◍ とある酒席〝天網〟
「お……っ、お許しください…」
お許しを――と、震える喉の奥から必死に絞り出す訴えが、ここでは最期の言葉になってしまう。
毒々しいまでに赤い楼閣の吹き抜けに、酒杯が砕け散る音が響いた。それは一つの命が、無残に絶たれた音でもあった。
普通なら悲鳴が上がり、何事かと足音が集まってくるところだが、聞こえている琵琶の音色に変わりはない。何食わぬ風情で続く。
「どうです――?」
高殿が乱立する漆黒の水面に、灯りをにじませる個室が複数。それぞれ違う影を障子に映している。傍で何が起こっていようと、知らぬ存ぜぬと飲んだくれている影ばかりだが、ある一室は違った。
酒を口に含み、その男がにやりと覗かせる歯茎は、熟れた柘榴のようで他人を不快にさせる。痩身を外套で包んでおり、頭巾の中に光る目は爛々として、異様に吊り上がっている。
「見当たりませんか。〝彪将に似た少年〟とやらは……」
様子をうかがってくる彼に、対面で胡坐している男は無言を返す。柄物の一枚布をまとった姿で、膝上の銅鏡越しに別の場所の景色を見ていた。
李彌殷の地下にある〝紅桃港〟である。常闇の先に並ぶ煌々とした楼閣群を基点に、外国船や帆船が行き交っている。羽蟲たちもだ。得体のしれない大鳥から、燕のような小鳥の影まで、扁額を掲げた巨大な枝垂れ桃の拱門を出入りしている。
もちろん、南巉の世界樹として愛でられていた壽星桃ではない。あれは自分たち黒同舟が、生気を吸い取って枯らしてやった。
もっとも、止めを刺したのは伐採を決断、実行した蓮壬彪将飛叉弥――、彼と言っても良いが。
「あの方に似ているだけのただの少年が、わざわざ取りざたされるわけもありません。一体何者だと言うんでしょうねぇ。宗主さまから、他には何も聞いていないのですか? やづさ殿……」
ひとり明後日を向いている紅一点。女の同席者に注目が集まる。
萼から足抜きした時点で、彼女はもう、ただの野良夜叉。とはいえ、創造神の脈持として紫眼を有する華冑蓮家の令嬢という血筋だ。萼の面汚しとなった今も、その鋭い美貌、気高い気質に揺るぎはないのだった。
色白で肉付きが薄く、片胡坐をかいている姿勢でも分かるすらりとした高身長と、短い黒髪、左耳に光る金の垂れ飾りが特徴。
「気安く呼ぶな。馴れ馴れしい」
彼女に侮蔑されたのは、この酒席の覆面主催者である。まだ地上では動いておらず、時折こうして構成員を呼び集め、互いに有益な情報を共有したがる。
高貴な装いをしている反面、腰の低い男なので、威嚇しても挑発しても暖簾に腕押し。
「では、蓮晏殿ならよろしいか」
「その花銘は花神子から賜ったものだから捨てた。今は左蓮と名乗っていると教えただろう」
「そうでしたかな」
余裕で空とぼけられた左蓮は鼻で笑う。
「〝時守の主〟――、だったな。記憶力が悪いなら、あんたに情報を流すのは惜しい。金輪際、このような場には引きずり出さないでもらいたい」
「まぁまぁ、そう固いこと仰らず。同舟相救う、という我々の標語を忘れないでください? 利害関係の一致のみで成り立っている組織なんですから、互いの気に食わない部分は言いっこなしで…」
「相変わらずだな宋愷。一番の嫌われ者らしい台詞だ」
「うるさいですよ鵺。あなたと左蓮さんは、いい勝負だって言われてるの知ってます? 狸か狐か、いずれにしろ、他人を騙して裏切るのが得意だろうって……」
痩せぎす男――、宋愷は〝裏切る〟の部分だけ、わざとらしく吐き捨てるように言った。
銅鏡を覗いている男――、鵺は独特の引き笑いをしてはぐらかす。
その膝元にある鏡の中の光景が、うつり変わっていく。
飛び交う様々な羽蟲の中、港内では役人が積み荷を確かめている。
東扶桑の貿易船が入港したようだ。休んでいる鳥の群れには真鶴が多い。
東巉には鶴領峯という守蟲の山がある。そこから雇われた一群と見える。船首と繋がっている赤い紐を咥え、黄蘆染の三角旗を掲げている船団を続々と引き連れてくる。
役所の中は入国手続きをする人々でごった返していた。さすが、南巉最大の界口――、鬼が地上へ出るための鬼門である。人間以外の渡航者には、とりわけ時間をかけて厳しい目が向けられている。
「鳥のおおよそは、あの世とこの世を行き来しながら霊魂を導くものと言われていますが……、それにしても杜鵑に白鷺、隼まで。今日は随分と賑わっているようで」
「今宵が満月だからでしょう。各界の引きが強くなって上げ潮になる。大型船は座礁を心配する必要がなくなります。加えて、昼間の海風が止み、ちょうど夕凪の時刻。夜になれば陸からの向かい風が強まるので、今日中に入港するなら、今しかありません」
鵺は時守の考察に「なるほど」と返した。
「宗主さまは、少年の来訪を今日だと予言された。しかし、真正面から渡ってくるでしょうか。紅桃港を探しても無駄なんじゃないですかねぇ」
宋愷が胡散臭げにいうのは、港を探すよう指示したのが左蓮だからだ。
「とっくの昔に入国しているのでは――?」
南巉はかつての雲下最下層――、黄塵獄の地盤を含みすぎているが故に最も脆い。鬼門の数は把握しきれないほどあるが、常に世界樹の根やそれに準ずる霊木に修復され、悪しき者が突破しようとすれば絡めとられ、絞め殺されて終わり。壽星桃なき今も、その防衛機能は維持されている。彪将が調達した〝新世界樹〟とやらが、どこかで機能しているからだ。
「各地の按主らも、地中で巧みに合大木を成し、八年前のような不毛化の進行を阻止できる体勢を確立しました。〝城隍神の追加能力〟として――。彪将や壽星台閣が招くような人物なら、むしろ、その根を掻き分けて秘密裏に入国している可能性はないですか?
我々には到底、拓けない抜け道ですが……」
宋愷の自虐に、時守が同調を示す。
「ええ、敵ながら天晴れですよ、まったく。事に乗じて〝天網〟を地下に広げるとは。一石二鳥、いや、培返しでも人生訓にしているのやら。ただでは済まさないというか……」※【 天網恢恢疎にして漏らさず :天が張り巡らせた網。目が粗いようだが、悪人が逃れることは決してできない 】
破軍星神府――。
「まぁ、一番厄介なのは、あくまで独立している別組織と見せながら、入れ知恵をしていないわけがない〝某夜叉一族の王〟……、ですがね」
手強いと聞きます。ただ、十二年前――
「左蓮殿が足抜きした頃から、姿を見たものがいないようなのです。元来、公には滅多に現れない〝闇来殿の魔物〟と恐れられていたお方だそうですが……、何があったと思います――?」




