなくて、世界の輪郭そのものを捉えようとする視線。大概は直ぐに目を逸らされてしまうけれど、天羽つくしはにきっと何かが見えている。

 それが物述世界には、堪らなく恐ろしかった。

「ねぇ、何書いてるの?」

 だから世界がつくしに直接問い掛けたのも、もはやその不安に耐えきれなかったからだ。端からは朗らかな様子でなんとなく話し掛けただけに見えるだろうけど、その実態のなんと切羽詰まったことか。

 それは、いつも通りのざわついた中休みのことだ。

 物述世界は能天気を装って、つくしが机に広げていたノートを覗き込む。

 慌ててそれを隠そうとした彼女の手からはペンが転がり落ちてしまって、思わずあっと声が漏れた。咄嗟に手を伸ばしたところで文字通り手遅れ。落ち行くそれを追い掛けようと立ち上がった身体は机にぶつかって、がたんと大きな音を鳴らした。

 教室がしんと静まり返る。雨音のようにざわめいていたクラスメイトたちは自分たちが何を話していたのかすら忘れて、その全員が中途半端な姿勢で固まるつくしへと視線を向けていた。

 物述世界もそんなクラスメイトたちと同じように固まっていたけれど、はたと我に返るや否や急いでペンを拾い上げる。そうしてその羽についた埃をぱたぱたと払い落として、つくしの元へとそれを返した。

 無言のままふたりを見ていたクラスメイトたちはそれで落着と納得したのか、言い方を変えれば興味を失くしたのか、みんなそれぞれの時間に戻っていく。だから水面に顔を出したように、世界は塊ほどの息を吸い込んだ。

 ごめんごめん、驚かせちゃった。なんて気遣いの言葉を笑顔と共につくしへと掛けた彼女こそ、その実最も恐々としていたのだろう。

 ペンを受け取ってつくしは、視線も合わせず小さく頭を下げた。彼女が両手で庇っていたから、結局ノートの中身は見えず仕舞いだったけど。

 それでも最初にちらりと見えたものを頼りに、世界はつくしに尋ねてみる。

「それって、解剖図?」

 "ず"のタイミングで小首を傾げてみせるような、そんな仕草を世界は好んで使う。ある種コミカルなそうした振る舞いを使うと、クラスメイトたちとのやり取りの中で自然体に見えるような気がするから。

 ノートに描かれていたのは若い女の、少女の人体だった。それは余計な衣服と肌とを丁寧に剥がして、誰にも見えないはずの内側を描いていた。

 いつも自分を見ているひとりのクラスメイトが描いているものだと思うと、気が気ではないけれど。

 ノートをぱたんと閉じて、つくしは机の中へと仕舞い込む。ずっと隠しているのもなんだか不自然だから。

 じゃあ、そんな見せられないようなものについて訊かれて、なんて答えればいいのだろう。つくしは気まずくなって、落ち着かない両手を擦り合わせる。

 その俯いたまま押し黙るつくしの姿を見てしまえば、世界もまた不安になってしまった。喉奥からは、う、と苦しそうな声が漏れる。

 だから世界は大きく開いた手で口許を覆って、わかっちゃったとばかりにキラリと輝く表情を作ってみせた。

「もしかして、将来はお医者さん?」

 言ってしまえば、仕切り直し。そのいかにも見映えの良い好奇の視線をずいと寄せてしまえば、物述世界の明るい人柄で気まずい空気を踏み倒してしまえないだろうかと。

 そんな努めて明るい調子につくしは気圧されてしまって、その勢いに小さく声が漏れてしまう。うまく纏まらない言葉の代わりになんとか首を左右に振ると、まず会話が続いたことで安心したのか、にこやかを装っていた世界の表情は少し和らいだ。

「それじゃあ漫画家!」

 だなんて、調子づいた世界がダメ押しするのとは裏腹に、つくしは視線が泳いでしまう。

 目を背けられることは即ち否定、むしろ拒絶の意思表示なのだと、物述世界はそう考える。何故なら自分がそうだから。

 きっと自分が犯したであろう間違いをなんとか挽回しようとして、まるでクイズでもしているみたいに顎に手を添え、首を傾げて、大袈裟な振る舞いで考え込んで見せた。たとえば何か失言をしたとして、気付かないふりをして誤魔化す方法しか、世界は知らなかった。

「あ、あの」

 だから聞き間違いを疑うようなか細い声が聞こえて、世界はびくんと身体を跳ねさせた。その戸惑いを仕舞い込んだ彼女は、急いで澄まし顔を整える。

 対するつくしは硬い表情で、何かを言おうとしてはやっぱり閉口したり、組んでいた指を落ち着きなく組み直してみたり。時折漏れ聞こえる不慣れで掠れた小さな呻き声は、彼女の拙い試行の名残だろう。

 やがて彼女はその無謀な挑戦を諦めて、ある種の落胆にも近い弱々しさで向こう側を指差した。彼女たちふたりの延長線上、世界の振り向いた先には教室の入り口で佇むクラスメイトたちの姿が。彼女たちは世界の名前を呼びながら、大きく手を振っている。

 世界は彼女たちと同じように手を振り返して、様子を伺うようにつくしの方を振り返る。困ったように眉根を寄せているのは、恐らくは自分から話し掛けた手前、折が悪いから。

「わ、私のことはいいので」

 行ってきてください、の部分は小さすぎてほとんど聞き取れなかったけど。

 そんな精一杯の勇気で以て言葉にされたつくしの提案を、悲しいかな、世界は軽く無下にすることなんて出来るはずもない。件のノートには何が描かれているのか、それを知らなければならないという焦燥感に後ろ髪を引かれながら、世界は苦く笑う。それから軽い謝罪をして、踵を返して。

「それじゃあ、またね」

 そんな世界の去り際の言葉は、まるでお上品なだけの、まるで駄々みたい。

次回更新は本日22時です。

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