◍ 黄金の大地に鉛色の雲
奉里たちが歩き始めた矢先、稲刈り中の農夫の一人が、痛くなった腰を伸ばしながら、不穏な物体を目にしていた。
「なんだありゃ……」
さも、異様だという口ぶりを聞き、周囲の者たちも顔を上げる。
隣で作業していた小太りの女が見たのは、あぜ道をやってくる奉里たちだった。
「何って、ただの旅人じゃないさ」
つまらない悪戯をされたと思い、亭主である農夫の尻を引っ叩く。
「違うッ! 上だよ…っ、上ッ!!」
空から得体の知れない生き物がやってくる。はじめは雨雲かと思ったが、それにしては世話しなく形を変える。いっそう騒ぎ立てる農夫を訝しみながらも、皆で寄り集まり、目を凝らした。
「ああ、本当だ」
「まさか蝗雲じゃないだろうな……」
華瓊楽国民のトラウマの一つ。八年前、砂漠化の進行前に北東で起こった干害は、ただの序章に過ぎなかった。水害、蝗害まで発生し、世界三大害すべてを食らう羽目になったが、近年は蝗が大量発生するような極端な異常気象はなく、なんであれ予兆を捉えれば、各地の土地公がすぐさま情報を共有することになっている。
「蝗にしては一匹が大きすぎるよ。ありゃ蝙蝠か、椋鳥の大群だろう」
近づいてくるにつれ、うねる竜を形作っている一つ一つが烏ほどの大きさに見えてきた。
「おおおおいッ!! 稲…っ、稲に敷物をかぶせろおおおーーーッ!!」
渓谷のような地形の奥には、自分たちが暮らす城邑がある。そこから走ってきたらしい誰かが、棚田の天辺まできて、息を切らしながら特大の声を発した。
「ありゃ蝗雲だああああああーーーッッッ!!!」
× × ×
「待て。様子が変わった」
奉里と仁華は、蒐の鋭い声に反応しておしゃべりを止めた。あらためて前を見ると、稲刈りをしていた農民たちが、いつの間にか蜘蛛の子を散らしたようになっている。
白鷺も次々に羽をばたつかせて飛び立つ。
棚田の上の方で警鐘が鳴り始めた。
「まさか…っ、襲撃!?」
奉里は比較的平穏な土地に育ったが、妖獣や盗賊によるそれを知らないわけではない。
すかさず右、左と首を振り向け、後ろを振り返って、奉里は愕然とした。現れた敵が想像と違いすぎた。
「な…っ」
見開いた目の中に、真っ青な空を縦断してくる、鉛色の竜巻が映り込む。
「なに…っ、あれ」
「こっちに来ますッ! 私たちも逃げましょう…っ!」
我に返った仁華が、奉里の腕をつかんだ。
走り出して間もなく、頭上が暗くなってきた。凄まじい羽音だ。どうやら蝗のようだが、化け物と言うべき大きさで、色が赤黒い。普通じゃない。
蒐は羽虫の雲に追いつかれる手前で、荷物を道の端に投げ捨てた。土煙を上げて体の向きを変え、立ちはだかる。
「蒐さん…ッ!」
振り返って叫ぶ奉里の腕をつかんだまま、仁華は問答無用で走り続ける。蒐のことが気にならないではないが、舌打ち一つ、むしろ速度を上げた。
棚田の上から、武器を持った男たちが次々と駆け下りてくる。女たちは子どもを抱えて、駆け上がっていく。助けられながらも、そこかしこで恐怖から悲鳴が上がり始めていた。
稲架に敷物をかぶせようとして上手くいかず、あきらめたり、あきらめきれず引き返す者もいる。
「あんたらッ! あのお兄さんは…っ!?」
途中の水車小屋に飛び入りさせてくれた老婆に、仁華は息を切らしながらも早口で答えた。
「問題ありませんッ。彼は花人です…ッ!」
「なんと…っ!」
驚嘆する老婆の後ろで、女たちが奇跡でも起こったかのように喜び合った。
傭兵集団を謳うその実力は言わずと知れており、仁華もよく分かっている。自分は奉里の護衛に徹すれば良い。
「ッて、奉里さまっ!?」
「仁華ちゃん…! ほら、あそこ見て!?」
水車小屋に入るや、窓に飛びついていた奉里が外を指し示す。風車を持った幼い女の子と、兄と思われる男の子が荷車の陰で身を寄せ合っている。とりあえず隠れたはいいが、妹が怖がってしまい、動くに動けない状況のようだ。ヤダヤダと首を横に振ってしがみつかれ、男の子は困惑している。
「誰も気づいてないみたい…! 助けに行かなくちゃッ!」
「ェエっ!?」
仁華は目を剥いた。
× × ×
「大炎星」
蝗の駆除といえば、秋の火祭り――。虫供養であろう。
蒐が勢いをつけ、両手を払うように広げると、あぜ道を火の粉が駆け抜けた。
次の瞬間には、炎の大玉を掲げていた。
「刹ッ!」
挨拶がわりの一発目が炸裂する。避難中、爆音に身をすくめながら振り返った村人たちは、炎に焼かれた化け蝗が、バタバタと田の中に降り注ぐのを見た。
田んぼ一枚分の距離を取り、すぐ後ろまで駆け付けた自衛団の男たちが叫ぶ。
「旅の人! あんた何者だッ!?」
「いや、そんなことより、助けてくれるのはありがたいが、稲に火が移ったら元も子もねぇッ」
そりゃそうだ。蒐は斬撃技に切り替えることにした。自分はすべての霊応を併せ持つ万将の紫眼だが、その最強と謳われる蓮家の花人を名乗ることは無い。近親には違いなくとも、血筋が判然としないのだ。現に弱い霊応がある。風霊にはあまり好かれている方ではないのだが……、
「そんなことも言ってられないか」
蒐は右足を一歩引き、姿勢を低くした。腰の右に手を添え、そこに隠形化させていた愛刀を顕現させる。
「起きろ須尽――、風渡伏…ッ!」
抜刀と同時に大鎌を払ったかのような風が放たれた。
「――――乱ッ!!」
◍【 護られる立場 】
「えいっ!」
ブシュうううううぅぅぅぅーーーー…ッッッ!!!
かわいい気合いの入れ方だったが、その一撃は齧り付こうとしてきた巨大蝗を一瞬でぶっ飛ばした。
体液をまき散らした地べたで、ピクピクしているデカ羽虫の凄惨な光景に、
「……。」
兄妹は口が開きっぱなしになった。スタっと着地した少女の背を見上げ、こちらも、化け物に違いないと思った。
今のは〝鬼殺蹴り〟――。いつか皐月が嫁に貰いたいなどと挨拶に来たら、親としてこれを喰らわせてやるんだッと、里の自衛団を鍛えている父が考案した必殺技。猛獣の撃退に応用できると考え、自分なりに修練を積んできた。
「さ…っ! 早く立って!」
振り返るや、奉里はそこでうずくまっている兄妹に手を伸ばした。
右腕で妹の童女を抱き上げ、左手で兄の少年の手を引こうとした時、「ああ…っ!」と身を乗り出した童女の視線の先に風車が落ちているのを見て、つい足を止めてしまった。
「お姉ちゃん…っ!」
少年が腰にしがみついてくる。枝分かれした化け蝗の一群が、こちら目がけて飛んできていた。
「奉里さま…ッ!!」
仁華が間に滑り込んだ。ここぞとばかり、携えてきた呑仙瓢の栓を抜き、強風の渦を巻き起こす。
「こおッのぉぉぉおおおおお…っッ!!」
腕が左右上下にぶれて、腹の前に据えることができない。自身まで吸い込まれそうな勢いだ。これはもう、荷物の収納や持ち運びに役立つ便利道具というより、兵器である。しかし、要朗に感謝しなければなるまい。想定外の使い方だが、お陰でこの危機を凌げそうだ。
「仁華ちゃん…っ!」
奉里は、瓢箪に突き立てられている仁華の両手の爪が、人間のそれではない長さ、鋭さになっていることに気づいた。まともに目を開けられないほどの風に髪を乱され、子供たちに覆いかぶさっている状態のまま動けないが、できれば仁華と共に瓢箪を押さえたかった。彼女の爪が割れ、血がにじんできている。
「大丈夫です…ッ! そもそも私は西原の余種、化け砂猫の脈持児! 人間とは体の造りが違うですよッ! 今回はただの絵師の助手じゃなくッ、花人の隣で戦える力を付けるために…っ」
戦闘力を鍛えるために、同行を決めたのだ――。蒐がなんと言おうと、筆頭様になんと言われようと
「私は自分の存在意義を高めたい…っ! だから、全力で奉里様の味方がしたいんですッ!!」
奉里は胸を打たれた感覚に、目を瞠った。
出立前、蒐は髪を切り、機動性に優れた旅姿を選んだ仁華に立腹していた。
彼女がどういうつもりか、見抜いていたのだ。
*――便乗させてもらおうかと思いまして
仁華には仁華の目的がある。だが、もしここで彼女の身に、取り返しのつかないことが起こったら――ッ
私は――…っ! 奉里はぎゅっと両瞼を閉じて作った闇の中で、最悪の想像に捕らわれた。




