3.朝からいちゃいちゃしてんじゃねえ。
達巳がヴォルホークとミレアと出会った少し前、カーテンの隙間から差す朝の陽ざしに青井芽実は目を覚ました。
上体を起こし、腕を上げて体を伸ばす。まだ残る眠気を体から追い出す。
「また1日が始まるんだ……」
カーテンを開けて、窓の向こうの空を憂鬱に眺めた。
芽実は去年、志望大学に落第した浪人1年目の少女である。再受験のため勉強に励んでいるが、勉強漬けの日々にモチベーションはズルズルと低下していった。
憂鬱な気持ちばかりが募り、このところ食欲も無く、寝ても体が休まった気がしない。
「なんで朝なんて来るんだろ」
大きなため息を漏らしながら、日の光に目を細める。この日差しさえ鬱陶しい。
自室から出て、寝巻にしているジャージのまま居間まで移動する。朝食を摂るために冷蔵庫へ近づくと、そばにある机の上に置いてある一枚の紙に気付いた。
『回覧板まわしておいてね。今日もどうせ暇なんだから』
「……」
狙ったのか、そうでは無いのか。いちいち伝言に辛辣なこと書くなよ、芽実は大きな溜息をついて母の残したメモ用紙を力いっぱい握り潰した。
芽実は母が好きではなかった。
何でも卒なくこなせる母は大学入試も、就職もすんなりと進んだ。二十代前半には結婚し自分を生んだが、仕事に傾倒して父に愛想を尽かされた。
母は一層仕事に精を出すようになり、自分は大した面倒をみられることは無かった。母は実家の祖母の元に戻ると、芽実の面倒は全て祖母に任せ、自分が母親らしいことをすることは無かった。運動会も授業参観も、そして卒業式にも母の姿は無かった。
代わりにそろばんやスイミングスクール、ピアノ教室と習い事だけはさせられた。きっとそれが彼女にとっては親の愛なのだろう。
母は自らが秀才だと自負していた。そして娘の芽実にも才能があるのだと言い聞かせてきた。
しかし芽実は受験に失敗した。
それから母との会話は、随分と減った。ただでさえ少なかった親子のやり取りであったが、それよりもめっきり少なくなった。
今では母が帰ってくることも少ない。芽実に興味も無ければ、仕事が楽しいのだろう。
(勉強あるし暇ってわけじゃないんだけど……)
朝食を摂っている最中も、受験生だった頃の母の言葉、「頑張れ」「出来る」「応援してるから」、それらが思い出されて朝食が全く美味しくない。
受験直前で成績がギリギリであると判断すると「落ちても仕方ない」と諦めたように言って、事実落第すれば「やっぱり」「難しいなと思ってたよ」と、分かっていたのだと語る母の表情を思い出し、芽実は胃の中を掻きまわされるような嫌悪感を抱いた。
朝食を摂る気分でもなくなり、途中で席を立った。
「あ、そういえば」
嫌なことを振り払うためにわざとらしく独り言を始める。
メッセージアプリを開いて、『木瀬梳翔』との会話履歴を確認する。
「たっくん帰ってきてるんだっけ……」
大型連休の間は達巳が帰郷する、以前に梳翔が話していた記憶がある。会話履歴を辿ると、確かに達巳が帰ってくる内容やりとりを見つけた。
芽実は回覧板を取って、外に出た。木瀬家とは仲が良く、小さい頃から交流があり、今でも連絡を取っている。
特に達巳の妹、梳翔は芽実に懐いており、今でも一緒に出掛けることもある程だった。
家を出ると自然に歩調が速くなり、朝から胸中に居座る鬱屈感が晴れるのを感じた。
達巳は芽実が小学生の頃、家族で祖父の住む黄支町に越してきた。
黄支町は子供が少なかったので、人見知りの芽実でもすぐに達巳たちの事を覚えることが出来た。
お互いが近所だったことや芽実が家に独りでいることが多かったことで、気を利かせた達巳の家族がよく面倒をみてくれていた。そのため小学生を卒業するまでは達巳ともよく一緒にいた。
中学、高校と次第に達巳と会う時間は減ったが、家を空けがちになった木瀬家の両親に代わって妹たちの面倒をみるようになったので、木瀬家との交流は途切れなかった。
(たっくんが大学に入ってからは全然会ってなかったな……)
久々に顔が見られると思うと嬉しい反面、それを悔しく思う自分もいた。胸のもやもやするが、そうさせる達巳が悪いのだと結論づける。
「せめてジャージくらい着替えるべきだったかな」
寝巻のまま外に出るのも田舎だとたいして気にされないが、服装ぐらい整えるべきだったと苦笑いする。
第一、今更この格好でだらしないと失望される間柄でもないだろうと自分に言い訳しているうちに、木瀬家の目の前にまで到着する。
「あれ、玄関あいてる」
玄関の戸が開いているので不在ではないのだろうと庭を横切り、そのまま玄関口まで足を運んだ。
「あ、たっくんだ――――――」
戸の隙間を覗き込み、硬直する。
なんと座り込んだ達巳と見たこともない綺麗な女性と体を密着させていた!
しかも顔が近い!もう唇が重なる寸前!
目に映る光景に思わず放心し、右手に抱えた回覧板を思わず落とした。
「―――ッッ」
時間が止まるとはこういうことか。たった一瞬が何時間にも感じられ、自分の体を巡る血のドクンドクンッ、と嫌に響いた。
うなじから下に寒気が背中をサッと下り、一拍置いて鳥肌が体中へ波を打つ。唇がひどく乾き、表情筋が凍りつく。
自分で落とした回覧板が地面に落下した音に驚いて、体が跳ねる。達巳もまた、回覧板の落ちた音でこちらへ振り向き――目が合った。
「あ、ぁああ朝からいちゃいちゃしてんじゃねぇえーー!!」
とにかく何か捨て台詞を吐いてやろうと芽実は絶叫して、玄関を飛び出した。達巳が何か叫んでいるのが聞こえるが、今更立ち止まれようか。
思えば何でもないただの幼馴染だったのだし、達巳が誰と何をしていようが芽実が何か言える立場ではない。でも何か言ってやりたかったのだ。
「……ッ」
我慢できずに涙が溢れてくる。
芽実は自分が嫌いだった。
人見知りの自分も、勉強の出来ない自分も、親に何も期待されない自分嫌いだ。
何も上手く出来なくて、好意を持った相手に勝手に期待して、裏切られた気になって泣いている自分が大嫌いだ。
とにかく生きるのが下手で大っ嫌いだ。
もう早く帰りたい、布団の中でみじめに泣きたい。
それどころか、どこかだれも知らない遠くに―――。
ブォォォオオオオオ!!!
潤んだ視界の外から鼓膜をつんざくクラクションの音に思わず立ち止まる。
そしていつの間にか自分が車道まで飛び出していたと気付く。
振り向くとトラックが急ブレーキをかけながら突っ込んできていた。ブレーキをかけているが、間に合いそうにない。
クラクションが響き、急接近する車体が視界を支配してゆく。
(何をやってるんだろ、私――ッ)
思わず目を閉じ、何もかも上手くいかない人生を恨めしく思った。
黒い視界の中、急に自分の体が持ち上げられる感覚に襲われる。
車に撥ねられるにしては痛みが無い。
ふわりと持ち上げられた浮遊感の後、自分の体が地面に転げ回る感覚に目を開けた。そこには自分と一緒に地面に横たわる達巳の姿があった。
「痛つつ……芽実、大丈夫か?」
「たっくん……」
達巳の腕に強く抱きしめられていることに現実感を取り戻し、芽実は自分がトラックに轢かれていない現実を知る。
少しして轢かれる直前に達巳が芽実を抱え、すんでのところで避けたのだと理解した。
「ほら立って。大丈夫ならトラックの運転手に謝って、梳翔を送るのと一緒に病院で診てもらおう」
達巳の手に引かれ起き上がる。
しかし立ち上がった芽実は自分の背中をドンッと押された。
突き飛ばされた芽実はそのまま達巳の胸にぶつかり、勢い余って達巳も体のバランスを崩す。
「兄ちゃんたち……!」
トラックを停め、二人の安否を心配して寄ってきた運転手の声が遠くに聞こえる。
達巳は芽実を胸に抱きながら、彼女を突き飛ばした“ソレ”を確かに見た。
暗い鼠色のフードをした、自分よりもやや高い背格好の男。
フードに隠れその表情をしっかりと確認できなかったが、不敵に笑っているように見えた。
突き飛ばされた衝撃で達巳と芽実は二人もろとも、道路脇の柵を乗り越えてしまう。そのまま道路横の、大雨で増水した濁流に飲み込まれる。
遠くなる意識の中で二人に向かって叫ぶ運転手の声がかき消されてゆく。しだいに意識もおぼろげになり、二人の意識は完全に水の中に飲み込まれ途絶えた。
しかしこれは、達巳の冒険の出発でもあった。