◍ 鶴頭の渡し
「――やや、珍しいのが来たな」
煙管を咥えているへの字の口で、その船頭は独り言のように言った。
空が見えないわけではないが、周囲は薄暗い。良くそよぐはずの竹に囲まれているというのに、不自然なほどしんとしている。
時おり、魚のはねる水音や、大鳥の羽音がするくらいで、他に動物の気配はない。
鳥の正体は真鶴である。翼が青灰色で、頭ではなく目の周りが赤い。そいつらの憩いの場となっている池の岸に、四人乗れれば上等な小型の帆船を横付けしてある。その中に腰掛けていた。
初めて見るものは、池に帆掛け舟というこの光景を不思議がる。
「あんた、何処にも行かないんじゃなかったのかい」
やってきた皐月が旅姿であるため、越境を求めてきたことはすぐに分かったが、以前、暇つぶしの世間話に付き合わされた際、あまり外を出歩けない身の上だと聞かされた。だから、ろくに働きもせず、家に引きこもっていると。
ただ話し相手になるだけで、酒や煙草をくれるのは少々腑に落ちないと怪しんではいた。
角笠を目深にかぶった船頭は、面白そうに迎える。
皐月もあいさつ代わりか、口端をつり上げた。
「貢物の効力が発揮されるべき時が来たんだよ」
「ほらほら。な? 思ってた通り。タダほど高いものはねぇってな。まぁ、俺も分かってて受け取っちまったんだから、仕方ないね」
「いきなり刀の切っ先向けられて脅されるよりマシだろ」
「ふん。これだから善人に成りすました鬼ってのは、端から悪ぶってる奴よりタチが悪いのよ」
船頭は言葉とは裏腹に、好感を抱いていることが分かるよう、脂で黄ばんだ歯を見せて笑った。老いぼれだって、撃退できないわけじゃない。でも、懐柔された立場じゃ無視すらできない。
「あんた、なんにしろタダじゃ済まさない人だね。逆らったら痛い目に遭いそうだ。乗りな。ちなみに俺は、東から南にしか越境させてやれねぇがぁ…」
「分かってる。行先は華瓊楽国。なるべく王都に近い界口に出してくれ」
「あいよ」
皐月は船に乗り込みながら――、船頭の老爺は大儀そうに腰を上げながら答えた。
|
|
|
「鶴頭――、あんたは越境先からその異能を得て帰った時、すっかり変わり果てた故郷の様子や、誰も自分のことを知らない人間たちに接して……、何を思った? 残されたものは、その化粧箱だけだろ」
東扶桑と南壽星巉の間には、裏渡師が複数人存在する。
船頭――浦鶴頭は指摘された漆塗りの箱を開けた。螺鈿細工が施された美しいその中には、老爺に不釣り合いな化粧道具の他、釣り針、てぐす、喫煙の道具までごちゃごちゃに納めてある。
そぐわないものは他にもあり、傍らには飾り房付きの赤い組紐を巻いた苧環を置いている。
「そうさぁねぇ。お陰で、他人様の縁を繋ぎ止められる仙界の渡師にゃなれたがぁ……、むしろ随分な代償を支払わされた気分だったよ。考えてみりゃあ意図せぬ越境だったとはいえ、理を無視して何事も無かったように還れるわけがなかったんだ。どうしたって、何かしらのひずみは生まれる。一種の罰として必要だったと、そう解釈する外なかったが、あんたはどう思う」
皐月は舟のへりに頬杖をついた。
「さあ。この世には、白黒曖昧なことが沢山あるから」
「まったくだ。こりゃあ、俺の航海術が認められた証。南との貿易に一役買った勲章みたいなもんさ。あっちでそういう立ち回り方をしなきゃ、俺はただの不法海入異民で終わってたね。この化粧箱を褒美にもらえたから、今もこうして生きていられる。常世だった盤臺峰の岩石を含んだ、この白粉のお陰でな……」
神代崩壊後、四つの圏で再生した世界地盤の狭間には、解霊が渦巻くようになった。元来は八雲原によって下界に封じられていた瘴気を含む陰の力で、盤臺峰という雲上にいる限り、神々がこれに触れ、年を取ることはなかった。
「〝時で化ける霊〟とも書く。今や、俺らみたいな縁結びの脈持じゃなきゃ、この時化を避けた越境はできない。創造神並みに生命力が強い産霊神でも、単身じゃ無事では済まないのが普通だからねぇ」
語尾に力を込め、鶴頭は苧環から引き出した赤い組紐を放った。と、同時に、とりわけ大きな真鶴が風として翔け抜け、それを咥え取った。
鶴頭はすかさず、組紐を帆船の舳先に結び付ける。舟が真鶴に引かれて動きはじめるや、煙管をふかし、化粧箱の中の白粉に紫煙を吹き付けた。
見る見る紫煙が増殖し、沸き立つ雲霧に化けていく。
舟がそこから抜け出た時には、景色が一変していた。左右には切り立った崖と瀑布。眼下には雄大な石柱群。その岩肌に松の木がしがみついている。落差が天から地ほどあり、
「やあ! 今日も絶景だねぇ…!」
鶴頭の高揚した声が反響した。
滝のしぶきが、崖から枝垂れている花枝の御簾を吹き上げている。
白い大輪の花だ。東扶桑巉の象徴とされている仏桑花。長く突き出ている花芯の付け根が赤く、青々とした葉は桑に似ている。
小さな帆船が、そんな花の咲きそろう大渓谷の中で、黄褐色の帆をぱっと張った。
大真鶴に導かれ、谷底の海原へゆっくりと降下していく段階に入ると、いくらか落ち着いて、鶴頭は再び話し始めた。
「――ところであんた、一体何者なんだい。斎竹池に棲む中でも、あの鶴は滅多に反応しない化け物級だ。片翼だけでも一尺はある」
「〝類は共を呼ぶ〟……とだけ言っておこうかな」
「ようするに、同じ化け物だってか。俺と同じで、年取らない体か――?」
肩越しに顔を見せた鶴頭は、よく日焼けした健康的な青年になっていた。舵を操る手にも、声にも、瑞々しさと張りが蘇っている。
皐月は頬杖の陰で口端をつり上げた。
「上質な常磐と水源を保有する里に暮らしてはきたけど、三年に一度は時化霊の影響を受ける。〝真秀場〟と言われるほどの土地じゃない。俺はそれなりに時を刻む体だよ」
「そうかい。それじゃ、せいぜい舟から振り落とされねぇよう気ぃ付けな」
後方には二体の老松が連理の枝で成した円洞門があり、舟はそこから抜け出てきたと分かる。しばらくすると枝が勝手にうねって、それぞれ左右の懸崖に根差しているだけの、単なる松の巨木に戻った。
鶴頭は前方に向き直った。
「各世界樹の根が届かないところは解霊の底なし沼よ。地盤があるようで無い。あの漆黒下海に落ちたら、さすがの俺も助けられねぇかんな」
鶴頭が言う海は反射する光がないせいか、海面が分からず、大真鶴の翼の下に暗黒として広がっている。
皐月は同じような色の瞳で、迫ってくるそれをただ見つめていた。
◇ ◆ ◇
2022/08/14 投稿