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「今日は休んだ方がいいんじゃないか?」


 改めてお出かけ用の私服姿になり、その上からレインコートを羽織( はお )っているリサは塾の教材を詰め込んだ( かばん )を抱えて玄関に立っていたのだが、そんな彼女を引き留めようと俺は声をかけた。外は下校途中よりも雨風がより強くなっており、このまま出かけては危ない気がした。


「本当に塾からは休校の連絡来てないのか?」


 リサはスマホにチラリと目配せをすると


「きてないね」


と元気なさげに返答がくる。今日は行く気分ではないはなのに、( おもむ )こうとする( あた )り、義務感で動かされているのだろうか?その姿がなんとなく痛々しく思えてきて、塾というのは通う者を( しば )る何かしらの箱庭ではないかと感じてしまう。


「それじゃ、行ってくるね」


 リサの言葉に行ってらっしゃい以外のことを言うことはできなかった。


 玄関先から姿を消しドアが閉じたところで鍵をかけた。


 見送ってしまった以上、帰ってくるまで彼女に何かしてあげられるようなことはない。


 夕飯の準備をと思って冷蔵庫の中身を確認する。チルド室に鶏もも肉が二枚入っているのを確認する。二つのサラダボウルにそれぞれ詰め込まれた白菜の漬物とカブの漬物の残りを確認する。あとは冷蔵されているお豆腐が何丁かと冷蔵保存が必要なケチャップなどの調味料。野菜室を開くとキャベツ、白菜、大根、玉ねぎを見つけた。


 ヴァリエーションを問わなければとりあえずの料理は提供できそうだ。鍋料理にして食材を混ぜるか、別々のお皿で提供するか。


 時計を見れば午後五時。いつものように七時くらいから下ごしらえを始めようと思っていたので、まだ時間あるなと感じる。二時間空きがある。その間に予習復習でもやろうかと思ったけれども、ふとリサとのやりとりが頭に( よぎ )り、テレビをつけた。


 どの番組も今接近している台風を取り上げている。九州から上陸した台風はすでに関西を通っており、強風域の先端は岐阜県や愛知県にかかっていた。台風は海の上を通る時はまるで全てのエネルギーを吸収しているかのようにゆっくりと移動するが、いざ上陸するとまるでタイミングを見計らっていたかのように移動スピードが速くなる。どうもその理由は偏西風に乗せられたかららしい。だが、気になるのは移動スピードがどれくらい上がるかだ。数時間もあれば関東圏にぶつかるのではないか?リサの塾の授業は六時から始まり九時に終わる。九時ごろには近所にまで届いているのかどうか気になりながらテレビを見るが、どのニュースキャスターも天気予報士もはっきりと断言してくれなかった。時々出てくる予報円は台風の目のおおよその位置と暴風域のおおよその範囲を示してはいるが、強風域がどのあたりまでかかりそうなのかについては表してはくれなかった。


 ふと画面の上部に速報が流れた。大きな河川のいくつかが氾濫危険水域に達したそうで、いくつかの路線が運転見合わせになっているらしい。そういえば最寄りの路線も途中で大きな河川を横切っていたはずと思い、( しばら )くニュースを見ていると、運転を見合わせた路線の中に学校の登下校に使い、リサが通塾に使っている電車も含まれていた。


 慌てて二階へと駆け上がり、スマートフォンを探す。数件しか入っていない電話帳の中からリサの名前をすぐさま見つけ、電話をかけた。そろそろ駅に辿( たど )り着いている頃合いだ。


 呼び出し音が暫く鳴り続け、それでも出る気配はまだない。雨に気をとられ気づいていないのだろうか。( あきら )めて一度呼び出しを切ることにした。一階に降りて玄関手前の物置をあさる。以前、俺用にと買ってもらったレインコートを引っ張り出し、いつでも出られる準備をした。


 ピロリンと音が鳴り急いでスマートフォンを見る。


『どうしたの?』


『電車止まったらしい。そっち大丈夫?』とすぐに送る。すると着信音が鳴り出したのですぐさまとった。


「もしもし、大丈夫か?」


「んー。ちょっときついかな……。いまちょうど駅に着いたんだけど、電光掲示板にちょうど出てて……。動いても間に合わないかもなぁ……」


「塾から連絡来てないか?臨時休校って」


「まだ……」


 その言葉を聞いて俺は決心した。


「今から迎えに行くから、どこか身体を休める場所に避難しとけ。身体冷やして寒いだろうからあったかいの飲んどけ」


 彼女からの返答を待たず、すぐに切る。


 貴重品をもってレインコートを羽織( はお )り、傘をさして家を飛び出した。外に出れば、やはり雨は強まっており、下校時よりも傘にかかる重量が増えた気がした。この中をリサは歩いたのかと顔をしかめた。レインコートを羽織っているために身体を動かしづらく、あまり素早く動けない。移動しているうちにだんだんと蒸れてきて早速背中に汗の感触を覚え、額からも汗がしたたり落ちた。


 商店街を潜り抜けやっとの思いで駅に辿り着く。駅舎の中に避難して一度スマートフォンを取り出した。見れば何度か着信が来ていたようだ。電話をかけても出ないと思ったのか一通だけメールが届いていた。件名を見ると『喫茶店に居る』と書かれてある。店の名前を確認し、その店へと向かった。


 あまりにも重い雨に、駅から飛び出した人たちはみな寄り道する間もなくそそくさと家路( いえじ )( つ )いている。その様子をなんとなく頭にとどめていると案の定とでもいうべきか、リサがいるはずの喫茶店の中は人が少なかった。あとで強まる風を心配して雨宿りすることも( あきら )めたのだろう。そのおかげで塾の教材を開いて時間を潰しているリサを見つけるのにそれほど手間取らなかった。


「お待たせ」と立ちながら声をかける


 リサはゆっくりと顔を上げて俺の顔を見る。心なしか安堵( あんど )しているように見えた。


 広げた教材を見て


「しばらくここにいるつもりか?」


と尋ねると小さく頷いた。


「まだ休校の連絡来てないから。電車が動いたらすぐ出ようと思う。遅刻するかもだけど」


 そんな地を( は )ってでもなんて思う必要ないんじゃないかと思ってしまう。


「多分電車は動かないぞ?河川が氾濫危険水域に達した影響での運転見合わせだから」


 すると目を見開いてそれから視線を窓の外へと向けた。「そっか」と言いながら。


「だったらもう少しだけ付き合ってもらえる?私だけ飲んでるのも気になるから何か買ってきてよ」


 そう言われて、傘だけを置いて言われるがままにレジへと向かった。一番安いブレンドコーヒーを頼んで席へと戻るとリサはなぜか塾の教材を鞄の中へと閉まっていた。


「勉強しないのか?」


 テーブルにコーヒーを置き、レインコートを脱いで椅子にかけながら思ったことを口にする。


「せっかくジュンお兄ちゃんが来てくれたのにおしゃべりしないなんてもったいないでしょ?」


 ニヤリとほくそ笑む彼女を見て、ほんの少しだけ機嫌がよくなったように見えた。からかいで言われたはずなのにジュンお兄ちゃんという言葉を久しぶりに聞いてほっとしていた。


 ホットコーヒーの入ったマグカップを手に取り口に含む。苦さに思わず顔をしかめてしまった。その表情を見たリサは


「なに頼んだの?」


と聞くので


「ブレンドコーヒー」


と返す。


「他の頼めばいいのに……。なんで無理して頼んだの?」


「一番安かったから」


 それを言うとリサは眉間に皺を寄せた。


「飲みたいもの飲めばいいのに……。カフェで無理してコーヒー飲む理由なんてないでしょ?私なんかココア飲んでるよ?」


 飲みかけのマグカップを手に取ってその中身を俺に見せつけた。


「いや。あまり喫茶店とかカフェとか寄らないからなに頼めばいいのか分かんねえ……」


 それを聞いてリサは驚いた表情を浮かべて


「なんで?」


と聞いてきた。質問の意味が分からず


「なんでって何が?」


と聞き返す。


「コーヒーとか紅茶とか飲みに寄らないの?」


「中学時代とか友達に誘われたときに寄ってったけど、基本的に俺は頼まなかったぞ。家で飲んだ方が安いからな」


 それを聞いてなぜだかリサは唖然( あぜん )としてしまっていた。


「逆にお前はよく寄るのか?」


と尋ねると


「うん」


と声と一緒に首肯が返ってくる。


「勉強とかする時によく使う」


「……勉強なんて家で出来るだろ?」


 思わず言葉が漏れた。その言葉にリサはバツの悪そうな顔を浮かべて目を( そ )らす。


 返答はこず、しばらく沈黙が続いた。何も言いたくないのだろうか?それとも何を言えばいいのか戸惑ってるのだろうか?外の雨音が鳴り響く中、暖かい店内で少しずつ冷めていくコーヒーの香りが鼻に届く。


「ジュンくんって勉強好き?」


 突然声をかけられて、慌てて彼女を見る。


「別に好きでも嫌いでもないけど」


と自信なさげに返した。意識的に好きになったことはないけれども、意識的に嫌いだとも思ったことはなく、その回答は妥当だと思っている。


 リサはその回答に「ふーん」と( つぶや )いてから、


「私は好きな勉強と嫌いな勉強に分かれるかな」


と答える。


「自分で本を読むのは好き。新書とか理工書とかそういうの読むのは楽しい。でも学校の勉強とか塾の勉強とかはあんまり好きじゃない。重箱の隅を楊枝( ようじ )で洗うみたいで」


 学校でのリサからも家でのリサからも想像できないような辟易( へきえき )とした表情で語られたので、思わず驚いて緊張してしまう。そんな彼女に対して俺が言えることなど「そっか」だけだった。


 彼女は俺にそれ以上の返答を期待していたのだろうか?それとも彼女自身はそれだけ言いたかったのだろうか?それから彼女はめっきり何も語ってくれなかった。


 時間ばかりが過ぎ、もうじき六時を迎えようとしたところで聞きなれないメロディーが店内に流れた。一体どこからかと思えば、リサの( かばん )の中からだったようで、恐らくメールの受信メロディーだったのだろうか、彼女は手にスマートフォンをもって画面を眺めていた。


「やっと休校連絡が来たよ。おそいな~」


 そのときのリサは何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべていた。

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― 新着の感想 ―
[一言]  男前……。  ただじゃ起き上がりませんね!  しかし……、台風ではないですが、このところの状況と重なっているのです……。(今更……)
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