◍ 田植え時期の来客「若っッ!」連呼
九天九地。
この世界すべての按主が、清廉潔白、公明正大、仁政を敷く賢君に置き換わる日は、おそらく来ないだろう。
竜氏と奉られる人間の統治者も稀に現れる世の中となったが、弱き者たちは、神代崩壊以前と変わらず、鬼神の高笑いに怯えながら暮らしている。
玻璃湾にて水難を起こす赤翠天羅刹。
丹原に地下帝国を広げようとしている好戦的な軍鬼神、塵洞修羅。
そして、豊穣を司る玄雲の水源と森を守りながら、人間に禍福をもたらすと慰撫されてきた萼国夜叉。
いずれも美しい鬼。
だが、恐ろしい鬼。
しかし、萼国夜叉は鬼ではなく、いつの間にか〝花人〟と名乗るようになった――。
◍【 どんなお話? 】
九天九地の真東――、蚕崕圏。
東扶桑巉、瀧髯界人原は巌砥国の辺境、八曽木の里。
「皐月ッ! ねぇ、皐月ってば!」
我が家にはその花人がいる。祖父が亡き祖母の名を与えた。
〝さ〟は苗のこと。
〝皐〟は水辺。または魂呼びを表す字。
〝月〟の意味は言うまでもないだろう。
季節がめぐり、例年通りやってきた農民にとっての繁忙期である。
庭先の椥の大樹下に机を仮設し、袖をたすき掛けにして、奉里はいざ仕事に取り掛かるつもりだった。
筆先から墨を垂らしつつ、彼を呼びに行く。
今年も水源にある蒼湶水師の祠が飾り立てられ、もうじき、田植えの魂呼び祭祀が開かれる予定だ。
祖母は若き頃、それを担った早乙女で、祖父曰く、田舎娘にしては大層美人だったそうな。
その美貌が話題になるたび、鬼との取り違え子ではないかと、祖父は照れ隠しに冗談を言ったが、あり得ない話ではない。
この世にはそもそも、人に似た姿形の、人でないものが沢山いる。
たとえ得体が知れなくても、人に交じって、真面目に働いて、立派な一家の大黒柱になだってなれないわけじゃない。
我が家の鬼はその点、人を脅かすことがない代わりに、極度の引きこもりであった。
彼には牙もなければ、尖った耳もない。艶やかな長い黒髪と、貴族の令嬢のような白魚の肌、そして鬼には珍しい黒曜石の瞳が特徴。
今日も無駄に美しく、しなやかな肢体を横たわらせ、懐の白猫を撫でている。
そして、聞こえないふりをしている。
「ちょっとッ、返時くらいしろ!」
やや虚弱なものの、体を病んでいるわけではないというのに、男が庭先で畑仕事一つしないのだから、文字通りのごくつぶしときた。
「若っッ!」
背を向け続けていた皐月の肩が、この呼びかけにはピクリと反応を示した。
我が家のごくつぶしが、実はとんでもない素性の鬼だったと知ったのは、つい最近の話。
花人ということは、かの世界三大鬼族――萼国夜叉であるわけだが、彼らから〝若〟と呼ばれる血筋とは初耳で……。
これは、ただ人一倍世話好き、かつ趣味が家事洗濯。
あと、ちょっぴりダメな男が気になってしまうだけの、ごく平凡な田舎巫女が、
花天月地を統べる鬼の王に嫁ぎ、立派な鬼嫁にされてしまうお話……。
「じゃないッ!」
2022/08/14 投稿