◍ 報告に帰って
玄雲圏――北紫薇巉には、大別して四つの領域がある。
侵略によって巨大化した西側の螺宰帝国。その進撃を阻む蔵不磨王国以下東側諸国と、二大国に翻弄される北山脈寄りの牝瀾公国を合わせた臺霆界人原。
そして、南平野の非武装中立地帯。ここに建造物は一切なく、蜿蜒たる川と青草の絨毯が続いている。
この南平原はかつて、千年大戦の舞台となった古戦場の一つである。
時に、真秀場とは、時化霊の〝瀞〟が生ずる地を示し、蔵不磨の奥深く、東天地峰が天然のこれに当たる。
萼崟境という巨大な渓谷を舟で遡るにつれ、世界は変わっていく。
天高く左右に切り立つ幾重もの断崖と、幻想的な翠霞に守られたそこは、まさに飛天が花を散らして舞う神界への入り口と見せて、来訪者をことごとく居竦ませてきた。
古より、この地を守り継いできた民を〝花人〟と言うが、彼らは男女とも容姿端麗ながら、敵襲となると好戦的で、皆一斉に虎豹の咆哮を上げる。
今や国家規模の大要塞と化した花人の棲み処も、かつては天花園と謳われる楽園であった。
彼らの城邑を見守ってきた語り部たち曰く、すべては欲深い人間たちが、天花園をその主である花神から、奪い取ろうとしたことに始まったという――。
◍【 闇黒壺衙門 】
「お父様! 早く早く!」
「ハハ。こら、待ちなさい。走ると危ないぞ?」
大國はとある赤い門扉越しに、通行人の声を聞いていた。〝鬼門〟と言う。その名の通り、鬼が出入りする特殊な門である。
左右の扉を閉ざすと、描かれている花紋様が合わさる。そこに今、閂をかけているところだ。
「お父様……、か」
自分にも娘がいる。亡き妻の貴重な血を引く一人娘。放蕩ぶりが凄まじいわりに、背を預ける相手がいないほどの女傑に育った。
もともと親子仲は良くなかったが、彼女が唯一認めていた〝ある男〟が窮地に陥った際、助けようとするのを阻んだことをきっかけに、いっそう険悪となってしまった。
その男は今、〝皐月〟と名を変えている。彼のことは、自分がなんとかすると誓った。
*――だからお前は関わるんじゃない…ッ!
*――とか言って、親父もいざとなったらあいつを裏切るつもりだろ。
私の中の母様……、榴家の血が惜しい。
だから私を守ることを優先する。昔からそうだッ
さすがに紅潮するほどカッとなった。
あれから十年以上経つが、未だに顔を合わすかもしれないと思うと、ため息がもれしてしまう。
閂をかけ終えると同時、横に延びていた塀が戸板一枚ずつの間隔でひっくり返っていき、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
門扉の隙間から目に刺さってきた青白い発光が治まると、大國は同じ花紋様の銅板がはめ込まれた壁に向き合っていた。まったく別の場所にいた。
「――あら、大國さま。お帰りなさいませ」
野守の花人も、基本はここ、闇黒壺衙門の所属である。ゆえに顔を出せば「お帰り」と迎えられる。それが筋だと、城主の奥王が習わしにした。
芭蕉林の緑がまぶしい神殿の中庭を背に微笑みかけてきたのは、白鷺を思わせる神官の格好をした手弱女。常葉臣章仔娜。現奥王の衣服を司る。
と言っても、肝心の奥王が不在なので、ここ数年の奥庭での主な務めは、その所持品管理。ようするに埃払いだ。もともと秘書のようなものだった。
「珍しいですね。お嬢様に鉢合わせしたくないからと、奥を訪れることは滅多にございませんのに」
「そんな理由で渋っている場合ではなくなった。章仔娜、玉置さまは何処におられる? 桂廓※【隠居らとその世話係たちの居所】にはいないと聞いた。大至急、報告せねばならんことができたのだが…」
「払雲殿※【奥王の執務場所の一つ】にいらっしゃいます。何やら人待ち顔をしておられましたよ?」
〝玉置さま〟は大國と同じ野守、その統括役という立場にある。
蓮家の生まれながら、わけあって葎育ち。そこから英雄と称えられる数々の偉業を成し遂げ、三十半ばにして、すでに神格化されている正真正銘の生ける伝説だ。
現在は地方担当の一野守に過ぎないものの、〝前奥王〟とあって、大國を顎で使うことはもちろん、様々な権限を有する。
なにせ、竜氏と謳われた先代花神子の擁立者。つまり、当代の平和の礎は彼によって築かれたと言っても過言ではない――。
挨拶早々、章仔娜と別れた大國は、装飾的な拱門が連なる柱廊を行く。
せっかく早足でたどりついた扉の前で、しばし静止。ともすれば首が飛ぶかもしれないと、思わずその瞬間を想像してしまったからだ。
玉置さまにとっては皐月がもう一人の自分であり、我が子のようなもの――。
手の平の嫌な汗と一緒に、扉の握り輪をつかむ。
「鬼薊大國さま。どうぞ、鍵は掛かっておりません。お入り下さい」
輪を咥えている獅子に似た金装飾が変色し、目を開けて喋った。
〝椒図〟という番神の一柱だ。




