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電車に乗り、最寄り駅に着き、再び強い雨にさらされてリサと共になんとか家に辿り着く。リサは玄関に入ると安堵したように
「着いた」
と呟く。靴を脱ぐよりも先に鞄からスマホを取り出してメールを見ていた。
「……まだ連絡来ない」
悲観したような表情を浮かべ、玄関先で腰を落とした。
「大丈夫か……?」
「うん。一回ここで休む」
俺は玄関から上がり、風呂場へと向かう。風呂場にしまってあるバスタオルを二つ手に取り、リサの元へと戻った。
「とりあえず髪と身体拭いとけ。風邪ひくぞ?」
リサは何も言わずにタオルを受け取り、雨に濡れ風にあおられてぼさぼさになった髪を拭いた。
「ここに居ないで、部屋で着替えたらどうだ?」
「うん」
力のない返事が来る。いつものリサの快活さを感じない。相当憂鬱な気分に苛まれているようだ。
なんとか玄関から上がらせ、部屋へと送る。
「ちゃんと着替えろよ」
と忠告して、俺も自室へと戻って着替えた。雨があまりにも強かったため、下着までずぶ濡れだ。一度裸になり、タオルで全身をくまなく拭ってから、新しい下着と私服に着替える。脱ぎ捨てた下着と制服を抱え、一階へと行き、下着とワイシャツは洗濯籠に、ブレザーとズボンは一階のリビングに干して、エアコンの暖房をつけた。
キッチンでお湯を沸かしているところで階段から人が降りる音が聞こえ、膝上まで丈のある白シャツを、そしてそれだけを着たリサが姿を現す。彼女の手にはブレザーとスカートが握られていて、俺と同じようにリビングに干した。それからすぐ傍の椅子に座り、テーブルに腕と顔を投げ出した。
「調子悪そうだな」
と心配げに聞くと
「憂鬱なだけだよ」
と返される。
「そこまで憂鬱になら行かなきゃいいだろ」
と塾に行くのを考えなおしたらどうかと言ったが
「まだお父さんから連絡ない」
と一言返ってきただけだった。
どう接すればいいのか分からず溜息を吐いたところでちょうどお湯が沸いたので、コップ二つを並べて、お湯を入れ、暫く外に出して冷やした。
窓を叩く雨の音に交じってカツカツとリビングの時計の針が音を鳴らす。耳をすますと帰りの時よりも風が強くなっているのか、時々ビュンと音が鳴った。お互いに話す話題もなければ話しかける気力もなくテレビをつける気もなかった。
火傷しないくらいまでお湯の温度が下がったところで、リサの下にコップを持っていく。
「これ飲んで温まっとけ」
「ありがとう」
身体を起こしてコップを受け取り、ごくごくと飲む。「ふぅ」と小さく溜息を吐いて空になったコップを俺に返した。
「ごちそうさま」
本当にどうしたのだろうか?彼女から醸し出される雰囲気は不機嫌と形容するには不適切だけれども、放心に近いものでよろしくはなかった。もしかしてと思い聞いてみる。
「塾、嫌いなのか?」
「嫌い」
リサははっきりとそう答えた。ついこの間、ノボルさんに遠慮して塾に通わないという選択肢はとるなと忠告した人物が口にするセリフとは思えなかった。窓が殴られる音がさっきよりも大きくなった気がした。
「それまたどうして」
「なにもないから」
その答えの意味に皆目見当がつかず、まじまじとリサの顔を覗き込んだ。俺の視線に気づき、疲れた表情のままリサが俺の顔をまっすぐ見る。
「得るものがないのよ。お金払ってまで通って、結局入試問題以上の知識が手に入らないの。学校とは別に塾まで通って、私、何してるんだろって虚しくなるの。学校の同級生とかだったら十年二十年経ったときに行く大学が違ってても同総会で会えるじゃない?でも塾の同級生なんて同じ大学にでも行かない限り同窓会なんて開かないし、多分一生忘れる。新しい知見が手に入るわけでもないし、一生涯の友達が手に入るわけでもないし、卒業した後に縁がなくなる塾の先生の話を聞くだけの場所。そんな場所のためにお父さんにお金を払わせてるって考えると本当に虚しくなって……」
彼女の愚痴は彼女独特の重みがあるように感じられた。それでも、彼女がそこまで憂鬱な気分に陥っている原因は、それだけではないような気がした。
ふと今月に入ってからの彼女のスケジュールを思い出す。いつも通り高校に通い、いつも通り塾に通う。部活動にも定期的に参加している。そして文化祭に絡んで増えたクラス委員長の仕事にも取り組んでいる。
既に限界だったのではないだろうか?
そう限界に感じている中での今日の台風。強すぎる雨、そしてこれから強くなるであろう風に彼女の気力まで削がれてしまったのではないか?精神的に疲労している中での天候不良は人を鬱屈な気分にさせることがある。今日のリサはそれが顕著に表れてしまったようだ。
こういう時、俺はどう慰めていいのか分からずしどろもどろになってしまう。一緒に暮らし始めてからもうじき二ヶ月経つが、こういうときに家族らしいことをしてあげられない自分になんとなく嫌気がさす。リサのために何もできていない。
ふと彼女の鬱屈の理由にもう一つ思い当たるものが出てきた。それは二ヶ月前であればなかった要素。その要素の存在に気づき、リサに問いかける。
「俺がこの家に居てやっぱり負担になってるか?」
俺の問いかけにすぐに反応しなかった。けれどもそれは質問をすぐに理解できなかったからのようで、暫くするとこちらに顔を向け、何やら慌てたそぶりで
「そんなことはない!」
と必死になって否定していた。その必死さがかえって負担になってるのではないかと感じるのだけれども。
「俺がこっち来る前のお前はそういう弱音を吐くタイプには見えなかった」
「そんなの決まってるじゃん!家族に見せる顔と家族以外の人に見せる顔は違うんだよ!ジュンくんがこっち来る前は家族以外の人だったからそういう弱音を吐かなかっただけで、今のジュンくんは家族だから今弱音を吐いてるだけなんだよ!そんな風に曲解されちゃったら、私ジュンくんに弱音も吐けないよ……」
必死に訴えかける途中、目尻から一筋の水が流れ出ていた。雨で濡れた部分はタオルで拭ったはずなのに。
リサのその涙を見て、俺はたじろぎ動けなくなってしまう。
ああ、どうしたら彼女に元気になってもらえるのだろうか……?




