◍ 過去の汚点 神代世界樹を倒したのは……
× × ×
鬼女をただの乙女にする魔法の口づけが捧げられて数分が経った……。
「私は〝地鬼神の情婦〟って言われてきた鬼族なんだよッ!? ~~っ……こ、こんなんで。すすっ済まそうだなんてぇっ! んっもぉッ!」
かわいいな媚落阿。声があからさまに上ずっている。
瑃媚の独りくねくねがなかなか止まらず、嘉壱は暇つぶしに〝地鬼神〟についての記憶を掘り返す。
それは千年大戦で天兵に敗れ、滅びたか、あるいは塵洞修羅や赤翠天羅刹のように当代も自国を死守――、もしく、地下深くに落ち延びた元雲下の支配者たちのことである。
人間を奴隷として虐げてきた。ちなみに、天兵勢でありながら、萼国夜叉も〝花人〟と名を変える以前は、かなり恐れられていた。
王徳を有する人間を元首に据えるようになった今も、その本性は慰撫を要する鬼神に相違ない。王家華冑という桎梏の下から足抜きを図れば、たちまちにして無法者。元天兵の血筋とて、この化錯界では時を刻むにつれ、堕落するのである。
現に〝葎〟とは元来、王家から東天地峰の支配権を奪おうとして賊軍となり、野に落ち延びた反勢力の呼び名なのだ。
つまり、葎生まれは、この賊軍の末裔である可能性を孕んでいる――。
嘉壱はため息をつた。
某地鬼神が按主として君臨する地方都市に育ち、けれども、そいつに阿ることはなく、だからと言って善良に生きていたわけでもない自分が、今となっては鉄槌を下す側だ。肉親だろうが同士だろうが、掟破りとなれば粛清するのがこれまた掟。
青壺衙門の現鎮樹王将――菊嶋頭首に目をつけられなければ、弟分らと共に突っ張ったまま、どこで野垂れ死んでいてもおかしくなかった分際で、我ながら偉くなったもんだ。
瑃媚も叩けば埃が出てくる類と見える。
「なぁ、あんた。康狐仙がよく現れる場所に心当たりねぇか」
「康狐さま――?」
瑃媚はきょとんとして一泊後、噴き出し笑いをした。
「なんだ。単なる人探しのために上がり込んできたの?」
「蛇の道は蛇ってな。その辺の奴が知らない情報をくれるとありがたい」
そう言われても、と瑃媚は鼻から息をついた。
「あの方は、私なんかとは違うよ」
「そうか? 共通点が多いと思うけどな」
媚落阿は地鬼神に侍べた元神殿娼婦。神代崩壊以前から雲下にて勢力圏争いをしていた地鬼神らは、戦の前に闘鶏の如く、己の媚落阿同士を闘わせた。
〝媚〟とは、触角のような眉飾りをつけた巫女を表している字だ。
「確かに。私らはかつて生き残るために呪い合い、睨み合って闘う軍鶏みたいなもんだった。余興に使われて死ぬ。負けた側の媚落阿は怒り狂った主人の手で、皆殺しにされる運命。でも、天と地が混ざり合う千年大戦が起こったお陰で、一部は主人を失い、解放された。未だに飼われたままの媚落阿もいるけど、私の先祖は運がいい方だったみたい。日陰者とはいえ、人原に暮らしてきた」
瑃媚は鼻を突きあげる。
「私はここで満足してんのさ。八年前、例の火蛇神が組織した〝黒同舟〟が南世界樹をぶっ倒したせいで、あんたら花連が派遣されてきた。それから華瓊楽国は、より良く生まれ変わった。不謹慎かもしれないけどさ? この界隈に限っちゃ近年はむしろ、以前より居心地が良いくらいなんだよ」
お宅の隊長さんだって、こんなふうに思ってる奴もいると分かれば、少しは気分が晴れんじゃないの――?
瑃媚の話には実感がこもっていた。決して嫌味っぽくはない。
「大変だよねぇ、自分の元部下から、世界規模の破壊を目論むような超一級の犯罪者を出しちまったんだから。来た当初は神様仏様同然にもてはやされてたのに…、今じゃ共犯者扱い」
嘉壱は舌打ち気味に返す。
「――飛叉弥は無関係だ。〝あの女〟とはもう敵対関係でしかない」
「はいはい。そう怖い顔しないでったら」
皐月は聞きながら、毒々しいほど赤く厳つい怪魚に餌を与えている。娼婦の部屋まで来て、勝手に何やってんだこいつ……。と横目に呆れていた嘉壱だが、子供のように空気が読めない様子に見えて、やはり皐月は只者ではないのだった。
「水を差すようだけど、花人は〝生まれながらの罪人〟なんだよ」
「あッ?」
「黒く染まり切らないために、常に白くなろうとする努力が欠かせない。それは元来、白だとしても同じ」
時と、出会いと、環境でこの世のものは色を変える。
「黒同舟の所業は大したことない」
「何言ってんだお前」
瑃媚より遥かに不謹慎なことを平然と言うな。嘉壱は声にどすを利かせた。
「黒同舟が枯らしのはただの巨木じゃないッ。八年前ッ、壽星桃が倒れる前後に、この世界でどんだけの災害が起こったと思ってんだ。どんだけの死人が出たと思ってるッ」
「元祖世界樹を葬って神代を崩壊させたのは、どこの誰の先祖だと思ってる――?」
「っ…、それは」
「黒同舟は、ちんけな〝萼国夜叉の模倣犯〟に過ぎない。さっさと潰せ――」
手についた餌を軽くはたき落としながら言う皐月の声は、低くも高くもない。ただ、塵を息で吹くような涼しい余韻だけを残した。
「瑃媚さん、康黛紅狐仙が〝悪しき囁き〟――、障礙神であったことは知っているだろう。南世界樹の先代天壇按主、胡碧火も、元は人原に大火をもたらして喜んでいた邪狐と聞いている。でも、先入観ってもんには意味がないと思ってくれ」
皐月はこう話し出すや、一気に本題へと舵を切る。
「康狐仙はなぜ、姉と慕った彼女の後釜に就くことを拒んだ――? 今、どこで何をしているか、予想してくれるだけでもいい。せっかくだから、何かしらの収穫を得て帰りたい」
「生憎だけど、教えてやれるとすれば、そういうことは、青洞中か旧瓔珞院の妓女に聞いたほうが早いってことくらいだね。あの方は善狐になりきれていないとはいえ、さすがに煬闇にまで男漁りに行っているとは思えないし…」
「あぶやみ……?」
「華瓊楽でいう、塵洞や赤黒天みたいなもんさ。破軍星神府も下手に手出しできない地鬼神が潜んでる魔窟。按主が誰なのか、居るのか居ないのかすら定かじゃない結構ヤバめな地下迷宮。――なに? 花人のくせに知らないわけ?」
瑃媚は両目を弓なりに細め、ここぞとばかり皐月に絡みついた。見た目のわりに大人なようで、やはりどこか抜けている。まったく隙のない男よりも好ましいと思った。年下も嫌いじゃない。
「私でよければ、線香が燃え尽きるまではいくらでも付き合ってあげる。他に知りたいことはない――?」
皐月は自嘲気味に少し笑った。
「気持ちだけでもありがたいよ。俺、実は色々と忘れてるんだ。ヤバい世界のことも…」
〝昔の自分〟のことも――。




