◍ 玄雲圏 羽蟲の巣箱と不思議な卵
話には聞いたことがある。
そこには白猿の守り神が棲んでいて、叢雲のように咲き誇る紫薇花の花枝を揺すり、登って来ようとする悪い者を落とすのだと。
北巉を丸ごと抱えている世界樹の一柱なだけあり、その木の樹冠は大陸の面積に匹敵し、孤を描くように広がっている。
だが、最大の特徴は底面にぶら下がっている〝逆さ木〟であるという点だ。別名を〝天梯〟という四大世界樹の中で、まさしくそう呼ぶにふさわしい形を成しているのだった。
漆黒下海にて、もっとも時化霊の浸食を受ける塵界に等しい南壽星巉に対し、盤臺峰の山岩を多く引き寄せて再生したため、当代においても神代種の生き残りが多い浮遊世界。
ゆえに、北紫薇巉は〝雲上の真秀場〟と謳われている――。
「包包さまと紋紋さまにも、何か縁を示すものを貰ってくるんだったかなぁ」
奉里は目の前から頭上に向かう蔦のような、根のようなものを見上げ、くいくいと引っ張ってみていた。巨大な段差を作っている岩場を、この植物伝いに一段ずつよじ登っているところだ。
途中で白猿が現れ、邪魔だてされたら転落死は免れない。土下座もできぬ状況で、不法雲入異民とは違う対応を求めるには、一応、裏渡しの中でも由緒正しい部類の力を借りたことを打ち明け、同じ神代種族であろう夫婦蚕の名を出す以外、今は乗り切る術がない気がする。
*――あぃッぎゃあああああーーーっっっ!!
案の定――、というより、ある悪出来事発生でブチ切れた玉綱につかまり、絶叫。命からがら、蚕崖の北側に越境を果たしたばかりだというのに、この上、キーキーうるさい猿軍団に投石でも食らったらどうしてくれよう。
「お世話してきた神様じゃないからな〜。正当防衛でも、殴ったりしたらマズいよね。包包さまみたいには許してくれないだろうし……」
奉里は言いながら、懐の中に潜めてきたものを取り出して見つめた。
鮮やかな青い卵――。
蚕姫に持たされたお守りの類ではない。少し前、大天屏峪の越境中、手に入れたものだ。
* * *
◍【 天女・薬尼の教え 】
包包と紋紋が成した吊り橋は、大天屏峪の狭間に点在する浮き岩の杜を経由し、霧の中で枝分かれしていた。
杜の中には無人の社があり、ここを羽蟲たちが一時的な宿にしている。渡り鳥や蝶はもちろん、翼がある鬼魅も五蟲あるうちの〝羽蟲〟に数えるため、時には名もなき、得体の知れぬものが休んでいることもある。
羽蟲の楽園と雲上の秀場の界境なだけあり、これらの巣箱を管理しているのは飛天の一族、〝薬尼〟だ。
彼女たちは楽器よりも薬学に精通した飛行女人の一種。東扶桑の西海、大天屏峪の最南端――、男子禁制の女護ヶ島にて共同生活をしている尼僧のような体裁の反面、蚕姫と賭け札などの博打遊びをたしなむ者もいる……。
*――そういえば、萼に嫁いだ薬尼もいたよ? 確か
いつだったか、蚕姫を「大姐さま」と慕う鄒欣尼姐さんが、札を切りながら教えてくれた。
奉里が「北に行ったことがあるか」と尋ねたためだ。飛天とて越境は容易ではない。大天屏峪には様々な危険がひそんでいるのだから。
*――私は直接行ったことはないけど。聞いたよ~?
奉里、あんたも花人の嫁になるかもしれないんだって?
*――えっ…!?
さすが〝飛び回る噂話〟……。どこで耳に入れたか知らないが、薬尼の情報拡散力を思い知らされた奉里は全力で否定した。
東扶桑には、龍神信仰派の民族を毛嫌いする者がいる。居候のダメ鬼が、花鬼の類であるということは伏せてこなかったが、玄静と話し合い、萼国夜叉の花人だと判明したことは広めないでおくと決めたばかりだった。
以前、八曽木の里へ立ち寄った行商人の話によると、世界三大鬼国の軍事力、その壮大な城郭都市、まさに神業といえる大要塞の複雑な構築技術を目の当たりにして、交渉の主導権を握れる国など無いに等しいらしい。そんな相手のもとへ嫁いだ薬尼がいるだなんて――……。
できれば詳しく聞き出したかったが、何が皐月の平穏な日々を乱すことになるか分からなかった。誤解だと解き伏せると、鄒欣は「そうだ」と手を打つや、黒い天衣をひらめかせ、大天屏峪に点在する浮き岩群へ連れ出してくれた。
そして、白木の小社の中のものを見せてくれた。少年が秘密基地に好むような空間で、岩場に三角屋根を設置した形のそこには、注連縄と飴色の羽毛が残されていた。
*――ご存じ、巌砥国自慢の名産品。
都の大君様に献上されるほど、上質な布団になる…
*――千代鴨の羽毛…! すごーい! フワフワだぁ!
母鳥は抜き取った自分のそれを雲のように集め、ひなが孵るまで懸命に保湿、保温する。薬尼は外敵を寄せ付けない小社を造り、管理する代わりに、用済みとなった羽毛を頂戴して、各地の職人に売るのだ。
蚕崖のものを採取できるのは薬尼くらいなので、ほぼ確実に入手できる。
*――商売相手には色々いるけど、けっこう重宝してもらえてるんだよねぇ
*――もしかして……萼にも?
*――そ。花人の国は軍事力だけで、
鬼国の三頂点に君臨してきたわけじゃないんだよ。
国力ってのは〝交渉材料〟が豊富なほど強い。
人原の各国だってそう。
生産力、ひいては財力も立派な武器!
あともう一つ、重要なのが情報を駆使する能力。この三つが物を言う世の中なのだ。
*――だから薬尼は案外、萼と相性がいいの。
一個人が真似できない話じゃないし、奉里、あんたも覚えておきな。
〝これ〟を採取するのは一人じゃ無理だろうけど、
知識と芸は身を助けるからね?
そう得意げに言って、鄒欣が羽毛の中から手に取ったのは、千代鴨が孵るようには見えない神秘的な色をした卵だった。
* * *
*――あったぁ! 〝青莱鳥の卵〟…!
探索した二つ目の浮き洲で、奉里はそれと再会した。
包包と紋紋はまさに蜘蛛の巣を放ったに近く、あみだくじの比較的早い段階で、こいつが産み落とされている場所を引き当てられたのは運が良いと思う。
鄒欣の話によれば、大天屏峪で見つかるほとんどの中身は空っぽ。初産だったり、年老いた雌鳥が産み落とす無黄卵に似た代物で、神々がこれを好むらしい。
ちなみに、最初に到達した浮き小島では、八重菱揚羽の鱗粉を採取済みだ。大社の中にびっちりと貼り付き、休んでいたところを、申し訳ないと思いつつ捕まえ、手巾の中に入れて羽ばたかせた。
少量で良質な顔料になるのだ。貝殻を原料とする胡粉に似たきらめきがあり、ある種の呪力を持った作品を仕上げることができるため、いわゆる〝畵僊〟として創作活動をしている絵師や書道家の間では有名な代物。
これから会いに行く〝蒐〟という花人は、一応まだ現役の軍人でありながら、この畵僊を商売にしているらしい。交渉手段は豊富、かつ魅力的であるに越したことはない――。
*――鄒欣姐さんの教えを活かせる日が、
こんなにも早く訪れるなんて……
喜ばしいような、怪しいような……、自分の運命の歯車が、おかしくなりはじめている気がするのだが、心配ご無用だろうか。旅の出だしは順調といえた。
しかし、どうやら三つ目で橋の選択を間違えたらしい。谷を渡り切った先にいる白猿の神に献上しようと思い、青莱鳥の卵を入手したわけだが、その手前で予想だにしないものに襲われることになった――。




