◍ 前奥王と忠臣
緑の鬣に白い獅子のような、蛙のような顔。ものを閉じ込め、自身も巻貝などに籠る性質がある。
椒図は先ほどの鬼門にも憑いていた。単なる扉の意匠として付いていることは稀ではないが、こいつは竜が産む〝竜生九子〟の一匹だ。この手の本物が門番を務めているのは、世界中の王宮の中でも龍神信仰国のごく一部に限られる。
椒図が承認しなければ、重要な場所には勝手に出入りできない。宝物の出し入れも無論。
「いかがなさいました?」
「いや」
大國は意を決して、握り輪をつかんだまま押した。
重厚な紫檀に精緻な吉祥果の彫刻が施された扉。その向こう側には、いつ何処で見ても尊厳を損なわない黒い大旗が掲げられている。
中心に鬼門と同じ花模様、萼采が金銀糸で刺繍された国旗である。
奥には緑豊かな中庭。手前には格調高い執務机と椅子、巨大な四曲衝立。天井からは黒い帯状の帷帳が数本垂らされ、相変わらずその周囲には書類が山積みになっていた。
ここも奥王の執務場所の一つ。大星聚林殿という本格的な仕事場だ。部下らが報告書をまとめる執香殿に挟まれた空間で、今日も何やら頭を悩ませている誰かの捨て鉢な声が聞こえてくる。
様子をうかがってやりたいところだが、今は余裕がない。気づかれぬうちに、さっさと過ぎ去らせてもらおう。
大國は闊歩しながら軽い花旋風を起こし、野守の軍服姿に転現した。僧侶のような格好は、人原に紛れている時の変装である。
萼の場合、表立って軍事援助を施す夜覇王樹壺の花人は夜深藍、闇黒壺衙門の花人は漆黒を基調とした軍服を着込む。
うだつの上がらぬ平の軍服は、なんの変哲もない交領で、大國もこの意匠だが、丈が長く裾が広がっているのは上官の特徴と同じ。見た目が四、五十の中堅など、おおそよこんなもんだ。
ちなみに、装飾等の兵科色は所属の庭や、七彩目によって細分化されている。赤い火籠玉を一つだけ右耳に光らせ、大國は中庭に向かって開放された払雲殿にたどり着いた。
払雲殿にも執務のための調度がそろっているが、ここは人が行き交う場所ではなく、応接間や書斎に近い。
ゴツっ、と固いものが机に置かれる音がした。
「――おぉ、大國。久しぶりだな」
西北の茶器には蔓のような取っ手が付いている。そこに指を通し、静かに皿の上に器を下ろすのが正しい扱いだが、この野蛮人には関係ないのだった。
東南の花鳥柄が美しい金縁のそれをぞんざいに扱い、我が物顔で過ごしていた〝前奥王〟が歯を見せて笑った。
蓮珠貴京陣嶺――。
ざんばらの黒髪を結い上げ、左目に黒い眼帯をしている。右目は宵闇の灰色がかった青紫。健康的な素肌に黒衣をまとった破落戸のような格好の上に、丈の長い鈍色の軍服を羽織っている。
漆黒でない理由は、あくまで一度〝隠居〟している身だから。しかし、立ち襟を左右に開き見せるその意匠は、紛れもない鎮樹王将級のものだ。
普段は玉置や浪師と呼ばれている。
「探しましたぞ。何故こんなところに…」
「お前を待っていたのだ」
「は…?」
「俺に報告することがあるだろう――」
椅子にふんぞり返っていた体を起こし、机に身を乗り出すように腕をつく。
その口元は面白そうに笑っている。
目見よい男だが、貴京は王家華冑の公子にはない野性味を帯びて育った。勘も鋭い。
「どうして知っているんです?」
隠し立てするつもりはなかったが、大國はここに来るまでに嫌な汗をかいていた自分をつくずく愚かと思った。
「お前がまだ知らぬことも知っている。お前はむしろ情報をつかむのが遅い」
いや、そっちが速すぎだろ。と、内心で突っ込みつつ大國はハゲ頭を下げる。
「申し訳ございません。若がお一人で南巉へ……。至急〝影の者〟を向かわせたく、高筍か…冉――いや、時雨のあたりでも良いので、手が空いていないかと」
「心配ない。もうすぐ、うってつけの者が向かう」
「うってつけの者――?」
首を刎ねられる想像までして、つくづく損をしたと思う大國である。
貴京とは、皐月を失うまいと手を尽くす苦労を分かち合ってきた。兄に当たる飛叉弥も、当然ながらその一人。
ただ、皐月は守られるのが大大大…だいッっ嫌いなタチなのだ。ゆえに、口を利いてもらえなくなっても、足蹴にされても、むしろ快感を覚える奴悦蒸くらいしか側近に付けない。括弧、頭の中に「お前と一緒にするなッ」と突っ込んでくる声がいくつかあるが無視する。
当の皐月もひとのことを言えず(彼の場合はただ質が悪いだけだが)、毛嫌いされればされるほど執拗に絡んでいくため、痛い目を見てきた。それでも決して、つるむことをあきらめないのだ。
そんな性格だからこそ、今も愛くるしい。萼の担い手として、生涯を捧げようと思うのである。
せっかく大樹と仰げる王君を得て、それに見合う支柱になりかけていたのに、彼の力になろうとする娘を遠ざけたのは、指摘された以上に言いにくいことが本当の理由だったからだ。父親なのに、娘の覚悟が信用できなかった。
〝現役の奥王〟の失踪など前代未聞――。一時は暗殺で処理されかけたこの案件は、昨日今日、忠誠を誓ったような青二才の歯が立つ次元にない。闇黒壺衙門の花人――、通称奥座衆。その闇の一部となって云十年のオヤジたちを、舐めてもらっては困る。
「若は元来、この庭の鎮樹大花であられたお方です。なのに、影の者たち※【手足から選抜される奥王の懐刀】すら、ほとんどが存命であることを知らない。一体どこの誰を手足に当てようと…」
「ついさっき、射曾の袁勝から知らせを受けた。適任者のもとへは、すでに使者が向かっている」
「使者ですと……?」
ますます解せぬ。なぜ射曾猿の長老神から、そんな報告がもたらされるのか。訝しげな大國の眼差しを笑って、貴京は机に備え付けの棚から巻物を一巻、手に取った。
「とりあえず、今は奥王代理である俺がお前にこれを預ける。さっき、文匣房※【金品・機密文書などの隠し小部屋】から引っ張り出した」
唐草模様入りの薄茶の布地に、鶯色の巻き緒が付いていて、正確には掛け軸であった。
「これは……」
広げ見た大國は目を瞠った。一級の山水画だ。
「蒐の作品ではありませんか」
「皐月がこつこつ買い取って、椒図に保管させてきたものの一つだ。南から帰ったら渡してくれ。〝そこ〟に来いと伝えて――」
一見した限り、かなりの山奥。女性的な細い滝が落ちている崖の手前に、お堂のような建物が描かれている。
「まぁ、どうせすぐには無理だろう。せっかくだから、気が済むまで飛叉弥をなじり倒して、久々の喧嘩を思う存分楽しませてやればいい。一度始まると止まらん」
「……いや、どこかで誰かが止めないとマズいでしょう。下手したら周囲が焦土と化しますぞ」
「ハッハッハ! それもまた一興」
笑い事で済まそうとするところがさすが。あの二人を鍛え抜いた師であり、育ての親の一人。
大國はこの男が、可愛い子に一人旅をさせたくらいで、慌てふためくわけがなかったことを思い出した。むしろ崖から突き落としてきたことを……。
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